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B-52 戦略爆撃機

2014年08月23日 04時41分56秒 | 米軍装備

 アメリカの飛行機

B-52 戦略爆撃機【岩水・米軍装備】 B-52 戦略爆撃機 USA 軍装備


B-52

ボーイング社が開発しアメリカ空軍に採用された戦略爆撃機。
ニックネームはストラトフォートレス(Stratofortress:成層圏の要塞)。

 

仕様(B-52H) [編集]乗員:5名(機長、副操縦士、レーダーナビゲーター、航法士、EWO)
全長:48.5m
全幅:56.4m
全高:12.4m
翼面積:371.6m2
エンジン:P&W社製 TF33-P-3 ターボファン ×8基
推力:17,000lbf(約7,711kgf)x8
空虚重量:83.25t
最大離陸重量:219.6t
最大ペイロード:31.5t
機体内燃料搭載量:174,130リットル
最大速度:650mph(約1,000km/h 、マッハ0.86)
離陸距離:2,900m
航続距離:約16,000km
実用上昇限度:16,765m
上昇率: 915m/min(海面上)
固定武装:M61 20mm ガトリング砲×1門(尾部)※現在では撤去されている。
搭載兵器
AGM-69A空対地ミサイル又はAGM-86B巡航ミサイルを20基。
Mk 82通常爆弾を胴体内に27発。翼下には18発搭載可能。

 

 

冷戦期の運用 [編集]
B-52(手前)とソ連のTu-95(中央の2機)。双方は冷戦期の戦略爆撃の主力を担った。冷戦期中、B-52は戦略パトロール任務(airborne alert duty)についた。B-52はソ連の周辺で遊弋し、核戦争の際に先制攻撃や報復攻撃を即時行えるように待機していた。

1966年1月17日1機のB-52GとKC-135A空中給油機がスペイン上空で空中衝突事故(パロマレス米軍機墜落事故)を起こした。4発の4メガトン級の核爆弾B28は最終的には回収された。4発の内2発は弾頭の起爆用の通常爆薬が爆発を起こしており、プルトニウムとウランが飛散していた。安全装置は墜落の衝撃と爆発に耐えて核爆発だけは避けられた。事故後、1,400トンの汚染された土がアメリカに運ばれた。衝突事故と土壌汚染のリスクの高さから、以降常時飛行のパトロールは中止された。2006年に事故による汚染の調査と除去についてアメリカとスペインの間で協定が結ばれた。

1968年1月22日、同じく4発の核爆弾を搭載したB-52Gがグリーンランドのチューレ空軍基地に緊急着陸しようとして海氷上に墜落した(チューレ空軍基地米軍機墜落事故)。それによる火災は放射能汚染を発生させ、除去には同年9月まで要した。

 
START I批准により、アリゾナ州デビスモンサン空軍基地で廃棄処分されたB-52。1973年10月の第四次中東戦争ではソ連がエジプトとシリア側として参戦すると表明した。対抗措置としてリチャード・ニクソン大統領は軍の警戒レベルをデフコン3に引き上げた。その一環として、メルヴィン・ライアード国防長官はB-52部隊に即時の戦闘態勢を命じ、燃料と兵器を満載したB-52がグリーンランドの周囲で上空待機することとなった。これを受けてソ連は参戦を断念した。

B-52は陸上配備ミサイル、潜水艦搭載ミサイルと共に戦略核兵器の三本の柱の一つであり続けた。また戦略パトロール任務を外れたG型の一部は、AGM-84 ハープーン空対艦ミサイルを搭載可能なように改造され、洋上哨戒を行い、ソビエト海軍の艦船に対抗した。

B-52の代替機としてB-1B ランサーが登場したものの、B-52の初期型とFB-111の代替に終わった。

ソ連崩壊後、第一次戦略兵器削減条約(START I)により365機のB-52が廃棄されることとなり、ロシア連邦は偵察衛星及び監視員によって廃棄の進行状況を監視した。

1991年にB-52は戦略航空軍団において24時間の警戒態勢から解かれた。


 実戦参加 [編集]B-52は核兵器ではなく、通常爆弾や通常弾頭ミサイルを搭載して多くの実戦に参加している。

 島嶼防衛には、超大型空母の建造を

(戦後日本の政治家が、どれだけクルクルパーかの逸話がある。なんと、B-52爆撃機は、これらの空母から発進したのだという。上の絵を見れば、その発想がどれだけトンデモなものかが、小学生にだって判ってしまう。)

 


  爆弾を投下する B-52D(1960年代)。

 

                    ケネディは、1963年に暗殺されてしまっている。   J.F.Kennedy

初参戦となったのはベトナム戦争である。1965 2 7日、リンドン・ジョンソン大統領はアメリカ軍将校殺害の報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などの北ベトナム中枢への爆撃(北爆)を命令した。いわゆる「フレイミング・ダート作戦」で、3月からは本格的な北爆である 「ローリング・サンダー作戦」 が開始された。B-52 はグアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から、北ベトナムまで長距離飛行して絨毯爆撃を行った。参加したのは主に通常爆弾を大量に搭載するよう改造したD型で、100発以上の無誘導爆弾を満載して連日出撃して行った。

 

 

                     戦争を起こして、その陰でもうける。このように、終戦後の子供向け漫画に登場していたのが、「死の商人」であった。最近はこの言葉は、それこそ死語になったのか。

 

 

 

北爆に向かう B-52 の進路や機数は、グアムや沖縄沖で操業していたソ連や中華人民共和国のレーダーを満載した偽装漁船から逐次、北ベトナム軍の司令部に報告されていた。その影響もあり、北ベトナム軍の MiG-19MiG-21 などの迎撃戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによる B-52の撃墜数はかなりの数にのぼった。だが、強力な電波妨害装置と100発を超える大量の爆弾搭載量に物を言わせたB-52による度重なる爆撃で、ハノイをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラへ大きな被害を与え、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。そもそも原爆の都市への投下とか、焼夷弾による住宅への攻撃は、無防備な非戦闘員の虐殺であり、平成の言葉で言えば「テロ」そのものである。ポツダム宣言の受諾により、日本は米軍の支配下にはいり、それ以上の軍事力によるテロは免れるようになったが、朝鮮半島や台湾では、まともな統治力の喪失により、現地の人々は筆舌に尽くせぬ災いを被ることとなった。日本は侵略国ではなく、むしろ被侵略国であったが、終戦を受け入れたことにより、「外地」 に戦争の惨禍がもたらされた。

 

 

たとえば、焼夷弾による一般住宅への攻撃は、

 

 砂の器は もろい ベレロポーンわたしの里 美術館

 

第二五條 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。

 

 この条項に明々白々、違反している訳で。
  ( ハーグ陸戦協定 ことばの説明 )

 

 

 

1968年に北爆を中止するが、その後1972 5 8日に、リチャード・ニクソン大統領は北爆を再開することを決定した。いわゆる 「ラインバッカー I作戦」 である。この作戦は、圧倒的な航空戦力を使ってホーチミン・ルートを遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府の態度を迅速に講和の方向へ向けることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別爆撃を採用した。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。特に12月18日に開始された「ラインバッカー II作戦」では、150機のB-52による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃でハノイやハイフォンを焼け野原にした。

     ノーベル平和賞

 

 

対日戦、および対独戦並の本格的な戦略爆撃や機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収め、北ベトナムは大損害を被り、国家崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民のみならず南ベトナム国民にさえ大量の死傷者を出し、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦的な意識を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに再度の北爆は国際世論の反発を受け短期間で中止されたが、アメリカ政府の目論見通り、この空爆は北ベトナム政府をパリ会談と、停戦交渉の席に引き出すことに成功した。

 

   高性能の対空ミサイルには、撃ち落とされてしまうが、唯、威嚇するだけならば、極めて有効だ。

ただし B-52 も無傷では済まず、「ラインバッカー I、II」 両作戦では北ベトナム側の猛反撃を受け、D11機、G 6機が SA-2 「ガイドライン」 地対空ミサイルで撃墜されている。特にG型は、東南アジア向けの電子戦装備を備えていた D型に対して、核攻撃用の装備しか用意されていなかったため、1218日から 21日までの短期間で 6機を喪失する甚大な被害を受けた。これを受けて、G型はハノイ爆撃の任からは外されている。

 

湾岸戦争ではディエゴガルシア島などを基地にして、無誘導爆弾のみならず巡航ミサイルも使用し、35基のAGM-86C CALCMを発射した。

その後、開発されたGPS/INS誘導爆弾 (Joint Direct Attack Munition) を搭載することにより精密爆撃が可能となり、2001年のアフガニスタン侵攻および2003年のイラク戦争でもインド洋のディエゴガルシア島から発進し、JDAMを使用して爆撃を行った。

これらの冷戦下から冷戦後にかけて行われた戦争において、滞空時間が長く多量の爆弾を搭載できるB-52爆撃機の存在は高い評価を受けることとなった。

 

 

運用の長期化 [編集]B-52は2012年現在、原型のXB-52のロールアウト(1951年)から既に60年以上、H型の最終号機のロールアウト(1962年)から数えても半世紀以上に渡り配備が続いている。G型、H型で大幅な改良を受けたとはいえ、これほどの長寿は爆撃機としてはもちろん、航空機全般の中でも極めて異例といえる。ここまで長い運用は当初から予定されたものではなかった。これはB-52の後に様々なタイプの戦略爆撃機を開発・採用されながらも、B-52を完全に代替するものではなかったことによる。

 
B-52(上)と飛行するB-1B(中)とB-2(下)。共にB-52を完全に置き換えるには至らなかった。B-58超音速爆撃機は速力でB-52を遙かに上回ったが「高空を高速で飛行し、敵の防空網を突破する」という基本戦術が対空ミサイルの発達により価値を失い、また空対地ミサイルの運用能力がないなど進歩する兵器に対応ができず、短期間で姿を消した。マッハ3の超高速爆撃機XB-70は、高コストが災いして試作のみで終わった。

B-58、B-2などは、ペイロードでB-52に及ばなかった。B-1はペイロードではB-52を上回るが、A型では爆弾倉のレイアウトがまずく、大型のAGM-86B巡航ミサイルを機内に搭載できなかった。B型ではレイアウトを変更し搭載可能となり、この機体に至ってようやくB-52の一部を代替したものの、全面的な更新には至らず、巡航ミサイルの搭載もされていない(ただしこれは第二次戦略兵器削減条約による制限も理由である)。

結局、これらの新型機は超音速飛行やステルス性などの性能を要求され「多種多様な兵器を、大量に搭載し、遠方に投入・投下する」性能についてはB-52以上の内容を要求されることはなかった。また、盛り込まれた新技術は整備・維持の困難を招き、B-58やB-2のように、アメリカ合衆国本土以外の前線基地では運用がままならない機体もあった。調達・運用コストも総じて高価で、B-52を代替するのに必要な数を揃えることは困難だった。一方、新型機がことごとく行き詰まるのを尻目に、B-52はアメリカ空軍の圧倒的な航空優勢を背景に、その搭載能力と航続力を生かし、核兵器から、大量の通常爆弾、巡航ミサイルをはじめとする精密誘導兵器と、時代と共に進歩する兵器に柔軟に対応していった。

 
B-52の搭載兵器。また、戦闘爆撃機・マルチロール機として出現したF-111やF-15E等が、かつての大型戦略爆撃機であるB-29を上回る搭載量を実現したことも影響している。F-111は当初目標の一つの制空戦闘機としてはものにならなかったものの低空侵攻可能な戦闘爆撃機としては優秀で、戦略爆撃機として発展させたFB-111という派生型まで開発されている。核兵器自体も技術の進歩により小型化され、搭載・運用に必ずしも大型機を必要としなくなったため、フランス空軍においてはミラージュ2000に核攻撃能力を付加したミラージュ2000Nに、戦略核戦力の一翼を担わせている。また機体単独で航続力を確保しなくても、空中給油によって航続距離を延伸可能になった事も、戦闘機サイズの機体で戦略爆撃任務を担う事が可能になった一因である。

より小型の機体で戦略爆撃機としての任務をほぼ代替できる以上、高価な大型戦略爆撃機を多数配備する意味は小さくなってしまった。空中給油に頼らない航続力や大型兵器の運用能力を生かした任務はニッチ的な状況に陥り、担当機種を新規に開発する必要性が大幅に薄れていく中で、現在に至るも旧式機であるB-52がコストの面において兵器としての価値を保持し続けることになっているのである。

こうして、最後の「爆撃機らしい爆撃機」B-52は有力な後継が登場しないままに生き残り、減勢しながらもなおアメリカ空軍の爆撃機戦力の一翼を担い続けている。2009年現在使用されているB-52は最終量産型であるH型の71機のみだが、アメリカ空軍は今後も延命措置などを行い現役に留める予定である。当面は2045年までの予定とされるが、さらに延長される可能性も否定できない。

初期型のB-52が現役だった頃には「機長(多くは30歳代以上)より機体の方が年上」、あるいは「親子二代でB-52に乗っている」といった例がしばしば見られたと言うが、B-52の退役が先に延びるにつれ、このような例はますます増加していくことになろう。

 

 今後の運用 [編集]
「勇敢な盾2007軍事訓練」に参加するB-52(2007年8月14日)アメリカ空軍は残りのB-52H型のうち、18機を年1機のペースで退役させる予定だった。しかし、2008年にグアム島で1機を事故で喪失した[1]ため、スケジュールは変更されると伝えられている。また、一部の機体は電子戦用機EB-52に改造される予定だが、前述の通り、爆撃機型も引き続き長期の運用が予定されている。

B-52には今後も各種の延命措置や改造が計画・立案されている。大掛かりな内容では、高バイパス比ターボファンへのエンジン換装計画があり、これは主に航続距離の増加を狙ったものといわれる。この計画の候補として現在と同じ8エンジン機にするという案と、より大きく大推力のエンジン4つと換装する案が上がっている。

例えば、ボーイング社は現在のTF33エンジン8発を、ロールス・ロイス RB211 534E-4エンジン4発に換装する案を提示しており、燃費と出力の改善によって、航続距離とペイロードの向上が期待できるとしている。しかし性能の向上が見込めるとしても、エンジン換装には多額の投資を要する(ボーイング案の場合、1機あたり3,600万USドル、71機全てを改造する場合、トータル25億ドル余)ため、現在のTF33エンジンのままで維持した方がより低コストで合理的との試算もあり、エンジン換装が実現するかどうかは不明である。

 ( wikipedia  より抄出、編集を加えた。)

 

 

 

 

 

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