岩淸水

心を潤す

徳富 蘇峰

2009年02月01日 10時00分00秒 | 人物

 


徳富 蘇峰(とくとみ そほう、文久3年1月25日(1863年3月14日) - 昭和32年(1957年)11月2日)は、明治・大正・昭和の3つの時代にわたる日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。また、政治家としても活躍して、戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた。本名は徳富 猪一郎(とくとみ いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸、大江 逸郎。号は山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。

蘇峰は号である。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。文豪・徳冨蘆花の兄にあたる。


生い立ちと青年時代[編集]

文久3年(1863年)1月25日、肥後国上益城郡杉堂村(現在の熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬(とくとみ・かずたか)の第五子・長男として生れた[1][2]。徳富家は代々葦北郡水俣(現水俣市)で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」[注釈 1]のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した[1]。

蘇峰は、明治4年(1871年)から兼坂諄次郎に学んだのち、明治5年(1872年)には熊本洋学校に入学したが、年少のため退学させられ、明治8年(1875年)に再入学した。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧訳聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、明治9年(1876年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった[2][3]。

熊本洋学校閉鎖後の明治9年(1876年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。同年12月に同志社創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け[2]、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった[1]。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした[1]。

明治13年(1880年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中途退学した[注釈 2]。 蘇峰は、こののち東京で新聞記者を志願したが、志かなわず翌明治14年(1881年)、帰郷して郷里熊本で自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿してナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している[2]。

明治15年(1882年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村(現熊本市)の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設。明治19年(1886年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた[2]。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいる[注釈 3]。


『國民新聞』の創刊と平民主義[編集]


 


水俣市にある水俣市立蘇峰記念館(旧:水俣市立図書館「淇水文庫」)
大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれる英国ヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった[4]。

蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった[4]。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、明治18年(1885年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌19年(1886年)に刊行された『将来之日本』[5]に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである[2][注釈 4]。 彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。

蘇峰は明治19年(1886年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている[6][注釈 5]。 同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした[3][7]。これが蘇峰の出世作となった。

明治20年(1887年)2月には東京赤坂榎坂に姉・初子の夫・湯浅治郎の協力を得て言論団体民友社を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。『国民之友』の名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネーション』から採用したものだといわれている[8]。 民友社には弟の徳冨蘆花はじめ山路愛山・竹越与三郎・国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺・志賀重昂・陸羯南ら政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、明治21年(1888年)から翌22年( 1889年)にかけては、大同団結運動支援の論陣を張った。また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』[注釈 6]を明治26年(1893年)に発刊するなど社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった[3][9]。

その一方で蘇峰は明治21年(1888年)、森田思軒・朝比奈知泉とともに「文学会」の発会を主唱した。「文学会」は毎月第2土曜日に開かれ、気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後、1人ないし2人が文学について語り、また、参加者全員で雑談するという会合で、坪内逍遥や森鷗外、幸田露伴などが参加した[10] 。

明治23年(1890年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった[2]。さらに蘇峰は、明治24年(1891年)5月には『国民叢書』、明治25年(1892年)9月には『家庭雑誌』、明治29年(1896年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東』The Far East )を、それぞれ発行している[1]。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた[4]。蘇峰は、『國民新聞』発刊にあたって、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 幸運日記1000万人移民計画の罠 | トップ | 徳田 球一 »
最新の画像もっと見る

人物」カテゴリの最新記事