陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

上へ教えたことは  あるまい

2015-09-30 22:06:07 |  エッセイ
 おふでさき四号の111からです。
 104~110の歌は、「神」はこの世、人間の住む「地と天」の全てを守護する。「上」は人間のエゴがつくった限られた枠の中の寸時の差別社会の支配者というだけという言い方で、「上と神を分け」て、111からの本題、「上」に向けての提言の前置きとして歌った。

  このよふを初てからになにもかも 上ゑをしへた事ハあるまい 四 111
   この世を初めてからに何もかも 上へ教えた事はあるまい
今までは「上」に対しての話をことある度に、それとなくおふでさきを通して断片的に伝えてきた。今回、これまでに記したそのおふでさきを直接「上」(大和神社)へ手渡すことで、神の思いを直に伝える行動をとる(66)。

  それからハなかにハしやんするもあろ みなよりよふてはなししたなら 四 113
   それからは中には思案するもあろ みな寄り合うて話ししたなら
「上」に見せるおふでさきの内容は、世界中の人が「楽しく」暮らせるようにと願う神の親心に溢れる真理の話しである。確かに上という立場にあって、人はみな平等の魂という神の話を受け入れることは、非常に勇気がいることだろう。しかし、その全てを「受け入れる」ことで我身思案の「思考」、エゴから解放されて、人間が生れるときに宿し込まれた神の「意識」とつながることができる。
 そこに、今までは「上」と言っても、更に上の者にはへつらい、民には「上」だと虚勢を張るという、エゴがつくり上げた自分が偽の自分という氣づきが生れる。

  このみちを上ゑとふりた事ならば 神のぢうよふすぐにあらわす 四 115
   この道を上へ通りた事ならば 神の自由直ぐにあらわす
それに氣づくまでは、(民も天皇、上も平等の魂という)真理を受け入れることへのこだわり、苦しみがあるだろう。けれども、その壁を超えて一端手元に届いた真理を受け入れると、途方もない奇跡、神の自由が湧きだしてくる。受け入れることで神の「意識」、神とつながる。受け入れる苦しみが心の安らぎへと一変するという大逆転が起こる。
 そして、偽の自分はなくなり、本当の自分が立ち上がる。「上」ではない神の子、「神」へと進化する。人は決して権力だけには屈しない。人の心の深さに引き寄せられるもの。そのとき真の人を導く人となることができる。

  これきいてみな一れつわしやんせよ なにかよろつハ心しだいや 四 118
   これ聞いてみな一列は思案せよ 何か万は心しだいや
ただし、受け入れることができない人にとってはこの限りではない。「上」、偽の自分のまま調和の外の軌道を喘ぎながら走り続ける。

この世を納も上  天もかみ

2015-09-29 22:51:41 |  エッセイ
 おふでさき四号の104からです。
 「神」を「かみ」とひらがなで記していることに、何か意味があるのかは分りませんが、おふでさきでは、この歌と一号の7の歌だけ。

  このよふを納も上天もかみ 上と神との心わけるで 四 104
   この世を納めるも上、天も「神」 上と神の心分けるで
人間の住む地と「天」を納めるのも、民を納めている「上」も全て神(神の意識)、神の守護があって納まっている。

  これからハせかいぢううのむねのうち 上下ともにわけてみせるで 四 107
   これからは世界中の胸の内 上下ともに分けてみせるで
「上」の世界は、あくまでも五官だけの我身思案の「思考」、エゴによる目先の物にとらわれたいっときの快楽を求める世界。
 「神」の世界は、目に見えない心の世界で、一人一人の心に神の「意識」を感じて、自由自在となって、「今」と今に続く永遠の道に生きる世界。

  これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや 四 108
   これを見よ世界も内も隔て無い 胸の内より掃除するぞや
支配していると強がっているその上の力は、強くありたいという我身思案の「思考」を被った弱さでしかない。この道の真理が伝わり、そのエゴの誤りに氣づき、真の力は外面ではなく自分の内面にひそむ神の意識にあると悟るなら、それが本当の強さであると分る。
 だから、真の力というものは上も民も神の子であると氣づき、エゴをすっきり「そうじ」できれば、世界(上)と内(下)の隔てなくみな自分の人生を生きることができる。

  このそふぢむつかし事であるけれど やまいとゆうわないとゆてをく 四 109
   この掃除難しい事であるけれど 病というは無いと言うておく
自我々欲のエゴが強くて、そのエゴに支配されて自分の人生に目覚めず、無意識に生きていると、エゴがつくっている偽の自分が本当の自分と思い込み、改めるのが怖くてなかなか「そうじ」ができない。それが勇めない、「やまい」の元になっている。
 「見えない話」を聞いて(105)、エゴの自分に気づいて「そうじ」したいと決意する、エゴを乗り越える強さがあれば、自分の中に精神的免疫力が高まり、全ての恐れはなくなり「楽しみ」だけが残る。
 何かあっても「やまい」を引き起こすことはなくなり、ただの「ほこり」として、いとも簡単に吹き飛ばしてしまうことができる。


    これ聞いて みな一列は思案せよ
    何かよろずは 心しだいや

末代の  息どおりなり

2015-09-28 22:14:08 |  エッセイ
 おふでさき四号の96からです。

 88~95の歌は、みかぐらうた九下り目八ツ「山の中でもあちこち」と、出世した用木、神の子がそれぞれの各地で「転輪王のつとめ」かぐらづとめをする。そのおつとめとは「唖でも物を言わすことなり」であるという内容にしてまとめている。

  このさきハ神の心のせきこみを くちでハどふむゆうにゆハれん 四 98
   この先は神の心の急き込みを 口ではどうも言うに言われん
  いかほどにむつかし事とゆふたとて とかすにいてハわかるめハなし 四 99
   如何ほどに難かし事と言うたとて 説かずにいては分る目は無し
96~100は、この後の本論101~103で語る「かぐらづとめ」を実行をするための理由、目的をその本論の前置きの話しとして歌っている。
 「説教として始めかけ(80)」として説き始める方法で、人間は陽気ゆさんするために生み出されているから、全ての人間がどんな状況、状態にあっても「楽しむ」ことができる道を言葉にして伝えてきているが、どうしても言葉だけでは表現しきれないところもある。だからと言って、そのままではいつまでもこの世の真理が伝わらない。そのためにその真理を形に現す方法として、外に出てかぐらづとめをつとめることにしたい。

  このみちハなにかむつかしめつらしい みちであるぞやたしかみていよ 四 101
   この道は何か難し珍しい道であるぞや確か見ていよ
「この道が難しい」第一は、物で「豊かさ」を味わうのではなく、心に「豊かさ」を感じて充実感を味わうということ。
 第二は、皆平等の魂ということ。これは長い間の差別社会にあって、男と女、上(武士)と百姓が平等であると理解するには誰にとっても、青天の霹靂。障害者が健常者とまったく遜色がなく、相ともに受け入れて、認め合う同士という間柄など、この全てを受け入れ心に治めることは簡単ではない。とても言葉だけでは誰も理解しきることはできないだろう。

  このみちをとふりぬけたらそのさきハ からハにほんのぢいにしてある 四 102
   この道を通り抜けたらその先は 唐は日本の地にしてある
だから、全ての人が「楽しむ」姿を現したかぐらづとめを見せて、この世の真理を伝えることができれば、「唐を」まだこの道を理解できない人も「日本の地にするなり(60)」というように展開していくようになる。

  からのぢをにほんぢいにしたならば これまつだいのいきどふりなり 四 103
   唐の地を日本地にしたならば これは末代の息どおりなり

      おつとめは
       この世の真理 永遠の真理
       今を生きる道 永遠の道
       病まず死なず弱りなき道
      末代の息どおりなり

唖でも  物を言わすことなり

2015-09-27 23:10:17 |  エッセイ
 おふでさき四号の91からです。

  このつとめせかいぢううのたすけみち をしでもものをゆハす事なり 四 91
   このつとめ世界中の助け道 唖でも物を言わすことなり
この道を行く者なら、『このつとめをすると、喋ることができない人でも、喋ることができるようになる』などという解釈は間違ってもしないこと。それか拝み祈祷の考え方だからというよりも「唖」を病気というか疾患、不自由と決めつけるエゴが「この道」から外れているからだ。
 世の中には生まれつき、あるいは事故、後遺症などによって、不自由な体となっている人は沢山いるが、神(宇宙の創造主)から見れば、五官の外見の形、格好はぜんぜん問題とはしていない。こんなことはおふでさきを素直に読めば誰だって分ること。
 44の歌で「側なる者それを知らず」に、「こゑのさづけ」と言って金儲けしていることを情けないことだと取り上げて、その心根を誡めている。おふでさきは体の不自由よりも、欲の心で神の自由を感じられない心の不自由を嘆いているのです。どんな状況にあっても、体がどのように不自由であっても、全てを受け入れることで神の「意識」とつながり、「楽しむ」ことができると繰り返し歌っている。
 また、そのように「唖」だと言い、五体満足な自分たちよりは劣っているという考えは、人間の心に巣くう高山心だと忠告する歌もある。

  このつとめなにの事やとをもている せかいをさめてたすけばかりを 四 93
   このつとめなにの事やと思ている 世界治めて助けばかりを
おつとめは10人10色のつとめ人衆が、それぞれの個性を発揮して調和を目指す貴重な役割があることを現している。共になくてはならない大事な存在として受け入れ合うことで、誇りを持つことができる。
 そして、唖、体の不自由な人が目覚めて、生きがいを感じて「楽しい」生き方を見せるなら、体に何の不自由もないが、その姿を見て発奮しないわけがない。もっともっと楽しくありたいと勇気を与えられる。そのために自分の生き方の心遣いを返り見るきっかけも生れる。
 それが本当の神の望む互いたすけ合いなのです。

  このみちがたしかみゑたる事ならば やまいのねゑわきれてしまうで 四 94
   この道が確か見えた事ならば 病の根は切れてしまうで
このような、どんな状況でも受け入れて、楽しく「今に在る」ことができる道が浸透していくなら、体の不自由などは問題でない。胃腸が今一つだ。胸を患っている。頭痛が続くなどと追っかけられる恐れなど吹っ飛んでしまう。
 いいかげんに、自分たちで勝手に病気をつくるのを止めよう。

    真実の心次第にいづ方も
    如何な守護もせんと言わんで

「筆」に知らして  ある程に

2015-09-25 21:54:10 |  エッセイ
 おふでさき四号の72です。

  だんへとふてにしらしてあるほどに はやく心にさとりとるよふ 四 72
   だんだんと筆に知らしてある程に 早く心に悟りとるよう
「筆に知らして」の「筆」はここではみかぐらうたを指している。おふでさきは「こふき」を完成する目的で書かれている。その流れの中で先に記したみかぐらうたが正確に伝えられていないとき、47の「こゑのさづけ」のように、同じ呼び方をして、お金儲けするために勝手な解釈をしていると、「この道」が歪がんで伝わってしまうから、もう黙っていられないと忠告(50-52)するのです。
 では、この72の「筆に知らして」はみかぐらうたの何下り目を指しているのか、と考えながら繰り返し読んでいくと、九下り目のことだと読めてくる。

  つとめても初てをどりまたかぐら 一寸のほそみちつけてあれども 四 74
   つとめでも始め手踊り又かぐら 一寸の細道付けてあれども
「広い世界を打ち回り」とは、みき様の側で学んで「出世した子供」がぢばから外へ出て、「山の中でもあちこちと」それぞれの場所で、(かぐらづとめは未だ完成してないから)「始めは手踊り」、すなわち「てんりんおう(転輪王)のつとめ」をして、おつとめを伝えながらこの道の教えを広めていくようにと言っている。

 「一洗二洗で助けゆく」は、おつとめを繰り返しつとめることで、自分の心が磨かれる喜びを味わい、その勇んだ姿を見せて、この道の素晴らしさを伝えるということ。決して「一銭二銭」とは訳さない。勇んだ姿に共鳴する人がいれば、おつとめで発散されエネルギーは神の「意識」とつながるから、全てが好転してそのまま人々の真心に届く。

  村かたハなをもたすけをせへている はやくしやんをしてくれるよふ 四 78
   村方は直も助けを急いている 早く思案をしてくれるよう
「ここでつとめをしていれど、胸の分かりた者は無い」
は、78の歌「村方」とのこと。九下り目の「ここ…」には、みき様の側にいておつとめをしていても、教えの根本を少しも分かっていない者がいると歌っている。

  いかほどにみゑたる事をゆうたとて もとをしらねばハかるめハなし 四 81
   如何ほどに見えたる事を言うたとて 元を知らねば分るめは無し
いくら、分りました。もう独りでやっていけますと嘯いても、物への執着がなくならずエゴに引きずられているようでは、とても自分の人生を生きているとは言えない。「早くこ元へ尋ね出よ」、この世の真理を語り続けている大本へきて勉強し直しなさい。

 「筆に知らしてある」から、おふでさきを読むとき、おふでさきのこの部分はみかぐらうたの何下り目のどの部分を歌っているのかな、と思いを馳せながら読んで見ることも必要だということ。

子供さへ  早く表へ出したなら

2015-09-24 22:07:31 |  エッセイ
 おふでさき四号の66です。

 53~55、60~63の歌で、「どの様な所の人」、「因縁も多くの人」も世界一列みな我が子と表現して、世界中の人間は、みな(神の意識を宿した)神の子ゆえ、神(宇宙の創造主)にとっては一人残らず可愛いから、「いろいろ心尽くし切るなり」と歌ってから、
  こどもさいはやくをもていだしたなら からをにほんのぢいにするなり 四 66
   子供さへ早く表へ出したなら 唐を日本の地にするなり
その子供がそれぞれ一人立ちできるように、早く旅立たせたいと言っている。何処へ何をしに旅立つのか、
 
 それは、2「往還道」、6「ふしん」、32、41「神一条」、23「陽気づとめ」、29「かぐらづとめ」、46「この道」とだんだんに言葉を変えていくが、すなわち五月五日に予定している前川家でつとめる「かぐらづとめ」を、その日を契機にこれから子供の成長の証として外へ出して、いろいろな場所でさせたいということ。すなわち、それとはかんろだいづとめの実行のこと。

 ここで言っているこのかんろだいづとめのことを「上」、秀司夫妻と取り巻きの拝み祈祷派は、「雨乞い」を強調して「かんろだいづとめ」ということを暈してしまったから、この歌の解釈を難しくしているが、そのことに気づけば分る話しである。
 このかんろだいづとめは請われれば、神社の境内みたいな神聖な所だけでなく、牛剥ぎ場と言われているような所でもつとめたとある。雨乞いづとめをしたからといっても、結果は降ったり降らなかったりで、どちらかと言えば降らなかったときの方が多かった、と正直な記録を残しているということは、このつとが単に雨乞いが目的ではなかったことを物語っている。
 旅立つ子供が、外へ出て多くの場所でかんろだいづとめをつとめることで、その精神、この世の真理、調和に生きている姿を見せて、自らも「今を楽しむ」ことこそ生きがいと実感して、その喜びを回りの人々にも伝えることで、成長の姿を発揮して役目を果たすようにと歌っている。

 この道、「本道」であるかんろだいづとめがつとめられる場所は、この世の調和を目指す神の「意識」のあふれるエネルギーを発散するから、バイブレ-ションの大きな渦となって辺りいっぱいに浸透していくから、たとえそこが「唐の地」であっても、瞬く間に「日本の地」になってしまうのです。


     日々に心勇んで急き込めよ
     早く「本道」つけた事なら
     真実にこの「本道」がついたなら
     末は頼もし陽気づくめや

早く出てみよ  もう今のこと

2015-09-23 23:45:34 |  エッセイ
 おふでさき四号の67からです。

  しんぢつにこどもの心しかとせよ 神の心ハせくばかりなり 四 67
   真実に子供の心しかとせよ 神の心は急くばかりなり
現状への不満、もっと物が欲しいからと自我々欲の欲求のために「上」、「唐」、拝み祈祷へ心を寄せる生き方は、これができたら、これが手に入ったら自由になれる、幸福になれる。その時がきたら悟りは開けるものという幻想を生む。不満、欠乏がその原点にあるなら、全てを受け入れるというこの世の真理にはそっていないから、安らぎは得られず、「楽しむ」という神の自由を得ることもない。
 エゴは往々にして他人の生き方を阻害するということ。上、唐の教育は支配欲の押し売りで、天皇と為政者たちのために民が犠牲となっている姿がある。これがこの世の真理、おつとめの精神と相いれないということ。

 だから、次の68で、「早く助ける模様してくれ」と歌っている。助けるとは、補い合い、たすけ合ってと言い、相手の足りないところを補ってあげなさい、ということを超えて、自分と同じように相手のすべてをそのまま受け入れなさいということ。これは実際のかんろだいづとめを想像すれば分ることで、二人一組のつとめ人衆の相手は、目の前にかんろうだいがあるから、お互いはしっかり確認することはできない。相手に手をかす、助けてあげるなんてことは不可能。それでも見ている人、学んでいる人には調和してると写るのです。
 このように、お互いがお互いを完全に認める、受け入れることで全ての人は「楽しむ」ことができるようになっている。人が人を助けるというのは不可能、ただの自惚れしかない。

 この歌は、自分のエゴに夢中で相手の自由を束縛してないですか、と問うているのです。そうであるなら、相手を束縛していたエゴをたたんで、相手をしっかり受け入れる。そして、無意識でしていた自分も受け入れ改めるなら、神の「意識」とつながることができるから、
  いまゝでとみちがかわりてあるほどに はやくせきこみをふくハんのみち 四 70
   今までと道が変わりてある程に早く急き込み往還の道
ここに、自分の前途が開かれて、神の子として自分の人生を生きることができる。

  このみちハいつの事やとをもている はやくてゝみよもふいまの事 四 71
   この道は何時の事やと思ている 早く出てみよもう今の事
「気づいた」ら、「今」ということ。神の子として目覚めたら、もう躊躇できない。先ず今までの唐の心を改め、「楽しむ」姿を外へ向けて「唐を日本の地」にする一役を「今」から担う。この「今」から神として生きるのですよと歌っている。
 唐の教育のように、これができたら、これが手に入ったら、その時がきたらでは、今の「気づき」よって開いた扉が閉じてしまう。

    小寒さん、秀司さん、まつゑさんしかり

「今」というこのチャンスを逃がすと二度と開かないと覚悟しなければならない、そう強く歌っているのです。

唐と日本を  分けるばかりや

2015-09-22 23:51:40 |  エッセイ
 おふでさき四号の57からです。

  だんへとよろづたすけをみなをしへ からとにほんをわけるばかりや 四 57
   だんだんと万づ助けをみな教え 唐と日本を分けるばかりや
  にちへにからとにほんをわけるみち 神のせきこみこれが一ぢよ 四 58
   日々に唐と日本を分ける道 神の急き込みこれが一条
39~49の歌で、人間は平等の魂であることに気づかないから、「上」に操られて「楽しみ」を先送りにして今を苦しみ、いづんでいる。みき様はそういう回りの人々に「こゑのさづけ」を授け、神の子として生きなさいと勇気を与えた。
 それなのに、上、(唐人の支配する)「唐」は、この道を歩みたいとエゴを払って調和の心に改めねばとより集う人々を引き止める。そしてみき様を無視して、世間並みの物質主義にあてはめて、「こゑのさづけ」と同じ呼び方で惑わし、かどわかして人々が自立する道を阻む。

 真理に生きる道は、誰かが何かをしてくれるのを待つのではなく、自身で自分の体内に宿る「善」を引き出すことで、神の自由を感じて歩む道。
 真理から外れて、甘言と恐れを抱かせる道、自立を阻む道とは厳然と区別をつけねばならないのです。


  いちれつのこともがかハいそれゆへに いろへ心つくしきるなり 四 63
   一列の子供が可愛いそれ由へに いろいろ心尽くし切るなり
神(宇宙の創造主)は、人間はじめ一切の生物が生きる環境、太陽という熱と光、地と天(地球)という場、空気、水と整えているから、人間はそのエネルギーあふれる大海の中でゆうゆうと「楽しむ」暮らしを保証している。
 そのうえ更に、全て人間が誰でもいつでも楽しめるようにと、調和にあるときは「楽しみ」を味わい続けれるようにと自由自在の喜びを与えている。
 もし調和に外れて勇めないなら、「楽しむ」姿に戻らせたいと身上、事情で知らせて気づかせることで、何としても全ての人の陽気ゆさんさせたいと「心尽くし切って」いる。

      だんだんと子供の出世待ちかねる
      神の思惑こればかりなり



 「唐と日本を分ける」ことは、おふでさきの大きなテーマの一つです。
 「日本」、みき様の目指すこの道は、「病まず死なず弱りなき」道。を「楽しん」で生きる永遠の道。
 「唐」は、過去を懺悔して未来に望みを預けるため、肝心なは踏み台となり、過去に執着して未来にすがる道。

みな因縁の者  であるから

2015-09-21 23:43:27 |  エッセイ
 おふでさき四号の53からです。

  しかときけよろつの事をみなをしへ どこにへだてわさらにないぞや 四 53
   しかと聞け万づの事をみな教え 何処に隔ては更に無いぞや
  どのよふなところの人がでゝきても みないんねんのものであるから 四 54
   どのような所の人が出て来ても みな因縁の者であるから
誰でも自分はダメな人間ではないかと内心はその不安がある。だが自分が知った自分はどれも自分ではない。自分について知ったことと自分とは違う。
 自分についてとことん知りたいと、子供時代のことを徹底的に探り、全てを引きずり出して自分の人格、性格を探ぐろうする。そういう中で、ついに自分を知ったという満足は、まだ十分でないという思いに打ち消されてしまうもの。
 それは、もっと深い質的な何かがあるということだ。その何かというのがこの歌でいうところの「みな因縁の者」です。
 自分のエゴ、人間思案の「思考」がつくり上げた偽の自分ではなく、エゴを乗り越え、そのエゴを徹底的に払って残った本当の自分、それが神の子、「因縁の者」ということ。人間はこの世に生み出されたときから、皆自分の体内に神の「意識」が宿っている。

  にんけんをはじめだしたるやしきなり そのいんねんであまくだりたで 四 55
   人間を創めだしたる屋敷なり その因縁で天下りたで
神(宇宙の創造主)は、人間が神の子としての因縁を自覚し、陽気ゆさんするのを見て共に楽しみたい、という思いで人間を創めたことと、この世、宇宙の真理、法則をどうしても世界中に伝えたい。そのために神となるに相応しい心根の人を求めるが、伝えるための話しの台となるに手ごろな家族構成も供えた中山家のみきを神の代理、「神の社」と定めて天下った。

  いんねんもをふくの人であるからに とこにへだてハあるとをもうな 四 61
   因縁も多くの人であるからに 何処に隔てはあると思うな
  このよふを初た神の事ならば せかい一れつみなわがこなり 四 62
   この世を創めた神の事ならば 世界一列みな我が子なり
おつとめを完成させるためには、非常に多くのつとめ人衆が必要となる。つとめ人衆は、信仰の年限、また家系(中山家でさえ特別ということもない、家族はただ話の台になるという役割を持っているだけ)、年齢、性別、経済力などなどの高い低いからという物質世界の基準で選ぶのではなく、人間の「因縁」を知り、エゴを乗り越えて神の子として、本当の自分を生きている人、つとめ人衆として相応し人なら「誰という隔て」はない。


      調和という目的に向って
      それを「楽しみ」ながら
      神の子という「因縁」を自覚し
      永遠の旅を続けたい…

こゑ一条の  話しなるぞや

2015-09-19 21:56:02 |  エッセイ
 おふでさき四号の50からですが、その歌に入る前にここまでにみかぐらうたとおふでさきで歌われている「この道」の方向を確認してみます。
 おふでさき三号17で「たすけ一条教えるも、ない事始めかける」。116では「ない事ばかり説いておく」と歌い、この道はこれまでに説かれている教え、世間一般に踏襲されている道徳、迷信、雑学などとはまったく違ったこの世の真理だけの話し。
 五官に生きる、物を多く持つことで「幸せ」をつかむという世界は、自力で勝ち取るか、願うすがるで外から来ることを期待する。対して、「この道」は自らのエゴを退治することで、芽生えた神の自由を活力して成す行為に「幸せ」を感じる。

  このはなしなにの事やとをもうなよ こゑ一ぢよのはなしなるぞや 四 50
   この話し何の事やと思うなよ 肥一条の話しなるぞや
  こへやとてなにがきくとハをもうなよ 心のまことしんぢつがきく 四 51
   肥やとて何が聞くとは思うなよ 心の誠真実が効く
みき様の回りには、貧しいお百姓さんが多かった。皆いつかは良い日が来ると願って身を粉にして、頑張り続けてもそのきざしさえ見えないのは、自分たちの因縁が悪いからとあきらめつつも、少しでも安らぎを得たいとみき様の話を聞きに来る。
 そういう人々に因縁が悪いからではない、皆平等の魂を持って生れているのだから、一人一人の魂に宿る「善」、神を発見して、その「善」を引き出すことで善人、神の子となれると諭した。更に、一人一人にこの(いま諭した)ことが神になるための「許可証」です、誰でも神になれると言葉で伝えた。それが「こゑのさづけ」なのです。そして、これからは私とともに歩んで参りましょう、と「こゑ一条」に生きる道を示したのです。

 そして、次の歌がある
   真実の心見定めついたなら いかな守護もすると思えよ

ところが、「肥のさづけ」だ、糠三合、灰三合、土三合を調合するとその効果は一駄の肥料に相当する、と言って売り出して、大儲けしている事実があることをおさしづが示唆しているが、この歌も当然同様の批判の意味が込められている。
 こんなみき様の意に反した、さづけがみき様の布教の最中に、同じ屋敷内で出されていた。更に、そのことを彼らの子孫までもが誇らしげに記録して残している。馬鹿か! と言いたくなるぐらい恥ずかしことであることは、このおふでさきを素直に読めば誰だって分ること。
 だから、次の53からの歌を歌わざるを得なかったのです。