おふでさき十号です。
5~11、16~40では「にほんの者」へ、
12~15、41~54では、「唐」へ伝える内容であったが、
55で、「これからは唐もにほんも知らん事、ばかり言うぞやしかと聞くなり」と前置きして、
57で、「日々に月日の心思うには、多くの人の胸の内をば」と記して
この心どふしたならばわかるやら どふどはやくにこれをわけたい 十 58
この心どうしたならば分かるやら どうぞ早くにこれを分けたい
57~60は、おふでさきの随所に繰り返される表現で、ここでは4首連ねて我が子を思う親心の深さを溢じませている。老子第一章で、このような親心の内にふれることができる。
老子第一章
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。
あの人は素晴らしい生き方の「道」にある。あの人は優れている、と言っても、真実不変の方式も偉い人もない。「地と天」が創られたときには何一つとしてなく、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから月日にとって、我が子である人間のどんな人生も意味が有り、それぞれ非常に大切でかけがえのない人生だ。
「にほんの者」は「無欲」だから、その胸の内に月日は容易に入り込んで、万物の深遠なる姿をともに見て、陽気づくめを共有することができる。
しかし、「唐」は「有欲」につき万物の上辺の姿しか見る事ができないから、何をするにも苦労がつきまとうようだ。わが子人間がいろいろな経験を積んでいるその姿は、月日には輝いて美しく見えるものではあるが、月日の本心はと言えば、何としても「唐」のその「有欲」を一掃させて、万物の深遠なる姿にふれさせる、陽気づくめを味わうことができるようにさせたい。
そのために、先の53で「元さいかしっかり言う」と歌って、唐を無欲にさせたいと言っている。また、このように「元を」伝えることを「飛び出る」と歌って言い表したのです。月日が「飛び出る」ことで我が子「唐」に真実の元始まりを知らす。そこから「何を言うてもみな聞き分ける」状況ができてくるということ。
「唐」を含めてみなが聞き分ける状況ができたなら、
66で、「この話し何を仕込むと思うかな、これから先の万づ道筋」と記して、
せきこみもなにの事やらしろまいな かんろふだいのもよふばかりを 十 70
急き込みも何の事やら知ろまいな かんろうだいの模樣ばかりを
老子第一章は続く
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
「玄」とは神秘的奥深く、ほの暗いという意味。そこで最後に「玄のまた玄、衆妙の門」とあり、根本的な道は奥深い上にも奥深く、そこからあらゆるものが生まれ出てくる。
「かんろうだいの模樣ばかりを」 ― 「玄のまた玄、衆妙の門」、全ての根元(根源)を「かんろうだい」で表現して、「衆妙之門」、あらゆるものが生まれ出てくる姿をかんろうだいを中心に据えてつとめる「かんろだいづとめ」で再現しようというのです。
私たちは足元が定まらず、身のおきばがなくなったときは「かんろだい」に思いを寄せればいいのです。「かんろだいづとめ」をすることで、『記紀神話の創生の神話』に宿る、真理から外れた「意識」を解体させる。そして胸の内を澄ますなら、「無欲」となったその意識に「万物の深遠なる姿」、真実のもの、自らの道筋が見えてくる。
いろいろあっても……足元見えれば 歩いていける
いろいろあるけど……なんてことない
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中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
5~11、16~40では「にほんの者」へ、
12~15、41~54では、「唐」へ伝える内容であったが、
55で、「これからは唐もにほんも知らん事、ばかり言うぞやしかと聞くなり」と前置きして、
57で、「日々に月日の心思うには、多くの人の胸の内をば」と記して
この心どふしたならばわかるやら どふどはやくにこれをわけたい 十 58
この心どうしたならば分かるやら どうぞ早くにこれを分けたい
57~60は、おふでさきの随所に繰り返される表現で、ここでは4首連ねて我が子を思う親心の深さを溢じませている。老子第一章で、このような親心の内にふれることができる。
老子第一章
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。
あの人は素晴らしい生き方の「道」にある。あの人は優れている、と言っても、真実不変の方式も偉い人もない。「地と天」が創られたときには何一つとしてなく、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから月日にとって、我が子である人間のどんな人生も意味が有り、それぞれ非常に大切でかけがえのない人生だ。
「にほんの者」は「無欲」だから、その胸の内に月日は容易に入り込んで、万物の深遠なる姿をともに見て、陽気づくめを共有することができる。
しかし、「唐」は「有欲」につき万物の上辺の姿しか見る事ができないから、何をするにも苦労がつきまとうようだ。わが子人間がいろいろな経験を積んでいるその姿は、月日には輝いて美しく見えるものではあるが、月日の本心はと言えば、何としても「唐」のその「有欲」を一掃させて、万物の深遠なる姿にふれさせる、陽気づくめを味わうことができるようにさせたい。
そのために、先の53で「元さいかしっかり言う」と歌って、唐を無欲にさせたいと言っている。また、このように「元を」伝えることを「飛び出る」と歌って言い表したのです。月日が「飛び出る」ことで我が子「唐」に真実の元始まりを知らす。そこから「何を言うてもみな聞き分ける」状況ができてくるということ。
「唐」を含めてみなが聞き分ける状況ができたなら、
66で、「この話し何を仕込むと思うかな、これから先の万づ道筋」と記して、
せきこみもなにの事やらしろまいな かんろふだいのもよふばかりを 十 70
急き込みも何の事やら知ろまいな かんろうだいの模樣ばかりを
老子第一章は続く
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
「玄」とは神秘的奥深く、ほの暗いという意味。そこで最後に「玄のまた玄、衆妙の門」とあり、根本的な道は奥深い上にも奥深く、そこからあらゆるものが生まれ出てくる。
「かんろうだいの模樣ばかりを」 ― 「玄のまた玄、衆妙の門」、全ての根元(根源)を「かんろうだい」で表現して、「衆妙之門」、あらゆるものが生まれ出てくる姿をかんろうだいを中心に据えてつとめる「かんろだいづとめ」で再現しようというのです。
私たちは足元が定まらず、身のおきばがなくなったときは「かんろだい」に思いを寄せればいいのです。「かんろだいづとめ」をすることで、『記紀神話の創生の神話』に宿る、真理から外れた「意識」を解体させる。そして胸の内を澄ますなら、「無欲」となったその意識に「万物の深遠なる姿」、真実のもの、自らの道筋が見えてくる。
いろいろあっても……足元見えれば 歩いていける
いろいろあるけど……なんてことない
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中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講