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岩淸水

心を潤す

ドレスデン空爆

2013年05月19日 14時58分41秒 | 歴史

 歴史の索引

ドレスデン空爆【岩淸水・歴史】 ドレスデン空爆
ドレスデンへの無差別爆撃

 

 


 ドレスデン爆撃(ドレスデンばくげき、英: Bombing of Dresden)は、第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ空軍)によって行われたドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。
 
4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。
 
「東からドイツに攻め寄せるソ連軍の進撃を空から手助けする」という一応の名目はあったが、実際は戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲であり、ドイツ空軍の空襲を受けていたイギリス国内でも批判の声が起こった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E7%88%86%E6%92%83

ドレスデンはそれまでにも二度空襲を受けている。1944年10月7日と1945年1月16日で、市の中心に隣接した鉄道施設を狙って多くの爆弾が落とされていたが、ハンブルク空襲などのような市内への無差別爆撃はなかった。
 
2月13日の空襲はイギリス軍とアメリカ軍とでともに行う予定だったが、ヨーロッパ上空の気象状況のためアメリカ軍機は離陸できなかった。2月13日の夕方から、合計796機のランカスター爆撃機と9機のデハビランド・モスキートが、計1,478tの爆弾(榴弾 high-explosive)と1,182tの焼夷弾を搭載し、二波に分かれて14日未明までに出撃した。13日22時14分頃(現地時間)、イギリス空軍のランカスター爆撃機244機がドレスデン上空に到着し、低空から目標を目掛けて大量の焼夷弾を投下。2分以内に1機を除くすべての爆撃機から全弾が市街に投下された。残る1機は10時22分に全弾を投下し終えた。おびただしい爆煙が上空に立ち上がった中で爆撃機隊はさらに800tの爆弾を投下したが、これは目標が見えない中成功したとはいえなかった。
 
3時間後、第二波攻撃が行われた。2月14日1時21分から1時45分の間に、ランカスター529機が8群に分かれ、高空からパスファインダー(先導機)に従って1,800tもの大量の爆弾を投下。この2回の攻撃でイギリス軍は6機のランカスターを失ない、さらに2機が帰投中に墜落した。
 

第三波攻撃は同日昼過ぎの12時17分から12時30分に行われた。アメリカ陸軍航空軍のB-17が771tの爆弾を駅周辺に目掛けて投下。さらに護衛についてきたP-51が路上を狙って機銃掃射をし、混乱に拍車をかけた。この時、ドレスデン市街は火災旋風に次々飲み込まれ、多くの市民が逃げ惑っていたところへ機銃掃射が行われた。なお、この機銃掃射については、目撃したと主張する生存者とあり得ないとするドイツ人研究者達のあいだで論争となっている[1]。
 
アメリカ軍は翌2月15日にも466tの爆弾を投下した。一連の爆撃でイギリス空軍の投下した爆弾、焼夷弾は合計すると2,978t、アメリカ陸軍航空軍のそれは783tに及んだ。数波に渡る爆撃を行ったのは、爆撃の後で市民が片付けのために地上に出てきたところを狙ってのものであった。
 
ドレスデン爆撃は基本的な爆撃手法に基づくもので、大量の榴弾で屋根を吹き飛ばして建物内部の木材をむき出しにし、その後に焼夷弾を落として建物を発火させ、さらに榴弾を落として消火及び救助活動を妨げようという意図からなっていた。こうした基本的な爆撃手法はドレスデンでは特に効果的だった。爆撃の結果、最高で1,500℃もの高温に達する火災旋風が収まることなく燃え続けた。市街広域で発火するとその周囲の空気は非常に高温となり急速に上昇する。そこへ冷たい大気が外部から地表に押し寄せ、地表の人々は火にまかれる結果となった。
 
13日夜から15日にかけての爆撃の後、アメリカ軍によってあと2回の爆撃が行われた。3月2日には406機のB-17が940tの榴弾と141tの焼夷弾を投下し、4月17日には580機のB-17が1,554tの榴弾と165tの焼夷弾を投下した。

 

 

ドレスデン空爆の死者数

ドレスデン空爆の死者数 拡大


死者の正確な人数は確認が難しく未だに分からない。

見積を難しくしているのは、爆撃当時、20万人と言われる難民や数千人の戦傷者でごった返していたからである。

当時、ドイツの多くの都市が英米軍の空襲にさらされていたほか、東プロイセン地方にソ連軍が侵攻しており、ドイツ中から多くの難民がドレスデンに滞在していた。1939年に市街とその郊外に64万2000人の住人だった人口に対し、20万人以上の避難民が市内にいたと推定される。その正確な人数は今も不明であり、死者数の推定が困難になる要因となっている。難民のうち多くが火炎の中で殺され身元が分からないほど遺体が損傷したため、または生き残ったものの役所など誰にも言わずに市内から脱出したため、難民のうちの死者数は不明である。爆撃直後の比較的しっかりした見積では、埋葬者は25,000人から最大で60,000人とされているが、歴史学者は現在埋葬者は25,000人から35,000人の間と見ており、1994年のドレスデンの歴史学者フリートリヒ・ライヒェルト(Friedrich Reichert)の調査ではこの範囲の低い方だろうと見ている。こうした研究は、ドレスデンの死者は空襲に見舞われたドイツの他都市の死者数に比べ桁違いに多くはないことを示唆していた。2010年のドレスデン市歴史調査委員会による調査結果では、死者約25,000人とされている。


 
現在の公式なドイツによる記録では、21,271人の埋葬者が登録されており、その中にはアルトマルクト(旧市街)で荼毘に付された6,865人も含まれている。当時の公式記録(Tagesbefehl 47)によれば、3月22日までに、戦争に関係あるなしにかかわらず25,000人ほどを埋葬したという。5月以降は埋葬の記録はない。後日多くの遺体が市街地から発掘されており、1945年10月から1957年9月までに1,557人分、1966年までに合計1,858人分の遺体が発掘された。ドレスデン市内が建設と発掘ラッシュだった1990年から1994年にかけては遺体は見つかっていない。一方、政府などによって行方不明として登録されている人数は35,000人であるが、そのうち10,000人は後日生存が確認されている。近年の調査では、ドイツ側による推定死者数が高く、イギリス側による推定死者数が低く見積もられているが、爆撃当時はイギリス側が被害を大きく見積もり、ドイツ側は小さく見積もっていた。

 

 

  "Bomber" Harris  source

 

ブラッカムの爆撃機(ブラッカムのばくげきき)は、ロバート・アトキンソン・ウェストールが書いた児童文学作品、または同作品が掲載された本の題名。


作中に出てくる実在の人物 [編集]
 殺し屋ハリス    Marshall Arthur Harris
 イギリス空軍爆撃機兵団司令官アーサー・ハリス卿。イギリス空軍における爆撃機運用の最高責任者で、物語の頃の階級は大将。爆撃隊の損害を顧みないかのような過酷な任務を課したことから、隊員から"Butcher"(人、虐殺者)のあだ名をつけられた。爆撃を指導した功績から1945年に空軍元帥に叙せられた。

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