陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

思て頼めば  どんな事でも

2017-08-26 21:28:02 | 宗教
おふでさき十二号です。

 175で「この話し月日の仕事これを見よ、心次第に何をするやら」 ― 我が子人間に人はみな「口は人間、心月日や」とありのままに伝えた。それに気づき、神の子として生まれ変わるなら、受け入れた子供のその真実に神が働いて、効があらわれこと(182)を伝えて、次の176から、この号のまとめに入る。

 181で「この話し月日の心ばかりやで、人間心あると思うな」、と「この道」は「月日の心あるばかり」と念押しして、
  この事をみな一れつハしんちつに をもてたのめばどんな事でも 十二 182
   この事をみな一列は真実に 思て頼めばどんな事でも
 この最後の182の歌は、「月日体内入り込む」話し(157~163、170~175)の間に挿入した「高山」に問いかけた歌(167~169)へ解答を与える形となっている。

  にちへに高山にてわだんへと どんな事をばたのみたつねる 十二 168
   日々に高山にてはだんだんと どんな事をば頼み尋ねる
  これさいかみゑきたならばどのよふな 事もあふなきさらにないぞや 十二 169
   これさいか見えきたならばどの様な 事も危なき更にないぞや
 小寒さん亡きあとの十二号からは、歌の対象は秀司さん(とまつゑさん)が主となって話しが進められていく。そのことはこの号の次の語彙などから見えてくる ― 「いかほど我が身はびかりて、ままにしたとて月日退く」、「それよりも身の内悩みさらに無し」、「側なるは仕事ばかりを思ている」、「まだじっくりとしたるなれども」、「高いところでみなあらわす」、「嘘と追従これきらい」、「身の内よりに確か試しを」、「年限は39年も以前にて」など。
 だから168の「高山」は、秀司さん(夫妻ととりまき)のことと分かる。その者が「どんな事をば頼みたずねる」 ― したい、やり遂げたい事。さらに手に入れたい、と欲しい物が山ほどあるようだから、その全てが叶う方法、心構え、「これさいか見えきたなら」をとくと聞かせるから、耳を傾けてよく聞きなさい。

 「人間心」は、物への執着が強いから、求めるものは大きく、多く、強くと際限ないが、それだけに敵も多いから、獲得するにも制限されてしまい、いつでも不満という状況にある。
 「真実に思て頼めば」 ― おつとめで「心が澄まされ」て、「月日が体内に籠もりいる」と実感できれば「芯の心」があらわれて、物への執着がなくなる。求めるものは、必要なものだけに限定されるから、敵はなくなる。たとえ目の前に気に食わないと思われる人が現れても、「今日まで」の自分の心の内を反映したもので、相手は「明日から」を目指す自らのケジメをつけてくれる相棒だと感謝できるようになる。そこには一切の敵は存在しない―「危なきさらにないぞや」―「思て頼めばどんな事でも」と成ってくるのです。
 十二号は、「心を澄ます」とその胸の内に「月日が入り込」んで「芯の心」があらわれる。そこに「頼めばどんな事でも」という「効」が授かる、と歌って「守り拵え」の神髓をも伝授する。


      思考で 欲しい人生ではなく
      意識が用意している人生を 受容する時
      人生は 思いも寄らぬ変容を体験する
                     k-zerostyle


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


定めついたる  ことであるなら

2017-08-19 11:08:21 |  エッセイ
おふでさき十二号です。

  この心あらわれでたる事ならば たれもそむきわさらにてけまい 十二 178
   この心あらわれ出たる事ならば 誰も背きは更に出来まい
  これみたらどんなものでもしんちつに あたまかたけてみなしやんする 十二 179
   これ見たらどんな者でも真実に 頭傾げてみな思案する
 「この心」は、その前の歌「真の心」 ― かんろだいづとめで自分の存在感を確認して、目覚めた神の子の衝動からの行為は、しっかり地に足がついている。
 「頭傾げてみな思案する」 ― おつとめに取り組むまでは、確固たる存在感を持てず、何をするにも定まることはなかった人。おつとめで真の自分に気づいてからの生き生きとしたその人の姿に、回りは頭傾げて驚きの表情を見せるでしょう。

  さあしやんこの心さいしいかりと さだめついたる事であるなら 十二 180
   さあ思案、この心さいしっかりと 定めついたる事であるなら
  このはなし月日の心ばかりやで にんけん心あるとをもうな 十二 181
   この話し月日の心ばかりやで 人間心あると思うな
 「月日の心ばかり」は、21、83にもあって、世界並みの人間心と対称となっている。その人間心、具体的には何を指しているか、21からは ― 十二号は、小寒さんの死という大きな節を台として書き始めていることは明白である。
 「山坂、茨畦、崖道、剣の中、火の中、淵中」を淡々と受け入れて「神一条」の道を歩むみき様にとって、小寒さんの死はその延長線上のことであっさり受け入れるが、回りでは実母としてのみき様に同情を寄せるだけでなく、若き神と慕って、小寒さんから直接話しを聞いて「この道」をともにしている人々にとっては、この節はとても受け入れがたいことであった。明治七年、今後の方針を伝えるおふでさき三号は、「真の柱」を小寒さんと定め、小寒さんを中心としておつとめを完成させる方針を打ちだして、そのまま続いている。回りの人々の心がいろいろに揺れるのは当然のこと(18~20)。
 「人間心」で、故人を偲んで何が足りなかったのか、何がこの不幸を招いたかと膝を突き合わせて練りあう。おつとめの学びを中断して、方針を改める、行動を控えるというのではない。

       人生の大枠は 決まっている
       それが  どうした…… k-zerostyle

 「月日の心ばかり」で、と発して投げかけた言葉が「元は1本枝は8本」 ― 元の1本であった小寒に寄せていた情熱を秀司に向ける。ここからは一人一人がつとめ人衆を目指して、見事な8本の枝となりなさい。
 「月日でかける」 ― 「せへつう」ここを絶好の旬ととらえて、今まで学んできたおつとめを世界に向けて発信する。ここからは中心と頼っていた小寒に代わって、秀司とともに皆が主役となって、より「意識」の高いステージを目指しましょう、と人々の「意識」を鼓舞する。

 「定めついたる」については、174、175「体内に何があるやら」と「心次第に何をするやら」の語句から、「定める」ためのその選択は
   身体も心も自らのものとして、自分を貫く
  体内に月日入り込むという、神の子としての自分を受け入れる。
 それに付随する道は
   には、「けふの日」、今までと同じように、エゴのまま物、事にとらわれた枠の中で、「世界並みに」無意識に生きる安心のない道。
  ② には、「明日にち」、すなわち踏み出した今から「しんの心」があらわれてくる ― 心澄ました自らの体内に「神が籠もり居る」ことに氣づくことで、自分のあるべきところに安住しているという安心を得ることのできる道。

 定める選択がなら、「月日の心ばかり」 ― 神の子なら、その「意識」は行動の目的である物、事などよりも、どの様にするかが最も重要。何をするかというよりは、どの様にするかということで、物事の事実よりも、それに向ける「意識」の質が問われるということ ― 「人間心あると思うな」

   この事をみな一列は真実に 思て頼めばどんな事でも

                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

明日にちは  真の心があらわれて来る

2017-08-15 12:18:00 |  エッセイ
おふでさき十二号です。

  このしんをまことしんぢつしてみせる これみたならばみなとくしんせ 十二 159
   この真を誠真実して見せる これ見たならばみな得心せ
  月日にわたいないよりもこもりいて どんなしごとをするやしれんで 十二 162
   月日には体内よりも籠り居て どんな事をするや知れんで
 「胸のそうじにかかる」―「銘々の心みなあらわす」、「世界中を一列に月日そうじをする」というこの号のテーマとなっている語句を、心して繰り返し読む。我々に伝えようという神意は何かと突き詰めていくと、見えてくるものがある。
 それは、第一に人間とはどういう存在か、さらにもっと肝心なこと、一人一人は何者で何のためにこの世に生れてきたのか、という我々の人生において最も知っていなければならない問題。それに対して月日が「世界には誰か知りた者はなし、どうもこの度是非ない」、「どうぞ真実一列の、心澄まする模樣ないかよ」と呟きつつ、人間が本当の自分に気づかぬままなら「我が身はびかて、ままにしたとて月日退く」と言って、その誰もが知るべき問題への解をあらわしていくことに氣づく。

 157で、「この世創めてない話、何を言うてもこれ聞いてくれ」と歌って、おつとめをして心を澄ますことができたなら、今までに学んできたことが研ぎ澄まされるから、ここからのまとめにしたい話もすんなり治まって、本当の自分に行き着けるよ、と言って
 157~163、167~175 ― 人間の生命を司る働きの全ては、目には見えない月日の守護である。この守護があって、人が自己として存在しているという意識が芽生える。そして価値観や「夢」、感動などを味わうことができる ― おつとめはその月日の働きを伝える。

 この明治8年は、日照りによる被害が多く、各地で「雨乞い」の祈願、行事が頻繁に行われていた。十二号の主題であるおつとめを世界へ伝えるためは、絶好の門出の旬ととらえ、かんろだいづとめを「雨乞い」に見立てて、お屋敷の周辺から実行する。

 「雨乞い」、「かんろだいづとめ」を世界へ広めることは、先にみかぐらうた九下り目で歌っている。
 「広い世界を打ち回り、一洗二洗で助けゆく」 ― おつとめを世界へ伝えながら、一洗二洗と自らの心を洗って「たすけゆく」、その手振りは、正しくおふでさき十二号のテーマ「心澄ます」そのとおりです。
 「神の心に凭れつけ」 ― ここに「芯の心」を見ることができる。一切の「欲の心」、エゴ払いきって澄んだ胸の内は、神の「意識」が湧きだし神と一体となる。その「芯の心」をあらわして、「山の中でもあちこちと転輪王のつとめする」 ― ここに「雨乞い」という「かんろだいづとめ」を展開する姿がある。
 「とても神名を呼び出せば、早く根元へ訪ねでよ」 ― 「この道」にある、というなら「芯の心」を忘れてはならないのです。

  このはなし月日のし事これをみよ 心しだいになにをするやら 十二 175
   この話し月日の仕事これを見よ 心次第に何をするやら
 「体内に何があるやら」 ― その事を
    理解しようがしまいが 現実は幻想で幻想はリアル……
    まずはそのことを受容することから すべては始まる  k-zerostyle

 人間が「芯の心」に氣づくなら、本質的には神の子であると同時に、自分と感じている自分より、はるかに偉大な存在であると知れるようになる。いつまでも気づかないなら、神との一体感を感じることもないから、自分は切り離されているという幻想がおこる ― 「月日退く」 ― 自分の存在を危うくさせる。


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講