陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

唐と日本を  分ける「道」-6

2016-05-31 23:24:45 |  エッセイ
 おふでさき四号です。

 104~106の歌は、「上は、見えたる事を言う」、それに対して「神は、見えん事を言う」、と歌っている。それは具体的にはどういうことか。
 人は誰でも、否が応でも見えるところの物質世界の環境の中での存在です。しかし、実は神の子である一人一人はその物質世界の目で見えるより、はるかに大きな存在のはず。本当は人はみな神の「意識」を宿した生命の延長でもあるということを言っている。

  これからハせかいぢううのむねのうち 上下ともにわけてみせるで 四 107
   これから世界中の胸の内 上下ともに分けてみせるで
 それでは、私たちは本当は何者なのか。どうすれば、この物質世界に生れた目的を知ることができるかを理解するためには、見えるところと見えないところの両方が存在していることを感じ、それらの相互関係を理解することが重要になる。
 物質世界にいれば、あらゆる環境にめぐまれている人、一人ぼっちの人。堅実な職業についている人、まともな職業にありつけない人。金持ちと貧乏などこの世にはいろいろとある。けれども、本当の自分を知って本当の自分を生きることを知ることの重みを考えれば、それを学びたいという人の身分、立場の上下などの区別を問うことはあり得ない。この真理を全ての人に分け(分からせ)てみせよう、と言っているのです。

  これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや 四 108
   これを見よ世界も内も隔てない 胸の内より掃除するぞや
 それを聞き分けるためには、ただ耳を貸せばいいという訳にはいかない。物質世界で駆使している我身思案の「思考」のエゴのままでは、目に見えない世界のことなど知る由もない。そのために「胸の内」を掃除する必要があるのです。
 一切の人間思案の「思考」がなくなれば、神の子である自分の体内奥深くに宿るこの世の根源的な存在、大自然をも左右するという、その神の「意識」を感じることができる。それが実感できれば、もう誰か、何かと比較したり、そのため悩んだり、苦悩したり自分を卑下する必要はがなくなる(109、110)。
 人間が氣づくべき最も大切なことは自分自身に内在するこの神の「意識」です。これを人間は誰もが自分の外部に探し求めるのです。しかし、それがいつまでたってつかめないから、外に安心を求めて長い苦労の人生の旅をすることになる。
 だから、おつとめを教えたのです。そして、(91~103) それを一日も早く、一人でも多くの人に分からせるためにおつとめを世界中に広めるように急き込んでいる。そのおつとめをすることで「唐の地」が「日本の地」となり、多くの人が必死で外に求めていた安らぎを、自分の中に見出して、「病まず死なず弱りなき」という永遠の安らぎを得ることができるのです。

  これきいてみな一れつわしやんせよ なにかよろつハ心しだいや 四 118
   これ聞いてみな一列は思案せよ 何か万づは心次第や
 112~115― 今までは、恵まれない環境にある人々を中心として教えを説いてきているが、この見えない世界を知ることの計り知れない価値を思えば、「世界も内も隔てない」、上だ下だの身分はどうだっていい、誰でもこの「今」を自分の体内に宿る神の「意識」とつながることで、本当の自分を知らねばならない。

 
 もう、何処にも行く必要もない。すごい霊験を求める、偉い先生を探す必要など全くなくなるのです。
 自分の価値に目覚めて、自分に授かった神の「意識」を生かしきるとき、「神の自由を知る」ことができるのです。これに勝るものがあるでしょうか。

                        中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講




唐と日本を  分ける「道」-5

2016-05-28 22:55:57 |  エッセイ
 おふでさき四号です。

  いまゝでハがくもんなぞとゆうたとて みゑてない事さらにしろまい 四 88
   今までは学問なぞと言うたとて 見えてない事さらに知ろまい
  このさきハみへてない事だんへと よろづの事をみなといてをく 四 89
   この先は見えてないことだんだんと 万づの事をみな説いておく
 『老子』第十二章
  五色令人目盲― 形、物など見えることだけにとらわれていると物事の本質が分からない。
  五音令人耳聾― 人の声、他人の評価で自分を決めると、本当の自分を見失う。
  五味令人口爽― 美味しい物は口が奢って味覚が麻痺し、そのものの味が分からない。
  難得之貨、令人行妨― 必要以上の物を持つと、その人の間違った行動を引き起こす。
  是以聖人、爲腹不爲目。故去彼取此― だからこそ「道」を知った聖人は視覚、聴覚、
  触覚、味覚、嗅覚によって快楽を追い求めない。心の内面の充足を求めるのだ。

  このつとめせかいぢううのたすけみち をしでもものをゆハす事なり 四 91
   このつとめ世界中の助け道 唖でも物を言わす事なり
 「唖でも物を言わす」とは、おつとめのつとめ人衆は、我身思案の「思考」のない神の「意識」で神を演じて、神の心を人々の心へ伝える。だから、ものは言えなくても、耳は聞こえなくても、目は見えなくても人の心を動かすことができるのです。

  しんぢつの心しだいにいづかたも いかなしゆごふもせんとゆハんで 四 95
    真実の心次第にいづ方も 如何な守護もせんと言はんで
 自分が分からないままだと、人は常に目や耳をそばだてて人目を気にしながら、暮らさねばならないが、おつとめで目覚めると自分のままでいることに自信が持てるから、「病」などは気にならなくなってしまう。
 要は、この世は不幸だ、最悪で理不尽で不公平な世界だと思ってしまうのも、最高で良い世界だと思うのも、本人の心の持ち方で変わるということ。同じ光景を見ていても、悟った人は何でも良いことに思え、悟りのない人には悪に映るのです。たとえそののもの実態の真相は,善でも悪でもなくて、見ている人が決めている。だから、自分の心の鏡に何を映すかによって、この世は善にも悪にも見えるということ。私たちはすでに存在する絶対的な世界や物を見ていると思い込んでいるが、それが違うのです。

 95~100は、この世に生きていれば価値観の相違から、様々な様相が出現する。しかし、その中でも何を見つめるかは、自分が選択できると言っている。

  このみちをとふりぬけたらそのさきハ からハにほんのぢいにしてあるで 四 102
   この道を通り抜けたらその先は 唐は日本の地にしてあるで
 『老子』第十二章は、是以聖人、爲腹不爲目。故去彼取此― だからこそ「道」を知った聖人は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚によって快楽を追い求めないで、心の内面の充足を求めるようにと結論づけている。
 「唐」といった時は、全てがきらびやかという形のイメージがある。これが五感に頼る見かけだけの物の世界であり、このような物質優先の生き方を「から」と表現し、はっきりと「にほん」との違いを知らせている。物に頼らず心に豊かさ感じるところに、真実の喜びと永遠の生命があると気づき、それが心に修まるなら、その場が「にほん」になると言っているのです。
 同じ生きるなら、この世に天国を見たい。それは他人や運命などは関係なく、すべては自分次第なのです。


                        中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講



唐と日本を  分ける「道」-4

2016-05-24 23:55:55 |  エッセイ
 おふでさき四号です。

  つとめても初てをどりまたかぐら 一寸のほそみちつけてあれども 四 74
   つとめでも始め手踊りまた神樂 一寸の細道つけてあれども
 この歌の「つとめ」というのは、72「筆に知らしてある程に」続いている話の中で言っていることだから、やはりみかぐらうた九下り目の「山の中でもあちこちと転輪王のつとめする」で歌う「転輪王のつとめ」を指しているととらえると、すんなりおさまる。
 「この道」の目指すかんろだい世界を形に現したかんろうだいを中心に据えてつとめる「かんろだいづとめ」について始めて語るとき、いきなりこの語のままで伝えても、回りの人々にはしっくりこないであろう。だから、先ずおつとめの精神の崇高さとそれが人々の幸せをもたらすものと確信が持てるように、人々にとって一番尊い、極楽浄土にいて全ての人々を救済するとされる阿弥陀様の別名として、身近な存在であった五道転輪王という神様を連想させる神名を用いて「転輪王のつとめ」と歌にした。それが、九下り目の「転輪王のつとめ」なのです。
 だから、「かんろだいづとめ」を一番最初に記したみかぐらうたでは「初めは手踊り」の中で、「転輪王のつとめ」と歌ったよ、と言っているのです。「また神樂」と続いているのは、つとめ人衆は人間であっても、おつとめをするときは神の役割を演じるから、「かぐらづとめ」と言うこともできるよ、と言っているのです。
 このつとめは、陽気づくめこそ人間を創った神の願い、人間のあるべき姿だから、「陽気づとめ」ともいうように、その時々の人々の成長と状況に合わせて言い方を変えることで、人々におつとめを浸透させていくのです。そして、最後は当初の構想どおり「かんろだいづとめ」という言い方におさめていくのです。

  にちへに神の心わせきこめど こともの心わかりないので 四 86
   日々に神の心は急き込めど 子供の心分かりないので
 78~87の歌は、やはり九下り目「ここでつとめをしていれど、胸の分かりた者は無い」を念頭にして歌っている。みかぐらうたは慶応年間に完成しているのですが、その時にこの歌の状況があったということ。みき様が「この道」を進めているその側で、秀司さんと取り巻きは天皇家の先祖十二柱の神を祀っていたことを歌にしているのです。
 そして、10年近く経ってもその状況が変わってないことを、この86の歌で言い放っている。この教えを始めてから、多くの人が「この道」を慕って学び、これから唐の地を日本の地にと立ち上がろうとしているのに、その「唐」を死守するぞと身構える勢力が同じ屋敷内に存在している状況があるということ。

 だから、「とても神名を呼び出せば、早く根元へ尋ね出よ」― いつまでも世界を、世界中の人間を支配したいと目論む(天皇家の先祖の)神名を称えるのではなく、世界中の人々を助けたいという転輪王を慕う神名を称えなさい、と言っているのです。


 神名とは、信仰する者の生命のはず… 人間の都合で勝手に取っ替えていいはずはない…
 「この道」にそわない神名をいくら呼び続けても 唐の地を日本の地にすることなど…

                         中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講




唐と日本を  分ける「道」-3

2016-05-23 23:56:22 |  エッセイ
 おふでさき四号です。

  だんへとこどものしゆせまちかねる 神のをもわくこればかりなり 四 65
   だんだんと子供の出世待ちかねる 神の思惑こればかりなり
 「子供の出世」とは、「往還道」をつけるための「ふしん」の用材、すなわちかんろだいづとめをつとめるつとめ人衆として相応しく成長すること。
 (67~71)それなのに、上を思って(拝み祈祷にすがっていれば、将来は約束されると信じ込まされていても)「今」をどうしたらいいのかその確信がなくて、おろおろするばかりで、それが「子の悩み」となっている。だから、そんなに自分のことだけ考えるのではなく、「早く助ける模樣」、少しでも他人を思いやるユトリを見せるなら、自然と目の前の道が開けてくるよと言っている。
 みかぐらうた八下り目は、「石も立木も無いかいな」とこの「ふしん」の用材、すなわちつとめ人衆について歌っている。「ふしん」は「内からするのやないほどに」です。今までの自分を操っている、自分の内にあるエゴ、「欲」の心からでは「ふしん」はとてもできないというもので、「欲」をすっかり払ったところに生れる新たな次元の「意識」でしか「ふしん」は完成できるものではない、とここではっきり言明している。
 そして、「この木切ろうかあの石と思えど神の胸次第」、「思考」のない神の「意識」に生きる心が定まったなら、「山の中」、そこがたとえどんな僻地でも、その「出世」を喜び、普請の用材として迎えに出向くと祝っているのです。

  こどもさいはやくをもていだしたなら からをにほんのぢいにするなり 四 66
   子供さへ早く表へ出したなら 唐を日本の地にするなり
  だんへとふてにしらしてあるほどに はやく心にさとりとるよふ 四 72
   だんだんと筆に知らしてある程に 早く心に悟りとるよう
 この歌で神は八下り目で歌っているように、神が「山の中へ入り込んで」確かさを見届けたつとめ人衆が寄り集まってきたなら、その「子供を表へ出す」ようにしたいと言うのです。神の子であると気づいた人々の高い意識を、何としても世界へ発進させたい。そしてそれが「唐を日本の地にする」ことになると言うのです。
 次の歌、何としてもというその「何か」とは、先に「筆に知らしてある」言っているが、いったいみかぐらうたとおふでさきのどの歌を指しているのかと考えるとき、八下り目で、神の胸にかなったつとめ人衆が揃い、その高まった意識の人々が外へ向ける衝動の行為。それが八下り目に続く九下り目、「広い世界を打ち回り、一洗二洗でたすけゆく」という行動になっていると言っているのです。
 「筆に知らしてある」ように、神の子に目覚めた人々がかんろだいづとめをとおして、この世と人類創生の真実を伝えて、みな同じ魂と気づかせて、「不自由なき世にしてやろう」と世界へ発進する。そのさまを「山の中でもあちこちと転輪王のつとめする」と歌っているのです。

 そして「唐の地を日本の地にする」ために、この転輪王のつとめが実際に、「雨乞い」というかたちで、大和のあちこちで実演されていくのです。


   真実にこの本道がいつたなら
   末は頼もし陽気づくめや


                  中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

唐と日本を  分ける「道」-2

2016-05-22 22:52:09 |  エッセイ
 おふでさき四号です。
  このみちをはやくわけたる事ならば あとのよろづハ神のまゝなり 四 59
   この道を早く分けたる事ならば 後の万づは神のままなり
 「この道を早く分かりた」というのは、その前3首の歌を念頭に置けば浮かんでくるが、唐と日本の道の信仰がそれぞれはっきりと理解できたなら、「後の万づは……」です。
「にほん」は、みき様の教えと行動が備わっている人とそういう人々のいる所。「から」は、みき様の教えを聞いても心に治められない人を含めて、未だみき様の教えの屆いていない所ですが、もう少しその「唐」をほじくってみると、

 「唐」について、デジタル大辞泉には、
  1 朝鮮・中国の古称。多く、中国をさす。また、中世以降、広く外国のこと。[唐天竺]
  2 名詞の上に付いて、朝鮮・中国、さらに、外国から渡来したことを表す。
 そして「遣唐使」については
   遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度の日本への伝播に
  大いに貢献した。その間、日本は漢文化を受容して貴族文化を形成した。
 
 この「遣唐使」が表しているように、「唐」と言ったときには当時の庶民、お百姓さんにとっては、気高くて、全てがきらびやかというイメージがある。それでみなが圧倒されることはあるかも知れないが、みき様は単なる見かけだけの物の世界のことで、それが皆の幸せをもたらすことはあり得ない。と、ここで「日本」とは相反するものとしてとらえているのです。「唐」は正しくエゴのエリアということ。
 
 59の「後の万づは神のままなり」ですから、「唐と日本」が分かって、日本の道へと自分の進む方向が定まれば、物に執着する我身思案の「思考」 は消える。そのまま神に凭れて行けばいいのです。もう見てくれを良くしたいと自分だけの力であがかなくても、そのままの自分でいれば、そこに芽生える神の「意識」に自由自在の力が働くのです。

  いんねんもをふくの人であるからに とこにへだてハあるとをもうな 四 61
   因縁も多くの人であるからに 何処に隔てはあると思うな
  だんへとこどものしゆせまちかねる 神のをもわくこればかりなり 四 65
   だんだんと子供の出世待ちかねる 神の思惑こればかりなり
 「因縁も多くの人」― 神の子として生れた者が、唐と日本が分かるまでに成長したならば、「何処に隔ては無い」ですから、『私は未だ未だ…』、『私はとてもできないから…』などと言ってはそれでお終いです。気づいた時に気づいたとおりの行動を起こさねばならない。人生は何時でも「今」しかないのです。何でも先送りすること、私がしなくても誰かがしてくれる。あの人がすべきだ。こういう考え方がエゴに支配された、「今」に不在の人の顕著な特徴で、実体のない未来に思いを寄せる生き方、おふでさきではきっと出世のしそこない、いつまでたっても成長がない人よと歌って言い放つでしょう。


 出世したら、何をどのように行動したらいいのか、
  72「だんだんと筆に知らしてあるほどに、早く心に悟りとるよう」
  「筆に記してある」。筆とはみかぐらうたとおふでさきのどの部分?
  83「一列に神に凭れるこの子供、早く表へ出る模樣せよ」
 「表へ出る」とは?
 「?」をみんなで埋めていきたいと思います。

                           中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

唐と日本を  分ける「道」-1 

2016-05-21 14:33:31 |  エッセイ
 明治2年に立教の根拠と教えの根本を文字に記したおふでさき1と2号で、「この道」の進む方向を示して、これからはこの方針で世界に向けて教えを広めていくが、それまでの生き方とはあまりにも違うから「世界は何事するかと、笑うだろうが(一72)それはこの世の真理、天然自然の理であるから、「これで末代しかと治まる」としっかり決めているのです。
 そのように宣言して、二34で「この先は唐と日本を分けるでな、これ分かりたら世界治まる」と歌ったのです。そして、「唐と日本を分ける」ために、かんろだいづとめを教えながらだんだんと「この道」を説き聞かせていくのです。

 それから5年後の明治7年に、おふでさき3号を再開して、ここまで「この道」の信仰を語ってきているが、ここから更に「この道」を極めていくためには「何事にても、この世は神の体や思案してみよ」とこの真理を体で感じとることが重要な起点になるからと歌って、人々の心の奥深くにうったえるのです。その話の中で、これから語り続けていく話の方向を示しながら「神の話をだんだん聞いて楽しめ」と言って三号をおさめている。

 おふでさき四号は、そういう流れの中で歌っているのです。この号は「道」がテーマであろうと誰でも氣づくところ。「みち」という語は、特に三号、四号、五号の3つ連続した号に集中して使われているが、この四号にもっとも多いからである。
 そして、もう一つ「から」という語。それはおふでさきの全体で25回使われていて、その内3、4、5号に15回も出ている中で、この「から」の語は、四号だけで8回と、やはり一番多く使かわれている。ということで、「道」と「唐」という語が、おふでさきの中でともに四号に一番多く使われていることの意義を、どうしても知りたくなるというもの。


 その四号は、56で「この先は世界中を一列に 助け守護をみな教えるで」と言って…
  にちへにからとにほんをわけるみち 神のせきこみこれが一ぢよ 四 58
   日々に唐と日本を分ける道 神の急き込みこれが一条
 この時代「みち」を一番伝えているのは、なんと言っても道教に違いない。儒教が『女子と小人は養いがたし』と言い、男子、権力者に有利な思想であったのに対して、道教の方はむしろ女性を天下の源というように尊んでいるから、女性や弱者などには『老子』はかなり親しまれていたようだ。
 その老子の思想の根幹をなす「みち(道)」とは何か、を『老子』を語る書物からから探ると、老子は、「道」を尊重し、道がどのように生成されるかを論じた点に大きな特色がある。「道」とは宇宙そのもの、あるいは宇宙の摂理とも言うべきものであり、永遠に存在するものであることを伝えようとしているのが分かる。
 「永遠に存在するもの」と言えば、おふでさきの「この道」は「病まず死なず弱りなき」という歌に重なっている。


 四58の歌は、その前37の「病まず死なず弱りなき」をくだくようにして歌っているが、実は、この一連する31~38の歌は、「この道」の根本、おふでさきの精神を語っていると決めて間違いない歌であると思う。
 だから、四58の真意をつかめば、この号だけに留まらず、「この道」を語る親の思いを確実に心に修めることができるという確信で、これからこの歌にせまりたいと思います。

神の一条に  つかねばならぬ

2016-05-13 21:22:58 |  エッセイ
 おふでさき四号の40の歌
  いまてハなみなの心とうちなるの 心かをふいちがいなれども 四 40 
   今ではな皆の心と内なるの 心が多い違いなれども
 「皆の心」とは、この道の生き方がしっかり心に治まっている人を指す。「内なる者」とは「側なる者(44)」のことで、秀司さん夫婦と取り巻きを指している。内の者、側な者はともにみき様から同じときに、同じ話を直接耳にしているから、それぞれの行動は同時ではないにしても、みなの「意識」は進化しながら定まった方向へ向っているはずと思いきや、これほどまでに大きな違いができてしまっているとは、という神のため息が聞こえる歌です。

 その差は、一体どこから生れたのか
  たんへとふでにしらしてあるけれど さとりないのが神のざんねん 四 47 
   だんだんと筆に知らしてあるけれど 悟りないのが神の殘念
  このはなしなにの事やとをもうなよ こゑ一ぢよのはなしなるぞや 四 50 
   この話何の事やと思うなよ こゑ一条の話なるぞや
 その差は「悟り」がない。「こゑ一条」の教理がしっかり心に治め切れてないことに大きな原因があると言うのです。「こゑ一条」については「筆に知らしてある」― みかぐらうた一下り目の「この道」の入り口の教理で「こゑのさづけ」として、はっきり記したと歌っているということ。人はみな神の子であり、誰もが素晴らしい個性を持った価値ある存在であるから、と意識を変えることで何も恐れることなく、自信を持って暮らしなさいと、今までの自分のままでいることに安堵を授けたのです。
 「みち(道)」について語っている[老子]の第33章に、『他人のこと知る者は、普通のもの知り。自分のことを知っている者は、聡明なり。他人に勝つ者は力あり。自分に勝てる者は真に強し。自分の願望が強すぎる者は無理がある。どんな状況も満足することを知る者こそ、真の富者なり。…』
 私たちは自分を生きているように思っていても、他人の視線のために生きているために、無理な生活、無理な自分を演じて、それがために自分を苦しめる状況を自分でつくっていることが多い。だから、先ず自分の価値に目覚めるようにと「こゑのさづけ」を与えたのです。
 そして、その生き方の行為を「さんざい心」としてあらわしたのです。物を持つ、増やすという形を頼りとする「蓄財」に執着せず、「散財」に生きて心に豊かさを感じることで、真の富者になることができるというのです。

 「さんざい」が心に治まれば、そこには一切の我身思案の「思考」のエゴはなくなるから、神の「意識」のまま、「神に凭れて」いけば安らぎがあるのです。「病まず死なず弱りなき」という無限の世界に生きる境地です。
 それに対して、「唐」を信奉する「上」の心には、拝み祈祷、「神にすがる」という姿があるから、一見従順でいかにも信仰心が厚いと自負していても、自分のエゴはしっかり保持したままで、神を自分の方へ引き寄せようという貪欲な姿が見え隠れしている。自分のエゴの小さな砦の中では、本当の自分の見出しようはないということ。
 「神に凭れる」ことで、自分の「思考」のエゴを解放した広大無限の時空にいれば、誰でもジックリと本当の自分を見出すことができるのです。この本当の自分を知ることが、「悟り」をひらいたということです。

 みき様の話、「この道」の話を誰よりも身近で聞いた。そして、誰より年限かけお金も誰よりも費やし、誰にも負けないぐらい熱心に信仰しているという自負が、「自分を知る」ことにおいて、誰よりも勝っていることにはならない。如何に自分の「思考」のエゴが消えているかが、自分を知ることの入り口となり、それが「神一条」の「道」に続づいていくのです。


                       中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

唐人ころり  これを待つなり

2016-05-10 11:26:51 |  エッセイ
 おふでさき四号です。「みち」という語は、おふでさきに159回使われていて、そのうち三号に14。四号に30。五号に17と、この連続した3つの号に集中して出ている。この四号は30と飛び抜けて多く使われていて、冒頭の1の歌には(他の例として一49、三37にもあるが)その「みち」が3つ見える。
 1「今の道何の道やと思ている、何か分からん道であれども」と歌っている「なにか分からん道」をなんとしても「分かる道」にして、それを究めたいと思います。

  にちへに神の心のせきこみハ とふぢんころりこれをまつなり 四 17
   日々に神の心の急き込みは 唐人ころりこれを待つなり
  いまゝでのうしのさきみちをもてみよ 上たるところみなきをつけよ 四 18
   今までの牛の先道思てみよ 上たるところみな気をつけよ
 「ころり」のところを、悪役の「唐人」が当時流行して大勢の生命を奪ったコレラに罹ってコロリと死ぬのを待つと訳すと、61「因縁も多くの人であるからに、何処に隔てはあると思うな」の解釈に困る。それだけでなく、どんな悪事があっても身上、事情に知らせて気づかせたいと歌うおふでさきの親心まで否定してしまうことになる。
 ここは、天皇制軍国主義を貫こうという為政者が、人間はみな平等の魂を持っているということに気づいて、「ころり(前とすっかり違う状態になるさま-デジタル大辞泉)と心を入れ替えて、国の方針を改めてほしいという神、親の願いを感じねばならない。

 「唐人」とは、秀司さん夫婦と取り巻きがつとめ場所に祀り込でいる天皇家の先祖の十二柱の神のことを指している。それは正しく拝み祈祷で、その実態は「牛の先道」すなわち「牛馬の道」という善因善果、悪因悪果が教えの中心にあるのです。
 人間の尊厳を教えることよりは、人々の過去をほじって死の恐怖を語り、それを懺悔させて、「今」を未来と来世のために耐えることを教えて、唐人とその体制を維持しようとする者に取り込もうという魂胆があるのです。

 それに対して、「この道」は、
  そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ 四 37
   その後は病まず死なず弱らずに 心次第に何時もいよ
 「かんろだいづとめ」で学ぶ、外面や形にとらわれることなく、神の子として自分の価値に目覚め、自分のあるべきあり方をしっか身につけるなら、「身の内よりも涼やかになる(28)」ことができる。また人類創生のかんろうだい世界、「この道」と一体となるので、たとえ身は滅ぼうとも、その精神、生涯は永遠に亡びることはないのです。

 「この道」への覚醒のサインに気付かず、16の「唐人を従う心」のまま、それでも直そのまま求め続けているとやがて死と隣り合わせの「牛の先道」の中に、取り込まれていく…、「病まず死なず弱りなき」この道は、かんろうだいという意識の世界、つまり本来のあなたの世界、それは見せかけの幸せや喜びより、独創的で豊かな世界に、満ち溢れている
 それが分かれば、「唐人を従う心、これが可笑しい」と共鳴できる。


  「唐人」、「牛の先道」は、過去と未来。前世と来世のさま…
  「この道」、「かんろだい世界」は「今」と今に続くさま…
  朝夕の手踊りで、「今」を生きる自分を表現しなくては…

                     中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

たすけ一条である  謀反の根早く切りたい

2016-05-06 23:41:15 |  エッセイ
 おふでさき三号です。この号は「神の心」と「上たるの心」をそれぞれ明確にすることで、「この道」を究めたいという思いを強く感じる。

  たんへとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ 三 135
   だんだんと何事にてもこの世は 神の体や思案してみよ
  めへへのみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん 三 137
   銘々の身の内よりの借物を 知らずにいては何も分からん
 人は自分のことを何の力もないように思い思わされて、「上」、権力者に頼り従うか、拝み祈祷の神にすがることで、自分に力を授けもらう、望みをかなえもらうことに神経を注ぐ。
 しかし、人体の細胞は60兆もあり、それぞれが生命を持ち、更にそれを動かしているエネルギー、意識、心を備えていて、それはちょうど大宇宙の構成と全く同様につくられているという。人間は正しく「みな神の子」なのです。
 このことは、人の心の大きさと働きは広大な無限の力を秘めているということで、人の心の深さとは、底が見えぬぐらいに奥深く、全てのものを生みだす大本が、人の心、「意識」の中に存在するようであると歌っているのです。

  しやんせよなんぼすんだる水やとて とろをいれたらにごる事なり 三 65
   思案せよなんぼ澄んだる水やとて 泥を入れたら濁る事なり
 人の心は、深々とたたえた水のように静まり、澄んでいるものだが、一時の快楽を求めて(34、92)我身思案の「思考」のエゴに取りつかれた「泥」で濁してしまっている。泥から生れたものは、所詮は泥のもので長くは持つはずもない。泥を一掃して澄ました底知れぬ清さの中から生まれ出てくる、エゴのない「道」こそ「本道」であり、それが永遠の道となる。

  なにゝてもたすけ一ちよであるからに むほんねへをはやくきりたい 三 144
   何にてもたすけ一条であるからに 謀反の根を早く切りたい
 自らの中に元の神と神の自由を見出すという「たすけ一条」に目覚め、神の子として自分の価値を知るとともに、人も自分とまったく同じように素晴らしい個性を持った価値ある存在であると認める。相手の全てをそのままに受け入れる。そんな「この道」のあるべき心を行為にあらわせるなら、どんな鋭いことも丸く治める力を発揮することができるのです。つまり刺々しい人間関係も国と国との諍いさえ、人間の心は丸くすることができるということ。そして、この世の不幸、悲しみにも人の心は波動をともにして共有するのです。
 みかぐらうたの「四ツ 世直り」は一回転する手振りで分かるように、今までの自分をすっかり入れ替える。人間の心の持ち方、生き方が変わることで世の中が変わる。世直りがなると歌っているのです。国家間の争い、戦争を治めることができるのは、神の「意識」をもった、人間の無限の力をもつ心でしかできないということです。

 120~122の歌で「上のままや」と思っているが、それは心違う「神のまま」と言う。
 「神」、人間の親の心の大きさと働きは、まるで深遠のごとく何をいくら注ぎ込んでも、一杯にならないほど広大無辺、そして無限の力を持つ。
 「上」、高山だからと儘にしていても、それはほんの一時期の一点のこと。そのようなケチな強権支配、強力な 武器の保持が平和をもたらすことはあり得ない。
「神」、「この道」を求める心が、平和への道案内をしなくてはならないのです。


 神の借物、神の子の「心」でしか、世直りは成就することができない。

人間創じめ  元の神

2016-05-04 11:30:50 |  エッセイ
 おふでさき三号は、「元の神」を知らせることが大きなテーマとなっている。それで9の歌でその象徴として「柱」すなわち「かんろだい」を据える話をするのです。

 15~18から「元の神」の話に入ります。
  このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい 三 15
   この世の人間創じめ元の神 誰も知りたる者はあるまい
 たすけ一条という今までにない『人は誰でも神の子として、欠かすことのできない素晴らしい個性を備えた価値ある存在であること』を知らせて、生きがいを持って暮らせるようにするという助けをするのも、人間を創めた「元の神」、宇宙の創造主だからできること。

  いまのみちいかなみちでもなけくなよ さきのほんみちたのしゆでいよ 三 37
   今の道いかな道でも嘆くなよ 先の本道楽しんでいよ
 今それぞれが歩んでいる道が、たとえどんなに険しい、厳しく思える道であっても、決して嘆くことはないと言うのです。

  たんへとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ 三 40、135
   だんだんと何事にてもこの世は 神の体や思案してみよ
 40と138にまったく同じ歌を配して、その二首の間に99もの歌を並べ、「本道」に乗っかるための生き方を伝えている。
 ここでは、その100にも達しようという全ての歌を、全く「思考」をなくして「意識」の心でじっくり読むことで、「元の神」の体内にいる自分に浸ってほしいという、神、みき様の深い思いを感じることができる。

 その歌の中で「本道」を目指している楽しみ、を味わうためには、
 51、「しんばしら」、すなわち「かんろだい」をたてようという心づくりができるなら、「どんな事でも自由自在」になる(55)。
 75、かんろうだいを囲んでのおつとめしたい、と十分につとめ人衆が揃うなら、「自由自在を早く見せたい」
 84、85、よろづ助け、いか程の剛敵と向き合っても、元の神でともにあるという「意識」になれば、対する者のいく倍もの力が湧いてくるという「神」の守護がある。

 そして、「元の神」の守護を96~100の歌で、「この道」という語にして、すべてをまとめるようにして歌っている。
  しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ 三 99
   真実の心次第のこの助け 病まず死なず弱りなきよう
 今の道が辛くて楽しめないのは、それぞれの「心得違い」が原因にあるのです。この世と人類創生の「元の神」を知って、人はみな神の子であることを知り、人間思案の「思考」のエゴの「ほこり」をすっきり払うことができるなら、「元の神」と「意識」でつながることができる。

 おつとめをとおして、「元の神」の存在を自身において体現して、自身の存在も確かめて、本当の自分を知って自身を成就する。もう「欲」、我身思案の「思考」は消くなり、神に凭れている自分があるだけ。
 そこに、「病まず死なず弱りなき」、時間と空間の制約のない全き自由な世界、「この道」に「元の神」とともにいる自己を体現できるのです。