Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

写真の論理

2007年09月09日 | Weblog
対象-表現・生産・流通・消費

本講座の狙いは、視覚-表象(イメージの知)の領域における「写真の論理」を考察することにあります。ここで「写真の論理」と呼ぶのは、近代(19世紀)の発明・産物である写真というイメージ(視覚的表象)がさまざまな社会的領域(芸術表現の領域のみならず、社会一般の領域-医学、司法、報道、家庭、広告等々)でどのように使用・活用されてきたのか、従来の「画像」(とりわけ絵画の画像との比較-手と装置)とどのような違いのもとで写真がとらえられ、使用・活用されてきたのか。その使用・活用する際の、無意識であれ意識的であれ、背景あるいは前提となる考え方や動機(欲望)、あるいは使用・活用の実践を通して形成されてきた機能やメディウム性*(何かを実践する場合、その前提となる考え方-過去の歴史的・経験的な知の堆積層により形成されたもの-と実践においてはつねにズレが生じる。この「ズレの振幅」も重要な考察対象の一つである)を総称して、ここでは「写真の論理」と呼んでおきます。

前述しましたように、一口に写真活用の社会的領域と言いましても、きわめて広範囲に渡ります。むしろ、広範囲な活用領域こそが、写真の特徴の一つとも言えます。本講座では、芸術表現の領域(「芸術としての写真」「写真としての芸術」)を主軸に、「写真の論理」を考察していきたいと考えていますが、当然ながら、芸術表現領域における写真の活用は、他の社会的領域での活用と無関係ではありません。写真の芸術表現領域を自律したものとして扱っては、それこそ「写真の論理」をつかみ損ない、写真表現の批評性や可能性を狭いものにしてしまうでしょう。したがって、芸術表現の領域を考察対象としながらも、つねに他の領域との諸関係を念頭に置かなければなりません。

また「写真の論理」の考察にあたっては、従来の芸術のような「創造者」と「享受者」という二つの次元のみならず、生産(創造)・流通・消費(享受)という三つの経済的なカテゴリー的な次元の考察も必須となるでしょう。と言いますのも、写真における「複製性」とも関係してきますが、写真においては流通(メディア)がきわめて重要な役割を果たしているからです。もちろん、本講座でのコアとなる考察対象は、生産の次元になりますが、流通・消費という次元の考察を抜きにしては、生産そのもの考察も的を外れたものになるでしょう。

芸術表現領域と他の社会的領域-作品の水平性。生産・流通・消費の三つの次元-動機の垂直性。これらのさまざまな領域と次元が多層的に絡み合う面〈プラン〉-技術・思考・制度の接合=アレンジメント-において、視覚-表象としての「写真の論理」を考察していきたいと考えています。当然ながら、ここでの「写真の論理」は複数であり、可変的であることになります。


視点-批判的視覚-表象文化研究

一般の写真史ではしばしば、「写真は時代をどうとらえてきたか?」「写真は時代をどう見てきたか?」といった視点で写真表現が記述されています。あたかも写真家は時代を映し出す鏡としての証人であり、写真はその証拠であるかのように語られています。こうした歴史記述には、大きな陥穽が二つあります。一つは歴史を自然史ととらえてしまう危険性。時代は自然の推移と同じように、あるがままに進むという考え方です(もちろん実は、時の力関係によって形成された回顧的な遠近法的錯覚*にすぎないわけですが)。そしてもう一つが写真表現の記録性(「社会の窓」)というイデオロギーです。当然、そこでの写真家の位置は、時代の推移を観察する記録係にすぎなくなってしまうでしょう。

写真固有の論理の一つとして、しばしば「インデックス性(自然の秩序をトレースする物質的痕跡)」が指摘されます。しかし写真は、現実そのものの痕跡(堆積)であると同時に、表象(表現)としての現実性も備えているのです。写真は現実の忠実な痕跡であるが、現実の間隔化・二重化(充填と空白/不在と現前)を含んでいるということです。この写真の「インデックス性」については、ジャック・デリダやロザリンド・クラウスなどのパース論を紹介しながら、本講座でもさらに詳論する機会もあると思いますが、写真表現は痕跡(インデックス記号)の記号化(表象化)=記号の記号化でもあるわけです。

こうした観点に立ったとき、写真家は単なる時代の記録係ではなく、時代への批判的なまなざしを備えたアクティブな存在にもなり、時代の病巣を臨床診断する医者ともなり得るわけです。むしろ写真史は「時代にどう逆らって時代を見てきたか?(=反時代的まなざし)」「時代をどう診断してきたか?(=臨床医としてのまなざし)」と問われるべきなのです。

したがって、本講座での視点は、考察の対象である芸術表現領域における写真を、視覚-表象文化としての美的・政治的・社会的経験等々の批判的契機としてとらえていきます。

問題提起-モダニズムとポストモダニズム

前述した「視点」とも関係してきますが、本講座では「写真の論理」を考察するために、1960年代の写真と美術(芸術)の動向を「写真を新たにとらえ直す」という問題提起の契機としたいと思っています。

1960年代の写真と美術の関係に何が起こったのか。60年代、現代アートは写真というメディウムに注目していきます。その代表的なものがポップアートとコンセプチュアルアートと言えるでしょう。既成の芸術概念(モダニズム)を脱構築するためのツールとしての写真。ポップアートは「複製」という観点から、コンセプチュアルアートは「記録=非人称性」という観点から、それぞれ写真に注目していきます。その後、60年代の後半になると、視覚メディアという幅の広い射程から「写真の論理」を対象とする現代アートが登場してきます。写真サイドでも、コンテンポラリー写真やニューカラー、ニューランドスケープなど、従来の写真実践とは違ったアプローチがなされていきます(日本ではプロヴォーグや荒木たちの写真)。これを例えば、モダニズムとポストモダニズムという観点からとらえることも可能でしょう。

こうした美術における写真への接近と、写真の再考を促した背景には、写真が歴史的対象や美的対象から理論的な対象へと移っていったことが関係しているでしょう。美術サイドでは、明らかにモダニズム美術を脱構築するツールとして写真が注目されると同時に、「芸術」の社会的役割を考えた場合、写真というメディウム性はスペクタル社会を批判する理論的対象となりえたと思われます。

もちろん、こうした従来の伝統的な芸術概念の枠を外れた写真実践は、1960年代だけに起こったわけではありません。ロザリンド・クラウスによれば、60年代の「写真と芸術の収斂」は、1920年代の収斂-フォトモンタージュやシュールレアリズム-の再収斂と言われています。20年代と60年代の論理的な違いを考察することも重要ですが、本講座での「写真の論理」の考察を、この60年代(とりわけ60年代後半)の写真と美術の関係=「現代アートのなかの写真」を一つのメルクマールとして展開させていきたいと考えています。

方法-新たな問いの創造に向けて

本講座では、批判的視覚-表象文化研究という観点から、歴史的(時間的)アプローチ(写真史)も、作家論的アプローチ(写真批評)もとりません(もちろん、歴史や個々の作家をとりあげることはありますが)。批判的視覚-表象文化研究=写真理論という観点から、いくつかの恣意的(仮説的)キーワードに基づいて、「写真の論理」を考察していきます。これには一つの狙いがあります。本講座の教育的狙いは、歴史的な研究でも、作家研究でもなく、したがって「答えの獲得と習得」ではなく、写真に対しての新たな問い(見方、論じ方等々)を発明・創造するための契機とすること=批判的道具の提供にあります。また過去の写真の言説-写真がどう論じられてきたか-については、その都度、キーワードに沿って紹介・詳論していきたいと思います。

おそらく現在の写真教育には、大きく二つのタイプがあります。一つ目は、特定の産業・商業部門のための職業訓練(その多くは広告写真家)としての教育(おそらく第一のタイプを担っているのが、写真専門学校でしょう)。二つ目が「芸術としての写真」を目指すための教育(この第二のタイプが美術大学における写真教育と言えるでしょう)です。しかし、第二のタイプもまた、文化産業部門(写真展覧会や写真集など)のための職業訓練となっていると言えないでしょうか。そして、上記のような教育過程において、支配的な言説となっているのが「歴史(写真史)」と「写真批評」と思われます。このようなタイプの教育を完全に否定しようとは思いませんが、本講座ではできるだけ多くの批判的道具の提供を目指したいと思っています。おそらく表現という実践領域においても、新たな美や感覚の創造は、批判的姿勢から生まれてくると思われます。

最後に一言。過去の人はわれわれには見えない多くのものを見ていたに違いないが、一方でわれわれもまた過去の人が見えなかったものを見ているはずです。この過去と現在の交錯にこそ、未来が潜んでいると思われます。過去におもね、現在を悲嘆することなく、過去を否定し、現在を称賛しすぎることなく、生を肯定する者として未来を見つめること。

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