〈1946年の正月(1946年1月1日)〉
やがて昭和二十一年の正月を迎えることになった。私たちはとぼしい財布をはたいて酒と肉を買い、貧しいながらもせめて新年を迎える仕度をととのえ、心ばかりのお礼にと、日ごろ世話になっている陳家の主人と村長、甲長(カチァン=隣組の組長)の三人を呼んでささやかな宴をもよおした。しかしこれは宴とは名のみで、土間にわらをしいた上に毛布をひろげただけの席に座り、飯盒のふたでわずかな酒を飲みかわすだけというみじめなものだった。しかし村長たちはいやな顔も見せず、こころよく出席してくれた。「何もなくて申しわけない」と挨拶する私に、村長たちは「呼ばれただけでも名誉だ」といってなごやかに歓談してくれた。
つい先日までは、彼らの上に君臨したわれわれにたいして、立場が完全に逆転したにもかかわらず彼らはけっしておごらず私たちを対等に扱ってくれた。ありがたいと感謝する前に、かつて私たちが彼らにたいしてとった態度を反省し、まったく身がちぢむ思いだった。こうしておたがいに裸同士の交際をしていると、私たち島国育ちの人間の心のせまさに比べ、彼ら中国人の奥底知れぬ寛大な心がひしひしと身にしみた。(265-266頁)
〈著者が中国人の子どもから浴びせられた言葉(1946年1月)〉
心ない子供たちは私を見ると東洋鬼(トンヤンクイ)だ、媽拉可屁(マーラカピー)だと口うるさく悪口雑言を浴びせてきた。媽拉可屁とは母親を強姦するという意味で、中国人はこの言葉を最大の侮辱としている。(266頁)