F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)。
F-100 スーパーセイバーに始まるセンチュリーシリーズの一員とされ、また、第2世代ジェット戦闘機に分類される、アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機。初飛行は1954年2月。
細い胴体に短い矩形の主翼を持つ小型軽量の機体にゼネラル・エレクトリック社の強力なJ79型エンジンを一基搭載している。その卓越した高速性と形態はミサイル(当然無人である)を彷彿させ、日本やアメリカにおいては「最後の有人戦闘機」とも称された。
アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、中華民国(台湾)や西ドイツなどアメリカの同盟国や友好国を中心に、世界15ヵ国で供与・運用された。1960年代に勃発したベトナム戦争のほか、第二、第三次印パ戦争等の実戦に投入された。
高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、南ベトナムや大韓民国、フィリピン、南アメリカ諸国をはじめとする発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。初飛行後から半世紀を経た2004年、イタリア空軍に所属したF-104S退役を最後に全機退役となった。
ロッキード社の設計者であったクラレンス(ケリー)・ジョンソンは、実戦を経験した戦闘機パイロットによる戦闘機への要望の調査の為に、朝鮮戦争最中の1951年12月に韓国を訪問した。当時、アメリカ空軍のF-86パイロットの前にMiG-15戦闘機がソ連の援助により投入された時期にあたる。 その結果、ジョンソンは複雑な構造を持つ大型の機体ではなく、Mig-15の様に必要最小限な装備を搭載し軽量化された機体が必要とされていると結論付けた[2]。
アメリカに帰国後、ジョンソンは早速航空機のデザイン作成に取り掛かった。1952年3月にジョンソン率いる開発チームは、数種類の航空機スケッチを描いた。デザインを重ねるごとに機体スタイルは洗練され、重量が50,000lb(23t)の大型のものから、8,000lb(3.6t)という小型機のデザインに変わっていった。
同時期、アメリカ空軍もMiG-15 との戦訓から、出来る限り軽量な機体に強力なジェットエンジンを搭載し機動力と高速性を高めた戦闘機を欲していた。そして、迎撃戦闘機の開発要求を1952年5月に国内のメーカーに提示し、ジョンソン率いる設計チームスカンクワークスは小型軽量機の開発計画案を1952年11月にアメリカ空軍に提出した。ロッキード社の案にアメリカ空軍は大変興味を示し、他社の開発案との比較の結果、ロッキード社が1953年3月12日に開発の契約を結び、2機の原型機発注が行われた。
当初、開発中のJ79型エンジンの搭載を予定していたが、試作機作成に間に合わなかったため、J65-B-3型エンジンを搭載することとなった。試作1号機であるXF-104(53-7786)の製造は、ロッキード社カリフォルニア工場で1953年より開始された。1954年に機体が完成し、3月4日に初飛行を行った。試作2号機(53-7787)の製造は、1953年秋に始まっている。
1954年3月30日にはエンジンをYJ79-GE-3に換装し、強化したYF-104が17機発注されている。なお、YF-104は1955年4月27日にマッハ2を記録している。
エンジン
F-104は固定吸込コーンを備え超音速飛行に最適化された胴体横の取り入れ口を持ち、ゼネラル・エレクトリック社J79ターボジェットを搭載した。このエンジンを搭載したF-104は、最高速度マッハ2.2に達するに至っているが、これはアルミニウム機体構造やエンジン流入温度制限による制限によるものであり、推力は最高速度域でもまだ余裕を残していた。F-104A搭載のJ79-GE-3A型エンジンは、アフターバーナー時の推力が6,715kgという当時としては群を抜く推力を発揮し、後期のモデルは推力と燃料消費量ともに改善された改良型を搭載した。特に耐熱限界を向上させたJ79を搭載したイタリア空軍のF-104Sは、最高速度マッハ2.4を発揮するまでに至った。
日本 [編集]
概要
第2航空団第203飛行隊所属のF-104J(1982年)
日米共同訓練「コープノース83-1」に参加するF-104J(1983年) 航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良したF-104J、および複座の練習機F-104DJを採用した。日本にとっては、独自で機体選考を実施した最初のジェット戦闘機ともなった。航空自衛隊では栄光という愛称を持つ。三菱重工業がライセンス生産を担当し、細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もある[9][10]。F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役した。 導入経緯 T-33A導入で日本への足がかりを築いたロッキードは、アメリカ空軍での採用以降、空軍からデータが公表されると共に、防衛庁に対して売り込み始めた。アメリカ本国における大量調達の芽が無くなったものの、F-86の後継としてF-100の採用を狙うノースアメリカン社との販売競争が行われていた。 防衛庁は1957年(昭和32年)に次期戦闘機(F-X)調査団を米国へ派遣した。 増強が進むソビエト空軍の爆撃機を意識し、以下の要求を満たす戦闘機の選定を行った。日本としては初めての機体選定作業となった。 マッハ2クラスの速度
高度15,500mまで約8分以内に到達
最大上昇限度が18,000m
戦闘行動範囲約380km
以上の要求に当てはまる戦闘機はF-104、F-100、N-156F(後のF-5)、F-102の4種となった。F-104は実機が完成し初飛行を成功させてはいたが、アメリカ空軍での配備はまだであった。F-100は当時のアメリカ空軍主力戦闘機、N-156Fは計画機、F-102はもっとも高価な機体であった。これらに加え、米国防総省から予定に無かったグラマンG-98J-11(F11Fタイガーの発展型)の紹介を受け、調査に追加した。当時、最も有力視されていたのが、三菱重工と親密であったノースアメリカン社のF-100で、機首にレーダーを搭載した日本向けF-100Jの発表もなされた。 調査団は1957年9月13日に帰国し報告書を提出したが、結論は明記されておらず、結論は先送りとなった。この折、主力戦闘機であるノースアメリカンF-86Fをライセンス生産する三菱重工に、同じノースアメリカン製F-100Jを「つなぎ」として80機ライセンス生産させる意見も上がり、半ば決定とされていたが、F-100について当時の総理大臣岸信介に「戦闘爆撃機」と説明したために「日本に爆撃機は要らない」と一喝され、沙汰止みとなった。 1958年1月に佐薙毅航空幕僚長が渡米しF-X次期戦闘機の選定を実施し、帰国後に報告書を提出。報告書で候補機はF-104とG-98に絞られたが、米空軍に配備されたばかりのF-104の事故と、同機が3000メートル級滑走路を必要とする事、データリンクの容量不足等から、翌1958年(昭和33年)に防衛庁はG-98J-11の採用を決定[11]、国防会議で内定した。同時に佐薙航空幕僚長らが訪米し、国防総省及び空軍と交渉したが、どちらを採用しても良いとの承認を得た。 だが、G-98の内定に対して批判が起き(第1次FX問題)、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展した。1959年(昭和34年)の国防会議において、内定の撤回と再調査が決定。「乗ってみなければわからない」の名台詞を残した源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米した。G-98はマッハ1級の機体を無理にかさ上げしてマッハ2級にし、音速突破まで時間がかかり、音速突破後も機動が悪いに対し、F104は素早く音速に達し、マッハ2の最高速度域でもエンジン推力に余裕があり高い機動ができ、両者の性能差は明らかだったという。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づき、「F-104Gを日本向けに改装した型を採用する事を承認する。機数は180機、ほかに訓練用20機を昭和40年を目処として国産する」と決定した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/F-104
http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200611140014/