Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

文化への悪意ー内原恭彦『Son of a BIT』

2007年11月24日 | Weblog
内原恭彦の初の写真集『Son of a BIT』(“ビット世代”“ビット野郎”とでも訳すのだろうか)。早くからデジタルカメラを使い、その圧倒的な写真量の排出と、デジタルカメラの独自の使用法(いわゆるデジタルカメラによるイメージの軽薄さや動きの軽さとは反対に、ディテールに凝った粘り気のあるイメージ表現)によって、すでに内外から確かな評価を勝ち得ている写真家である。今回の写真集に収められた写真の多くも、すでに自らのWebサイトで発表されたものだ。これまでも何度か、内原の写真については、的外れ(?)のコメントをしてきたのだが、写真集刊行の機会に、改めて内原の写真について感想めいたものを書き記してみたい。

昨今、といってもすでに10年以上(?)になるのかもしれないが、グルスキーを筆頭としたデュッセルドルフ美術アカデミー一派の流れをくむ写真が、ある意味、日本の写真のメインストリームを賑わせているのは確かである。彼らの写真がミニマルアートやランドアート的な視点で現代の風景をとらえようとしたとすれば、内原の写真は明らかに、ポロックの抽象表現主義やラウシェンバーグのコンバイン・ペンティング的な視点で現実を再現しようとしている。アカデミックな美学への反発なのか、文化への悪意がもたらした必然的な結果なのか。

そう、文化への悪意。内原の確信犯的な視線の核となっているのは、文化への悪意にほかならない。実際、内原が切り撮る現実の断片は、東南アジアの無秩序な光景であり、スラム街であり、キッチュなオブジェの世界であり、打ち捨てられ見逃されたモノの集塊だ(ここで一言、付言しておけば、70年近くも前にグリーンバーグが「前衛とキッチュ」で明らかにしたように、サブカルチャーとは民衆の文化に根ざすものではない。ニーチェ流に言えば、支配者の美学を真似た“奴隷の美学”にすぎないのだ)。例えば、鈴木理策の『熊野・雪・桜』との雲と泥の差よ!(笑)。鈴木理策が“善き文化”への姿勢を隠さないとすれば、内原は徹底して“文化への悪意”を表明する。

小林のりおがイメージの軽さを逆手にとって写真の空虚さに焦点をあてたとすれば、内原が写真のデジタル化に見出すものは、いわば情報の過剰がもたらす“淀み”である。ケミカルからデジタルの移行は、物質的イメージから非物質的イメージへの変化という、暗黙の了解が多勢を占めている。もちろん、その言説が正当性を欠いているわけではない。しかし他方で、そうした暗黙の了解はデジタル写真がもつ別の側面を見逃すことになる。おそらく、内原はデジタル化がもたらす情報の過剰性にこそ注目する。その意味では、反・デジタル的な写真行為と言えなくもない。

写真というイメージがもつ過剰さを初めて指摘したのは、おそらくベンヤミンである。“通常のスペクトルの範囲外にあるもの”としてのディテール。全体や統一を脅かす部分の過剰さ。写真は決して客観的で正確な像を再現するものではない。むしろ裸眼を逸脱してしまう過剰さにこそ、写真の本性の一つがあった。その意味で、内原がデジタル写真に見出す情報の過剰さは、ある意味、写真の伝統に即している(かのシャカーフスキーがモダン写真の視点の一つに“ディテール”を挙げているように)と言えるかもしれない。実際、『Son of a BIT』の後半は、ディテール(モノの表面)への関心が強調されている。

ところで、晩年のフロイトは『文化への不満』という一文を書いて、快感原則と現実原則を仲介する機能としての“文化的なもの”の在り様を再考している。“善き文化”に連なろうとする鈴木理策、あくまでも“文化への悪意”を保持しようとする、遅れてきたロマンティスト、内原(内原の試みを評価しつつも、ある種、姿勢の古さ-無反省で紋切り型の二元論=ハイカルチャーVSサブカルチャーを感じてしまうのも事実なのだ)。果たして、第三の道はないのか。それが、写真集『Son of a BIT』への偽らず感想である。

追補(11月30日)
鈴木理策と内原恭彦の写真に、もし共通なものがあるとすれば、形式的な取り組みにあると言えるかもしれない。どちらも、「見たもの(裸眼)」と「撮られたもの(写真)」の視覚的差を埋めようとしている点である(例えば、内原恭彦における部分データの貼り合せ手法は、“まばたき”の再現と言えるかもしれない。通常、われわれはまばたきをしながら物を見ている。さらに鈴木理策における「見る」「撮る」という経験的次元の厳密な一致。例えば、写り込み等々)。しかし、当然ながら、その差を埋めようとする表現方法への取組みが強ければ強いほど、われわれは逆にベンヤミンが言う意味での過剰なイメージ(まるで否定神学の論理のように、近似が最大値になればなるほど逆に乖離が強調されることになる)を見出すことになる。その過剰さはまるで「見たもの」と「撮られたもの」との間に宙吊りにされた、写真ならではのイメージのようにも思える。しかし、二人の作品のベクトル、動機や意図(常々書いてきたように、ここでいう動機や意図は、人格的な作者の動機や意図といささかも関係がない。あくまでも表現された作品から推測したものにすぎない)は対極にあるように思えるのは前述したとおりである。

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