十七号は 24で「ふでの先がな見えてきたから」と歌うことで、おふでさきをこの号で締めようとしていることが分る。
その中で、「かんろだい」を「にほんの一の宝」。そのかんろだいをおさめる「ぢば」を「にほんの故郷」という語を用いている。「宝」は十号に一例あるが、十七号では「にほんの一の宝」と表し「一の」を加えて強調している。
「故郷」については、おふでさきではこの一語のみだから、この締めの号で、それらの語を並べるその神意を探りながら、おふでさきを読みおさめてみたい。
この道はどういう事に思うかな かんろうだいの一条のこと
このだいをどふゆう事にをもている これハにほんの一のたからや 十七 3
このだいをどういう事に思ている これはにほんの一の宝や
「にほん」、「たから」の神意をおふでさきの中に求めてみると、
「にほん」には今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ(五 38)
どの様な難し事と言うたとて 「神が真実受けとりたなら」(五40)
何事も月日の心、思うには にほんに「こふき」欲しい事から(十87)
このところどの様なこふきしたるとも これは「にほんの宝」なるぞや(十91)
またたすけ立毛一れつ何処までも 「いつも豊作」教えたいから(十二96)
このたすけ一寸の事やと思うなよ これは「にほんの一のこふき」や(十二101)
「にほん」とは、「いつも豊作」となる生き甲斐を、「自分の内」に求めたいというエネルギーに満ちた領域、またはそれを求めたいという「意識」の人のこと。ここには心の世界が展開される ― おつとめで、「胸のそうじ」をすることで、本当の自分を見つけて、価値ある自分に目覚める。そして、月日と一体であることを自覚して、「神に凭れる」生き方を定める。
「こふき」は「いつも豊作」の心を保つ起点となる、本当の自分を見つける旅立ちへの導き書 ― 「日本の一のこふき」
「にほん」と対照になるのが「から」で、自我自力を目指すが、まだ足りないからと不足分を法、術の「拝み祈祷」などと、「外」に利益を求める領域と人。ここでは人間心の物質主義が展開される。
このもとハいさなきいゝといざなみの みのうちよりのほんまんなかや 十七 6
この元はいざなぎといざなみの 身の内よりの本真ん中や
その所で世界中の人間は 皆そのぢばではじめかけたで
「にほん」と「かんろだい」の関係を
珍しいこの世はじめのかんろたい これがにほんの治まりとなる(二39)
この世の地と天とは実の親 それより出来た人間である(十54)
と、歌ったことをここで展開している。
そのぢばハせかい一れつとこまても これハにほんのこきよなるぞや 十七 8
そのぢばは世界一列どこまでも これはにほんの故郷なるぞや
おふでさきが語る「今までに無いことばかり」を話しの起点とするなら、「にほんの故郷」という語には月日のどんな思惑が潜んでいるのだろうか…
「そのぢは」は、この世と人間の真実の元始まりを、世界へはじめて明かした場所。そのぢばから発する「理り」は、この世と人類創生の親から子へのたすけ一条です。
「口は人間、心月日」からなる人間は、その親心をそっくり引き継いで育つ。その親心に応える人間の心は、月日の心のままだから、言うなれば欲の一切ない「無」が出発点となっていた。しかし、年限を重ねるごとに「人間心」が発達して「ほこり」を積み、本当の自分を見失ってしまうから、「この道」は「胸のそうじ」をして、「ほこり」、「欲の心」を洗い切って、「無」に帰することに主眼をおく ― 「故郷」〔古語辞典〕- うまれ故郷。もとの住まい。
月日にはどんな所に居る者も 心しだいにみな受け取るで
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
その中で、「かんろだい」を「にほんの一の宝」。そのかんろだいをおさめる「ぢば」を「にほんの故郷」という語を用いている。「宝」は十号に一例あるが、十七号では「にほんの一の宝」と表し「一の」を加えて強調している。
「故郷」については、おふでさきではこの一語のみだから、この締めの号で、それらの語を並べるその神意を探りながら、おふでさきを読みおさめてみたい。
この道はどういう事に思うかな かんろうだいの一条のこと
このだいをどふゆう事にをもている これハにほんの一のたからや 十七 3
このだいをどういう事に思ている これはにほんの一の宝や
「にほん」、「たから」の神意をおふでさきの中に求めてみると、
「にほん」には今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ(五 38)
どの様な難し事と言うたとて 「神が真実受けとりたなら」(五40)
何事も月日の心、思うには にほんに「こふき」欲しい事から(十87)
このところどの様なこふきしたるとも これは「にほんの宝」なるぞや(十91)
またたすけ立毛一れつ何処までも 「いつも豊作」教えたいから(十二96)
このたすけ一寸の事やと思うなよ これは「にほんの一のこふき」や(十二101)
「にほん」とは、「いつも豊作」となる生き甲斐を、「自分の内」に求めたいというエネルギーに満ちた領域、またはそれを求めたいという「意識」の人のこと。ここには心の世界が展開される ― おつとめで、「胸のそうじ」をすることで、本当の自分を見つけて、価値ある自分に目覚める。そして、月日と一体であることを自覚して、「神に凭れる」生き方を定める。
「こふき」は「いつも豊作」の心を保つ起点となる、本当の自分を見つける旅立ちへの導き書 ― 「日本の一のこふき」
「にほん」と対照になるのが「から」で、自我自力を目指すが、まだ足りないからと不足分を法、術の「拝み祈祷」などと、「外」に利益を求める領域と人。ここでは人間心の物質主義が展開される。
このもとハいさなきいゝといざなみの みのうちよりのほんまんなかや 十七 6
この元はいざなぎといざなみの 身の内よりの本真ん中や
その所で世界中の人間は 皆そのぢばではじめかけたで
「にほん」と「かんろだい」の関係を
珍しいこの世はじめのかんろたい これがにほんの治まりとなる(二39)
この世の地と天とは実の親 それより出来た人間である(十54)
と、歌ったことをここで展開している。
そのぢばハせかい一れつとこまても これハにほんのこきよなるぞや 十七 8
そのぢばは世界一列どこまでも これはにほんの故郷なるぞや
おふでさきが語る「今までに無いことばかり」を話しの起点とするなら、「にほんの故郷」という語には月日のどんな思惑が潜んでいるのだろうか…
「そのぢは」は、この世と人間の真実の元始まりを、世界へはじめて明かした場所。そのぢばから発する「理り」は、この世と人類創生の親から子へのたすけ一条です。
「口は人間、心月日」からなる人間は、その親心をそっくり引き継いで育つ。その親心に応える人間の心は、月日の心のままだから、言うなれば欲の一切ない「無」が出発点となっていた。しかし、年限を重ねるごとに「人間心」が発達して「ほこり」を積み、本当の自分を見失ってしまうから、「この道」は「胸のそうじ」をして、「ほこり」、「欲の心」を洗い切って、「無」に帰することに主眼をおく ― 「故郷」〔古語辞典〕- うまれ故郷。もとの住まい。
月日にはどんな所に居る者も 心しだいにみな受け取るで
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講