「従軍慰安婦」あるいは軍慰安所を考える上で重要な問題として軍隊内における主計の役割というものがある。
「主計」とは、いわば軍隊での経理係のことで、陸海軍共に経理学校があり、その卒業生が軍隊で主計となる。
海軍主計だった中曽根康弘元内閣総理大臣による回想録には次のような記述がある。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。」(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送センター 1978年 98頁)
そして、この証言を裏付ける史料が昨年、防衛省防衛研究所で見つかっている。それが「海軍航空基地第2設営班資料」だ。
それによれば、ボルネオのバリックパパン海軍322基地(現インドネシア)に慰安所を設置しているのがわかる。
そこには、主計長の名前として中曽根康弘の名前があり、そして
「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」
と書かれている。
その他にも、フジサンケイグループのドン・鹿内信隆が元日経連会長の桜田武との対談のなかで陸軍経理学校時代のことを次のように述べている。
「(桜田の慰安所設置の話を受けて)そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出てくるまでの“持ち時間”が、将校は何分、下士官は何分…といったことまで決めなければいけない(笑)。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要項」というんで、これも経理学校で教わった」(『いま明かす戦後秘史 上巻』サンケイ出版 1983年 40-41頁)
慰安婦問題が起こったのが1990年代。中曽根の回想録が1978年。鹿内の対談が1983年。中曽根と鹿内の回想が慰安問題が表面化する前であることから、おそらく正直にそのことを話しているであろう。もし、これが慰安婦問題が表面化した1990年代以降のものであれば、配慮してしゃべらなかったかも知れない。そう考えると、今一度、1990年以前に主計について書かれた著書や回想録などは点検し直す必要があるかも知れない。
このように、慰安所の設置・慰安婦の募集と軍の主計とは深く関わっていることがわかる。