⑤解放…8 月 15 日、終戦の玉音放送も聴いたが、日本政府は彼等政治犯を釈放せず拘禁し続けた。しかし、日本が敗戦を迎えても共産主義者の姿が見えないことに気付いた一人の外国人ジャーナリストが居た。フランス・アバス通信社特派員ロベール・ギランである。彼は米軍将校の制服を着て 9月の末、府中刑務所にやってきた。ギラン氏は1998年にパリ郊外で90歳でなくなっているが、当時は姿の見えない政治犯を求めて方々探し回り、徳田らが府中にいることを突き止め、彼等の救出に尽力した。ギラン氏の書いた記事は世界に向けて報道され、彼等は一躍時代の寵児となる。そして 10 月 10 日、QHQの命令で球一たちは釈放された。この時代の事とは言え、その後の東西対立のことを考えると、共産主義者が連合軍によって救出されるなどのことは誠に皮肉な事件であった。予防拘禁所はこの日を以て消滅し、その五日後には治安維持法も廃止されることになる。
徳田たちはこの日、『人民に訴ふ』と言う声明書を発表している。これはGHQの命令が出たと知ったとき、徳田が一日で書き上げた物である。これの冒頭で、日本への連合国の進駐によって日本に民主主義革命の端緒が開かれたと述べ、連合軍に感謝の意を表している。彼等は釈放の翌日、GHQのCIS(対敵諜報部)の訪問までしている。その時彼等は連合軍の事を開放軍と呼び感謝の意を表したと言う。
この年の12月 1日から、共産党第四回大会が開かれ、球一は書記長に選出される。彼は直ちに北海道遊説の旅に出る。彼は旭川・夕張などの炭坑地帯や札幌などの各都市を精力的に回り、天皇制の打倒、人民政府の樹立などを訴えた。しかし終戦間もないときであったので、演説会には妨害も多く会場には右翼が押しかけ関係者の死亡事件も起きて居る。 こんな時、何時も徳田を救出したのが連合軍のM.Pであった。
http://blog.goo.ne.jp/watashinoshowa/e/7ebbda858e9326de122b19e3cf7ff29f (記事の抄出紹介です。色づけ強調は【岩水】にて)
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年(明治27年)9月12日 - 1953年(昭和28年)10月14日)は、日本の政治運動家、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。
沖縄県名護市出身。「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、旧制第七高等学校に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学、苦学して日本大学の夜間部を卒業、弁護士になった。1920年(大正9年)、日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)にソ連を訪問。1922年(大正11年)、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加。中央委員に選出される。1925年(大正14年)、1927年(昭和2年)にもソ連に渡った。1928年(昭和3年)の第1回普通選挙に労働農民党から出馬(福岡第3区)したが落選、直後の2月26日に治安維持法違反で逮捕された。これが直後の三・一五事件のはしりとなる。徳田はそのまま獄中で18年を過ごした。
第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)10月10日に、府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見され出獄。連合軍を「解放軍」と呼んだ。日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任。1946年(昭和21年)には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選(続いて中選挙区の東京3区より以後3期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつ(旧姓金原)と結婚。
1950年(昭和25年)、徳田要請問題が発生し、証人喚問を受ける。コミンフォルムから批判を受け共産党が内部分裂(所感派の項を参照)。またレッドパージにより公職追放された。同年10月、中華人民共和国に亡命し、幹部による指導機関である北京機関を組織した。このとき、徳田は「安静にして余命4年」という健康状態であったが、この事実は幹部以外には秘匿された。徳田は引き続き党の全体方針決定をおこなうことが確認され、亡命先から地下放送の「自由日本放送」を通じて武装闘争方針を指示した。しかし、やがて北京機関内部では国際派との妥協を唱える野坂参三・西沢隆二らとの対立が表面化する。1951年(昭和26年)7月には徳田は自己批判をおこなっている。1952年(昭和27年)9月末に入院、まもなく意識不明の重体となった。1953年(昭和28年)に北京で病死。その死は1955年まで公表されなかった。同年9月13日に北京で開催された追悼大会は、3万人が参列した。
墓所・記念碑 [編集]
墓は東京都府中市多磨霊園、東京都港区青山霊園の「解放運動無名戦士墓」、千葉県松戸市八柱霊園の徳田家墓に分骨されている。多磨霊園の墓には毛沢東が徳田の死に際して贈った告別題詞である「永垂不朽」の字が刻まれ、墓碑銘の文字は周恩来が書いたものである。葬儀の際には「徳田球一同志永垂不朽」と毛沢東自身が揮毫した横断幕が中国側から贈られていたが、渡部富哉によると現在は行方不明になっている[1]。これを含め、徳田の関係資料を日本共産党は廃棄処分とし、現在も所在が不明のものがほかにもある[1]。
出身地である沖縄県名護市のガジュマル公園には、功績を記念して市によって記念碑が建立されている。記念碑には肖像のレリーフとともに「為人民無期待献身(人民のために期待することなく献身する)」と彫刻されており、かつて徳田が好んで使い、書いた言葉である。この記念碑は1998年に公費によって建てられたが、建立に際しては自民党、公明党、社会党(当時)なども政党を越えて賛成をしたが、共産党は態度を保留していた。
この他、八王子市の東京霊園には「革命英雄記念碑」があり、徳田の功績を讃えている。これは日本共産党(行動派)が独自に建てたものである。なお、徳田の妻、たつは後年日本共産党を除名され、日本共産党(行動派)に合流、同じく除名された渡辺政之輔の妻、丹野セツと共に「徳田・渡政会」を結成、相談役となった。
人物評 [編集]
「獄中18年」という経歴から共産党支持者から英雄視され、親しみやすい人柄で「徳球(とっきゅう)」のニックネームがあった一方、党内で「オヤジ」「徳田天皇」と呼ばれるような家父長的(親分子分的)指導体制であったという批判もある。特に、文化運動では、娘婿の西沢隆二の方針を支持し、〈ダンス至上主義〉といわれるほど社交ダンスを運動のなかにもちこんだ(その実態は徳永直の小説、『静かなる山々』にも描かれている)。また、宮本百合子は、1949年に、小説家を軽んじる徳田の方針に対する意見書を提出している。ただし、北京への渡航後は国際派への妥協を主張した西沢と対立し、伊藤律の回想によると「おれは長年獄中にいて世間にうといから、西沢にやわらかくほぐすよう助言させてきた。しかし、それはブルジョア思想でおれを毒する危険な協力だった。彼のため、もう一歩で一生を誤るところだった。彼と野坂(参三)は同じ思想だ。彼を日本へ帰してしまおう」と絶縁を言明した[2]。しかし西沢の送還は実現しなかった。
吉田茂とは政治的立場において全く相容れないものがあったが、意外にも人間的にはウマが合う間柄だったようである。吉田茂は晩年、随筆「大磯の松」で 「共産党の徳田球一君は、議会で私を攻撃する時はまことに激しい口調であるが、非常にカラッとした人で、個人的には好きな型の人であった。敵ながら、愉快な人物であった」と述べている。吉田茂は終戦時40日ほど獄中にあったが、その経験から18年獄中にあった徳田にある種の敬意を抱いていたとも言われている。
参考資料
http://homepage3.nifty.com/time-trek/else-net/1947.html