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ルメイ

2008年01月16日 05時00分00秒 | 人物

人物の索引

ルメイ【人物】 1906 ~ 1990 ルメイ 日本のスターリン主義

 

カーチス・エマーソン・ルメイ

Curtis Emerson LeMay, 19061115日 - 1990101
第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の、軍人の制服を着た、テロリストである。
戦時国際法を蹂躙した、民間人殺傷の爆撃の先鞭をつけた極悪人

東京大空襲を初めとする日本の焦土化作戦で無辜の民間人を何十万人も殺した、
本当の戦犯である。

飢餓作戦を立案実行した。後に、空軍参謀総長になった。軍人などではなく、殺人鬼のゴロツキである。


ルメイは1906年11月15日にオハイオ州コロンバス市で6人兄弟の長男として生まれた。父は職業を転々とする放浪者であり、母は教師であった。地元オハイオ州立大学に進み、在学中に陸軍予備役将校訓練課程を修了。大学を中退し国境警備隊を経て陸軍に入隊した。幼少時代より飛行機乗りに憧れており、1929年にパイロット資格を取得し、その後爆撃飛行隊に所属した。

 

 

 

第二次世界大戦 [編集]

第二次世界大戦にアメリカが参戦したとき、ルメイは新設された第305爆撃隊の指揮を執る陸軍航空軍少佐だった。彼は1942年9月から1943年5月までイギリスにおいて第8爆撃軍団傘下で航空軍大佐として同隊の指揮を執り、爆撃編隊のフォーメーション改良において功績をあげた。のちに第4爆撃航空団を率い、1943年9月に同航空団が第3航空師団に再編成されたときにはドイツのレーゲンスブルク爆撃の功績により准将に昇進、その最初の司令となり、1944年3月には少将に昇進した。

ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対して次のようにも述べている。「君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいのなら、そんなものは忘れることだ」(ドイツ空襲の意見を聞かれて - E・バートレット・カー著・大谷勲訳『戦略・東京大空襲』)。

1944年8月20日には、イギリス領インド帝国のカラグプルに司令部を置く第20爆撃集団司令官に赴任、同じ連合国イギリスや中華民国と共同で行う対日作戦として、中華民国の重慶に設けられた基地からの八幡製鉄所爆撃に携わった。その後いくつかの爆撃作戦を経て、1945年1月に、第20空軍[1]隷下の第21爆撃集団司令官に赴任し、1月20日に直前に連合国軍が日本軍から奪い返したグアムに到着した。

 

屠龍 (とりゅう) 屠龍

第21爆撃集団司令官時代、ルメイは対日作戦として、1945年に至るまで殆ど無傷のままであった日本の大都市の無差別戦略爆撃(絨毯爆撃)を立案した。そもそも、第21爆撃集団への異動の理由は、前任者であるヘイウッド・ハンセル准将の精密爆撃作戦が効果が薄いと判断し、航空隊司令官ヘンリー・アーノルド大将自らの指示により行われたことによる。また、青木慶一によれば、アーノルドの参謀総長を務めていたローリス・ノースタッド少将も民家焼夷攻撃論者であった。1945年1月3日の名古屋空襲ではノースタッドは焼夷弾による無差別攻撃を命じたにも拘らず、ハンセルは従来の工場攻撃に重点を置き、焼夷弾爆撃は一部の機体に試行的に実施させたに過ぎなかった。このことが、ルメイへの交替を決心させる契機となったという。ルメイも当初は工場爆撃を主とする考え方に与する立場であったが、ノースタッドの命令を忠実に実行する意思は持っていた。

B-29を空飛ぶ要塞などと喧伝するのは、事実を隠ぺいし彼らの国際戦時法違反を、ごまかすための出鱈目にすぎない。

実際二式複戦を装備する飛行第4戦隊や飛行第5戦隊、飛行第53戦隊といった部隊が戦果を挙げたことを見なければ、なぜ米軍が非道な民間人ばかり狙った、高度からの焼夷弾攻撃を敢行したのかが判らなくなる。樫出勇大尉などはB-29を26機も撃墜している。屠龍など日本機の弱点は、高空まで到達するのに時間がかかること。それで米軍は卑怯にも、無差別に民間の木造住宅に火をつけるべく、焼夷弾を大量にばらまいた。

 

 

 



この時ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、次の4点である。
1.高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする。
 (この記述は実際は、高高度からの住宅への爆撃による、卑怯な民間人殺傷が、多く行われていたことを、明確に示唆している。)
2.爆弾は焼夷弾のみとし、最大搭載とする。
 (つまり、民間住宅を焼き払うことが、最大の目標であり、明々白々の国際戦時法違反である。)

 

                参考資料 ハーグ陸戦協定

 

3.搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す。
4.攻撃は夜間とする。

さらに、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発した。

またルメイの「低く飛べ」と言う命令に兵士が「(対空砲で)撃墜されます」と言うと、ルメイは葉巻を真っ二つに噛み千切り、「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と怒鳴ったという。

このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。

( などと、Wikipedia の編集者は書いているが、これを書いたものは日本人とは思えない。気違いで血に飢えた殺人者の支配に屈して、あらぬ戯言を書き連ねる、特亜の変質者なのだろう。)

 

   B-29 爆撃機 B-29 爆撃機 アメリカの飛行機

 

日本本土における対空砲をはじめとする防空網が貧弱であったなどと、特亜の変質者は書いてはいるが、B-29 の多くは帝国軍の砲火に遭遇し多くが撃墜されたり、被弾して損害を被っている。

本土防衛のための防空戦闘機が数少なくなっていたことがこの成功を助ける結果となった。とか 気違い が書いてはいるが、戦時国際法を無視した殺人を、「成功」などと書けるのは、カネで貞節を売りとばした売女そのものではある。それも、たぶん女ではなく男がこれを書いたとすれば、卑劣極まりない。

 

標的となった日本の都市は、工廠を含む軍需工場、民家の区別なく徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受けた。

このように書かれているのも、真っ赤な嘘で、B-29は要撃を恐れて、軍事目標には近づきさえも出来なかった。

 

焦土化作戦は東京や大阪、名古屋等の大都市を焼き払った後は、富山市や郡山市などの地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、

(これを書いている、餓鬼は特亜の工作員なのだろう。)

 

 

東京が 火の海 東京が 火の海

日本側から「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」と渾名された。この点は南北戦争時の海への進軍とその後の北上進撃で南部諸州の盟主だったジョージア州やサウスカロライナ州を壊滅させ、南部人を震え上がらせた同じオハイオ州出身の北軍のウィリアム・シャーマン将軍の戦争の考え方を踏襲している。「風と共に去りぬ」でも描かれているが、シャーマンはアトランタの街を焼き払った。

 Sherman's March to the sea through Georgia



陸上の物流の主役であった国鉄を始めとする鉄道網に対してはルメイの他陸軍航空隊が明確に主目標に据えたことは殆ど無く、組織的な鉄道網攻撃として実施したのは1945年8月15日の岩国機関区に対する爆撃が唯一であったとされる。また、青木によれば第21爆撃集団は当時日本国内で数地区に集中していた炭田への集中爆撃も実施しなかった。つまり鉄道の要衝とか、炭田には当然のこと、要撃体制が整えられていると予想された。戦争のゴロツキはあくまでも卑怯で、砲撃や迎撃戦闘機の手薄なところばかり狙って、火をつけて回った。火をつけて焼き払う。そのあとで盗賊が押し込んでくる。これがアメリカ軍の実態だ。

 


第二次世界大戦後

第二次世界大戦後にその功績を認められ空軍中将に昇進し、その後ソ連をはじめとする東側諸国との間の冷戦下において、戦略航空軍団司令官と空軍参謀総長を歴任した。彼が昇進したことを見ても、アメリカ政府はこの悪逆非道な、「人道に対する罪」の果敢な計画実行者のことを恥とは思っていなかったことが、見て取れる。

爆撃機開発の責任者としてヴァルキリー計画を指揮。当時の主力機であるボーイングB-52爆撃機や、世界初の超音速爆撃機であるコンベアB-58爆撃機の後継機となる超音速爆撃機の開発を指揮する[7]。

キューバ危機勃発時、ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると確信し、、キューバ空爆をジョン・F・ケネディ大統領に提案したが却下された。実際にはキューバ危機の時点ですでにキューバには核ミサイルが数十基配備済みであり、この提案は第三次世界大戦を招きかねない完全に見当違いなものであった。

 

 


佐藤栄作 佐藤栄作


勲一等旭日大綬章叙勲

ルメイは1964127日朝勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。

別の見方をすれば、アメリカから F-104j 戦闘機など多数を買い入れた。日本政府要人にはそれなりの見返りがあって、それに対する感謝の気持ちをあろうとか、天皇陛下の威光を借りて表現しようとしたのだった。

 

  124日の佐藤栄作内閣の

  閣議で決定された。


叙勲は航空自衛隊創立10周年に浦茂が招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている[11]。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる[12]。防衛庁から佐藤首相、賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった[13]。ルメイは7日に防衛庁で小泉長官を訪問予定であった[14]が当日は三輪事務次官が挨拶を受けている[15]。勲一等の授与は天皇親授が通例であるが、昭和天皇はルメイへの親授を拒否された。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである[16]。

ルメイが東京大空襲、原爆投下に関係していることから授与に対し批判も大きい。当時、社会党、原水禁止団体、被爆者から国民感情として納得できないという声が上がった。[17]国会でも叙勲に対し疑問視する声があった。[18]



東京大空襲や原爆から

叙勲は不適切ではないか

という質問に

     (昭和帝は、ルメイに対する勲章の親授を、拒否なされている。)

 

佐藤栄作首相は 「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也長官は 「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」 と説明している。佐藤首相もそういった資料をもとに決定を変える意思はないと表明した。後年 『NHK特集 東京大空襲』 でのNHKの取材で戦争責任についての問いに、ルメイは勲章を示して見せている。



様々な俗説があり、橋本登美三郎官房長官が小泉防衛長官と叙勲決定のため動いていたとする説[20]、池田勇人前首相が叙勲決定を行ったとする説(しかし決定は佐藤栄作内閣のもとで行われ、池田は参加していない[21]。)、源田実議員(元航空幕僚長)が推薦などを行ったとする説(しかし推薦、選考などは行政(内閣)で行われ、源田は参加していない[22]。)などが存在する。

 

 

ベトナム戦争

ジョン・F・ケネディ政権時代の1960年から本格化したベトナム戦争では空軍参謀長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語し北爆を推進した。なお、リンドン・B・ジョンソン政権下で実際に北爆が開始された1965年に除隊した。

 

 

退役後 [編集]

1965年2月に退役。1968年には、ベトナム戦争の推進を支持し、人種差別的な綱領を掲げた前アラバマ州知事、ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Part) の副大統領候補として出馬するが落選。1990年10月1日没。

1957年11月11日 KC-135による無給油連続飛行世界記録樹立を指揮し、年度優秀パイロットに贈られるハーモン・トロフィーを受賞している
(wikipedia)

 

 

 

参考記事のご紹介

カーチス・E・ルメイ大将の勲章 居酒屋でする話 

2013-07-19  米国の戦争犯罪「東京大空襲」| 【子供には読ませられないブログ】 

 

 

 

 

2014 05 15 小泉売国政権の後継者 小泉売国政権の後継者

 

 

 

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