陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

一 今日までは何か心配したなれど

2017-10-27 11:32:55 | 宗教
おふでさき十三号です。

 みき様は、幼少の頃、寺子屋へ通った。何を主に学んだかと考えるとき、その時代武士、商人あるいは高山と称する層は儒教が主な教材であった。「儒教」の場合は権力者、男性には有利、『女子と小人は養いがたしと為す』だから庶民、女性を軽視する学問であった。その儒教を批判する立場で語っている道家の『老子』は弱者である庶民、女性に有利な学問であったから、その多くは『老子』に親しみを感じていたようだ。
 みき様が教えを語るとき、「道」、「この道」という表現が多い。「道」を説く学問といえば、『老子』がそれなりと言っていい。更に「この道」、「病まず死なず弱りなき」を象徴する「かんろだいづとめ」の目標は、『老子』の中にある『谷得一以盈』と合致する。 ― 「谷」とは、女性器を指し、それは万物を生みだす根源だから、正しく「イザナギ、イザナミの身の内のほん真ん中」そのものと言っていい。
 だから、「この道」の思想的な由来を上げるなら、みかぐらうたの各下りで締めくくる『南無…南無…』と称える浄土宗に連ねて『老子』を上げることができる。

  一けふまでわなにかしんばいしたなれど あすにちからわをふくハんのみち 十三 1
   一 今日までは何か心配したなれど 明日にちからは往還の道
 『老子』は「道」を解凍し展開させる教えと言われている。その「道」を形作る天、地、神、谷、万物、侯王の6つを重要なものとして全て「一」と表現している。みき様が『老子』に親しんだであろうということから、『老子』が語るこの「一」を念頭においたとき
 おふでさき1711首の中で、唯一この歌にだけ頭に「一」という文字がついていることと関わりがあるのかは脇において、この十三号には「一」を含む、「大一」と言う語、おふでさきに10箇所あるうち4回出てくる。その内の7回は「大一神の立腹」と「大一月日の残念」。重要なという意味の「大一」は、七号70と十三号60、103に限られる。
 さらに「一」だけに限ってとり上げれば、「一のこふき」、「一の神」、「一のどふぐ」、「一の宝」という使い方があって、やはり欠かすことのできない重要なという意味が宿っている。

 老子39章 ― 昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。
  は一を得て清く澄み渡り、は一を得て安定し、は一を得て霊妙であり、は一を得
  て盈(み)ち、万物は一を得て以って生じ、諸国の王は一を得て統治の資格を得た。
 全て「一」を得たからそれとして働けると述べる。ここから、「一」とは全宇宙の知恵、万物の根源と解釈できる。この章で一番大切なことは万物、すなわち人間を含む立毛一切にも神、と同格に「一」が宿っているということ。人間は尊厳を持ってしっかり生きねばならないということ。やはり「一」である「侯王」については、目指す対象は転輪王以外にないでしょう。このように全てはその存在と働きを持つということ。

  大一わりゆうけつくるをたすけたさ こゑ一ぢよふをしへたいから 十三 60
   第一は立毛作るを助けたさ こゑ一条を教えたいから
 おふでさき 一号9~12 ― かんろだいづとめが表すように全ての世界は一つにつながっているから、「一」を帯する人間が喜び勇むなら、その波動はそれぞれが「一」の「地と天」に広がり、「一」の自然界全てにも伝わるから、「一」の立毛も勇み立って「一」なる全ての生き物の生命を支える。これが真の「陽気づくめ」の姿です。人間だけが「勇む」陽気暮らしなどというチッポケなことではない。みかぐらうたとおふでさきには「陽気暮らし」は存在しない。

  月日にわ大一これをたすけたさ そこでとのよな事もゆうのや 十三 103
   月日には大一これを助けたさ そこでどの様な事も言うのや
 「立毛つくれば水がほしかろ」、生き物を永遠の生命に導く「立毛」になくてはならないのは水です。人間心の「思考」を澄まして「水と神とは同じこと」そして「世界中一列はみな兄弟や」と心にしっかり修めて「神に凭れる」。その「意識」が人々を解放して、陽気づくめに独りなるのです。

   だんだんとどんな話を聞いたとて 世界楽しめ月日働き
   月日には何かなわんと言わんでな みな銘々の心次第や
 「一 今日までは」の重要なる「一」は「往還道」のこと。「大一」である立毛と水、そこに「一」の人間、「一」の全てが結集された「道」、そこに「往還道」がある。


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

立毛つくれば  水がほしかろ

2017-10-25 22:26:50 | 宗教
おふでさき十三号です。

 「雨乞い」について、日蓮聖人自身が祈雨をしたという。文永8年(1271)6月、真言律宗の僧、極楽寺良観と雨乞いによる対決が行われた。良観は暴風を起こして失敗に終わり、聖人は清浄の行を見事に成就した。三日三晩続いた雨は、人畜や鳥虫までも活き返らせた…。
 みき様は「かんろだいづとめ」を「雨乞いづとめ」と銘打って「雨乞い」を実行している。明治9年6月28日より3日間、河東村小坂の松田利平の願いによって雨乞いづとめをした。雨は降らなかったが、その願いをした田は非常によく実った。雨乞いづとめを三日間つとめても雨は降らなかった、と実に正直にその状況を語っている。このように全体としては、雨乞いづとめをして降らない方が多かったようだ。

 「雨乞い」をした結果がどうであれ、お百姓さんにとっては、もちろん水が無ければ、収穫量に影響がでるしょう。しかし、ある特定の時、特定の場所にだけ雨を降らすという発想は、みかぐらうたとおふでさきにの解釈からはでてこない。それは見える世界、人間思案の「思考」の話ではなく、どこもないことばかりの見えない世界、神の「意識」の話だからです。「雨乞い」の祈願をするなら「助ける所がままあらう」、他の宗派(日蓮宗などに)任せておけばいいのです。

  せきこみもなにのことやとをもうかな りゆけつくれば水がほしかろ 十三 101
   急き込みも何の事やと思うかな 立毛作れば水が欲しかろ
  月日にわ大一これをたすけたさ そこでとのよな事もゆうのや 十三 103
   月日には大一これを助けたさ そこでどの様な事も言うのや
 7の歌で「たすける模樣急くばかりやで」、95で「一列我が子たすけたい」。そして、この101でもう一度「たすけたさ」と言いかけて、116まで14首の歌の間に「たすけ」という語を7回も使っていることから、そこに月日の人間に寄せる深い親心を感じる。どうしてでも我が子人間に親の働きを伝えて、それを永遠のたすけ、真理として「こふき」にしたいという月日の強い思惑が滲み出ている。
 この歌は、折しも干ばつで人々が難儀しているとき、その状況を方便、話しの台にしている。文永8年、明治9年などの一時だけの御利益の話しをしようというのではない。干ばつなどの事情があることはこの世が続く限り、避けられないこと。そういう厳しい状況をどう乗り越えるか? という月日の問いかけがここに見える。

 114「この助けどういう事であるならば、疱瘡せん世の守りつとめを」
 115「また助け病まず死なずに弱らんの、証拠守りを早くやりたい」
 疱瘡は、江戸時代に最も恐れられた流行病で、多くの幼子の生命が奪われた。神の子としてこの世に生を受けたからには疱瘡にかかっても生命は保証しよう。月日が我が子に完成させた治療法できちんと治療すれば、蔓延することも死ぬこともない、と言葉にしてそれを「ほうそう許し」とした。「おびや許し」とともに人々を「思考」の因習から解放させ、「神に凭れる」生き方の入り口としたのです。
 過去を懺悔して生きねばと「今」を犠牲にしなくても、「今」に意識を集中することで、過去の全ては払拭できる。あてのない未来に望みを託さなくても、「今」に在り続ける限り「死」は存在しない。そこに「病まず死なず弱りなき」生命がある。

  あまごいもいまゝで神がしんぢつに なにもゆうたる事わなけれど 十三 118
   雨乞いも今まで神が真実に 何も言うたる事はなけれど
 「何も言うたる事はなけれど」です。ここまでに全てを言い尽くした。あえて干ばつにどう対処するか。「雨乞い」のお願いはなど問わなくても、こういうときにこそ、かんろだいづとめを実行する。人間はみな同じ魂であることを知らしめ、それを皆が確認し、皆の英知を結集すれば一人残らずの人が納得する道、取るべき行動は見えてくるはずだ。

 108「この先はどの様な道があるとても、人を恨みな、我が身恨みや」
 109「この話しどこの事とも言わんでな、高山にても谷底までも」
 私を満足させてくれ、安心がほしいなどと理不尽な要求をしても、月日はそんな要求には応えられない。みなの行動に対する意識、とった行動がその結果を決める。もしそれによって騒動が起こるなら、それはおつとめの精神が確認できていないか、その精神を無視したということ。これは誰彼にではなく、全ての人、全ての時代に共通の話し。

 「立毛つくれば水がほしかろ」 ― 作物の実りに欠かせない水が不足する。こういうときに、「水」のありがたさを身近に感じて、人々の焦点が、他者への気配りに向けられるなら、自然界すべても人間の意識を反映したものになる。それと呼応して気候的にも大きな変化が起こる。

     雨降るも自由、雨降らぬも自由


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

どの様な事も  真実してみせる

2017-10-22 16:56:17 | 宗教
おふでさき十三号です。

 九月十九日より ― この年、明治10年4月9日より5月19日まで秀司さんは拘留された。73からの歌はその日付から秀司さん釈放後と分かる。
 73「今日からは月日の思う事をばな、どのよな事もみな言いかける」
 74「いまゝでもたいてはなしもといたれど、月日をもハくまだゆうてない」と歌って後半に入っていく。
 秀司さんの罪 ― 「何もかも強欲尽くしその故は、神の立腹見えてくるぞや 二43の通りの結果 ― 無届けの宿屋業での儲けをまつゑさんとで独り占めした、内部告発による脱税の罪で拘留されたようだ。「神の立腹」は当然秀司さん夫婦に向けられているが、十三号では面と向ってなじるのではなく、なしたことの結果から気づいて目覚めたなら、改めて「幸せを良きようにと十分に、身についてくるこれを楽しめ 二44と次のステージへ向けさせようとする。

 87「口先で何ぼ真実言うたとて、誰か聞き分けする者はない」と言って
  それゆへに月日このたびどのよふな 事もしんちつみなしてみせる 十三 88
   それ故に月日この度どの様な 事も真実みなして見せる
 人間心、人間思案の「思考」を払えば、本来の自分に目覚めるから、物への執着心から解放されて心が澄んでくる。それまで月日がいくら伝えても聞き分けなかったが、素直に治まるようになり、月日の自由が働いて進むべき道が見えるようになる。
 人間の「思考」、エゴ、欲の心は物質的な物やしなければならないこと、考えるべきことなどでいっぱいだ。これが物にとらわれている意識の次元、人間心が抱える安定感のないバラバラの状況をつくっている。自然界、立毛を含めていっさいが活性化され、人類がそのすべてと運命を全うするために、物でなく心に豊かさを求める生き方を目指す方向へカジをきらなくてはならない。それが月日の思惑であり、次のより高いステージ、進化の一歩となる。

  このたびハ神がをもていあらハれて ぢうよぢざいにはなしするから 十三 92
   この度は神が表へ現れて 自由自在に話するから
  どのよふな事もしんぢつするからハ むねのうちよりひとりすみきる 十三 93
   どの様な事も真実するからは 胸の内よりひとり澄み切る
 真の幸せは物事や出来事によって引き起こされるのではない。心に豊かさを持つことで、それは達成される。そのためには心を澄まして、「神の自由の話し」を受け入れる。(高山などと差別思想に振り回される)ガサツでチッポケな物事を整理して、心が澄み切り、静寂でなければならない。ここからはそういう敏感さが要求されるということ、
 そのためにはと、「神が表へ現れて」、「真実してみせる」 ― 人間の心ばかり、「思考」を解き放って、神の「意識」を自由自在に吹き込むから、独り澄み切って敏感さが育まれるようになる。そして、優しさや身近に起こる物事の良さを自分の中に直接感じることができれば、それは更に深くなる。それによって他者への愛情あふれる心遣いを感じるようになって、高い意識のステージがそこから展開される(99)。

    わたしという枠を 取っ払う瞬間を重ねること
    ただ在る静寂に すべてを委ねることで
    現状の自分は リセットされ
    自動的に 超次元の自分へと変容していく……k-zerostyle

 月日の「真実してみせる」と歌うその所以となら、それは月日がこれから話しをして展開させること、そこに籠もる永遠の真理をどうしても分からせたいからだ、と言える。

   急き込みも何の事やと思うかな、立毛作れば水が欲しかろ
   月日には大一これを助けたさ、そこでどの様な事も言うのや


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

月日思惑  未だ言うてない

2017-10-14 11:15:59 | 宗教
おふでさき十三号です。

 十三号のテーマは「往還道」つけて、月日にとって我が子である世界中の人々を楽しませたい。これからその助けを急くばかりの話しを煮つめていく。そして、そのための心構えを順々に語っていく中で、天下りた大一の理由でもあると、「こゑのさづけ」について語り、その「さづけ」の再確認をする。神の子として人間に生れたことの尊さを月日が「声」にして直々に伝え、それぞれがその誇りと喜びからわき起こる「さんざい心」で日々を送るときに、真の幸せを感じる。そこに「往還道」となるかんろだい世界が現実のものとなる。どうか「しっかり承知してくれ」と、前半を締めくくる。

 「今日からは月日の思う事をばな、どのよな事もみな言いかける」と歌い出して
  いまゝでもたいてはなしもといたれど 月日をもハくまだゆうてない 十三 74
   今までも大抵話しも説いたれど 月日思惑未だ言うてない
 と、それでも「月日思惑未だ言うてない」と歌って後半に入る。
 その「思惑」とは

  75「これからはどんな話しをしたるとも、これを必ず嘘と思うな」
  76「どのような事を言うやら知れんでな…」
  77「日本も唐も天竺までも」
  78「一夜の間にも働きをする」
    人生まるごと信頼すると 解き放たれる
    ちまちま自分を信頼すると 立ちはだかる
  と言いいかけて

  このはなしにんけんなんとをもている 月日かしものみなわがこども 十三 79
   この話し人間何と思うている 月日貸しもの、みな我が子ども
    我が子のためなら 何にだってなる
    たとえ 我が子に葬られようとも……

  80「いつまでも月日じっくりしていれば、何時になりても治まるめ無し」
  81「月日出かける働きに」
  82「世界中心澄ますと言うからは」
  83「銘々胸の内、澄ましたならば危なきは無い」
    この世界が 幻想であること……
    あなた自身の意識が 全ての根源であること……
    それらはもはや イロハノイ……
    幻想の始まりは 心……
    心の始まりは あなた……
    己れを捨て去り 真っさらな宇宙……

  84「だんだんと月日日々思惑は、多くの人を待つばかりやで」
  85「この人をどふゆう事で待つならば、一れつ我が子助けたいから」
    すべて 君の宇宙……
    君の宇宙が在る限り 月日はここを離れない…… 
                           k-zerostyle

   胸の内月日心に叶のうたら、何時までなりとしかと踏ん張る

                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

大一は  こゑ一条を教えたいから

2017-10-05 22:02:27 | 宗教
おふでさき十三号です。

  月日よりあまくだりたる心な なんの事やらたれもしろまい 十三 59
   月日より天下りたる心はな 何の事やら誰も知るまい
  大一わりゆうけつくるをたすけたさ こゑ一ぢよふをしへたいから 十三 60
   第一は立毛作るを助けたさ こゑ一条を教えたいから
 「こゑのさづけ」は、「おびや許し」とともに「この道」の双璧となる教理と言える。それは原典の筆頭といえるみかぐらうた一下り目に歌っていることから証明できる。「こゑのさづけ」は、当初「声のさづけ」と教えられたことを『御神楽歌述義』、『御神楽歌釈義』、『天理教全書・大正十一年』が、その実際として記している。それらの書には
 正月こゑのさづけはやれめづらしい ― 「正月」は歳の初め、ものみなの一新する時である。そこで、教祖立教、世界の立てなおしに着手するを、正月にたとえたのである。「こゑのさづけ」は、我等人間の救済を要めるのに應ずる『天啓の声』という意。「やれめづらしい」とは、この天啓の未曾有なるをいふ。

 ところがこの「こゑのさづけ」について、みかぐらうたで歌った7年後のおふでさき四 51に「こへやとて何が効くとは思うなよ、心の誠真実が効く」とあるから、そこには「声」を「肥」と入れ替えてしまい『糠、土、灰三合づつを合わせると肥一駄分に相当する効能がある』などと嘯いて、「こゑのさづけ」を拝み祈祷にねじ曲げている姿が見える。
 この張本人はもちろん山中忠七さんでしょう。伝記はみき様、小寒さんがお揃いで山中家へ入り込んだと自慢げに記しているが、実のところ忠七さんは「肥のさづけ」だけでなく、「おびやほうそ」なども含めて、教理をことごとく拝み祈祷にして、アクドク稼いだ中心人物。しかしみき様は、それ以上に物でなく心に豊かさ持つという「この道」の教えの神髓をねじ曲げていることを、許すわけにはいかないから赴いたであろう。それぐらいは容易に想像できること。
 それなのにまるで居直ったように平然と「肥のさづけ」を売り付けていたのでしょう。おふでさき四号から3年後執筆の、この十三 60がそれを物語っている(明治23.7.17のおさしづでも記しているが、この時64才の忠七さん、生涯かけて拝み祈祷を貫いたと知れる)が、この現状をおふでさきは、ここではっきりと「悪」と決めつけているのです。

  このさきハりゆけのこへをちがハんよ どふぞしいかりしよちしてくれ 十三 72
   この先は立毛のこゑをを違わんよう どうぞしっかり承知してくれ
 「善」とは、もちろん「神に凭れる」ことです。ここではそれを具体化して「声のさづけ」をいただいて「さんざいこころ」を定めることと言った ― 一下り目をひもとけば、「さんざいこころ」は人々の心に「よんなか」という豊かさを生むとある。その豊かな心に湧きだす衝動からの行為、その「勇む」姿が「むしょうにでけまわす」と手踊りで展開するように、喜びの波動を自分の周り中に発散させる。世界は一つにつながっているから、その「勇む」波動に共振して、人々の集合意識が変わるなら、動物世界といわず、自然界全もその新しい意識を反映したものになる。それと呼応して地球の多くの場所で地球的にも気候的にも自然に大きな変化が起こり、人も立毛も全てが「勇める」ようになる。そのありさまをおふでさきの冒頭の 一号11~14で歌っているのです。

 「天下りた第一」は「立毛作るを助けたさ」 ― 月日(みき様)から直々に『人はみな神の子です(46)』とかけられた「声」に目覚めて、神の子として、自らの個性の尊さに気づく、目覚めたその喜びを内なる自分にではなく、「地と天」の内に発信するから、その波動はもちろん立毛に届く。そのエネルギーの波動が、豊富な稔りをもたらす。
 「立毛の声」を「立毛の肥」にして、エゴの道具にしてはいけないのです。そのことを「しっかり承知」する。それが「善と悪」を知った者の生き方なのです。


     善悪も幸、不幸も 日和見の尺度……
     両極にとっては すべてわたしの創造
                     k-zerostyle


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

そこで月日が  現れて出た

2017-10-04 21:58:03 | 宗教
おふでさき十三号です。

 26~40にかけての歌は、40の「善と悪とを分けるばかりや」 ― 「この道」を歩むための基本である「善」と「悪」のケジメをしっかりつける話し、その大事の前提、伏線を語るために、今までに「理り」で伝えたことを、ここで改めて歌っている。26~34は13~21でも語っている人間心、「思考」がなす「悪」。 35~40は22~25に続いてその「悪」をおつとめで「善」に導く内容となっている。

 30「月日には世界中を見渡せど 元始まりを知りた者なし」
  このもとをどふぞせかいへをしへたさ そこで月日があらわれてゞた 十三 31
   この元をどうぞ世界へ教えたさ そこで月日が現れて出た
 神の子である人間は、どうしても人間思案の「思考」、エゴでもって「善悪」を判断しているが、エゴ、「思考」に頼りすぎるとバラバラな状態を許すことになって、それぞれが勝手な幻想を抱いてしまい、それが現実だと思い込む。そうした中で差別思想が生れ、それがまかり通るから、陽気づくめとはほど遠い姿があるばかりだ。
 「もう日が詰んであるから、月日が現れ出た」。このまま人々がバラバラで、差別社会が続くなら、我が子人間みなが「勇む」姿を見せる世の中からは遠ざかるぱかり、これ以上は黙って見ているわけにはいかない。
 「そこで月日が現れて」元始まりの真実を明かして、全てはつながり合っていて、独立するものは何もないことを気づかせて、神の子人間として、自身だけでなく互いに他人を尊重し合う世界、「往還道」へ導いていきたい。

  それしらず月日ゆう事みなけして あとわにんけん心はびかる 十三 34
   それ知らず月日言う事みな消して 後は人間心はびかる
 人間は自分が納得していると思い込んでいることなどは、すべてが弱者との比較から成り立っている。人間は人と比較することでしか、物事の認識ができない、月日はそれが人間心のなせる業だと言って、それを残念で仕方ないと嘆いているのです。だから、敵、見方も自分、他人も、全てが一体であることを知らなければならない。

  せかいぢうたがいにたすけするならば 月日も心みなひきうける 十三 38
   世界中互いに助けするならば 月日も心みな引き受ける
 これが正しいことでしょうか。比較された犠牲者がいるような、人間の認識は本当に正しい気持ちでしょうか? そうではなくて、すべてがお互いに調和して存在することを知ってはじめて、人は正しく物事を認識することができる。
 つまり、月日の視点とは、とてつもなく巨大なのです。まるで宇宙から、無数の星の中の一つである地球を見ているかのような気持ちの視点です。私たちも小さい視点で生活していると、社会生活で嫌なことばかりを感じてしまいます。しかし、広い宇宙から地球を眺めるような気持ちで生活すると、細かいことに執着して悩むことをやめていきます。他人も自分自身であるという、愛情にあふれて人類が生き始めれば、この世に素晴らしい「往還道」の世界が見えてくるでしょう。

   月日にも心引き受けするからは どんな事でも働きをする


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講