陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

大和にて 山辺郡の庄屋敷なり

2017-04-27 14:39:29 |  エッセイ
 おふでさき十一号です。

  このよふのはじまりたしハやまとにて やまべこふりのしよやしきなり 十一 69
   この世の創まり出しは大和にて 山辺郡の庄屋敷なり
 立教(天保9年)当時の中山家の家族構成は、みき様(41才)、夫善兵衛(51)、秀治(18)、おまさ(14)、おはる(8)、小寒(2)さんです。
 そして、31年後のおふでさき執筆の舞台を構築する方向へときが流れていく。
 夫善兵衛さん ― 存命中はみき様の他に分かっているだけでも、外に、おかの(ちゑの母)という女性。屋敷内に、やそ(お秀の母)の母親と連れ合い[おふでさき通訳40]、それぞれにちゑ、やそという娘をもうけている。
 秀司さん ― なんと父善兵衛の娘、ちゑやそと関係して、それぞれにかの音次郎お秀という子をもうけている。おちゑ、かの、音次郎親子は、お屋敷の外に住んでいたのを、秀司さんが(慶応3年)吉田神祇管領から祈祷の許可を得ると同時にお屋敷へ連れてくる。そして、ここに「こふき」すなわちおふでさき執筆の舞台が整う。
 立教からここに辿りつくまでのみき様の道すがらは、「神一条でこれ我が事」と言明するおふでさき一号の「山坂、茨畦、崖道、剣の中、火の中、淵中」の歌で知ることができる。これは正しく「ひながた」の道であると同時に「こふき」 ― 「この道」、みき様の教えの原点がここに集約されていると言える。全てをそのままに「受け入れる」ことで「神」と一体となる「神一条」がこの言葉に集約されている。

  そのうちになかやまうぢとゆうやしき にんけんはじめどふくみへるで 十一 70
   その内に中山氏という屋敷 人間はじめ道具見えるで
  このどふぐいざなぎいゝといざなみと くにさづちいと月よみとなり 十一 71
   この道具イザナギ、イザナミと クニサズチとツキヨミとなり
 この歌をイザナギを夫善兵衛。イザナミをみき様。クニサズチを小寒。ツキヨミを秀治さんに被せることで、中山家はみな神から選ばれた尊い魂の持ち主であるとういう解釈がまかり通っているが、本当にそれでいいのか…
 夫善兵衛さんの女性関係は分かっているだけで先に記したとおり。
 秀司さんの女性関係、10人は下らないというから、上記はほんの一部。それどころか相場にしくじって中山家を没落させ、引きこもる時期がある。が、みき様に人とお金が寄るようになると、吉田神社神社から許可を得て、つとめ場所に十二神社を祀り込み、オレは戸主だと「上」ぶって、はばかっている様子は、おふでさきから窺えるところ。
 小寒さんは、「神の社」としてみき様の教えを取り次ぐことで、『若き神』と周りから慕われていながら、これも人助けだと役目を放棄してまで惣治郎さんのもとへかけつけるが、結局は惣治郎さんの「我が身思案の仕事」にあてがわれて、挙句子を宿して抜けられない状況となる。

 19~60の歌は、そっくり小寒さんに語っている。その小寒さん、父親、兄とも人に誇れるような生き方してないし、自分も思惑がはずれて惣治郎のエゴの餌食になって病いがち。中山家は神から見放されているに違いないという小寒さんの切ない心境、それを優しく包みこんでしまう神、月日の言葉 ― それが「人間創め元の道具」と強調する29~32、69~72の歌なのです。
 確かに「中山氏という」者は、貴方が思っているように傍から見れば、「この道」をしっかり歩んでいる者は一人としていないかも知れないが、「中山氏」の人とて月日にとってはみな可愛い我が子、みな神の子でかけがえのない素質を備えた尊い「人間創め元の道具」ですよ、
 だから ― 『小寒! 早く目覚めて本当の自分を生きる、神の社としてのつとめに戻るようにこうして仕込んでいる! 』

 29~32、69~72の「人間創め元の道具」はまた、「こふき」なるぞやです ― 69の歌をそれぞれが自分にあてはめた替え歌にしなければならないということ ― 私は磐田市に住んでいますから、「山辺郡の庄屋敷」を「遠州郡の見付」。「中山氏という屋敷」を「石原氏という屋敷」と入れ替える。こう歌って、道具衆として自覚をもって、一人一人が「神の社」目指して、本当の自分をゆうゆうと生きる。それが「こふきを拵える」ことになる。


    やりたいことをやり 言いたいことを言うのが自由なのではない
    自由とは 目の前の状況や 押し寄せる思考にとりこまれることなく
    あなたがあなたで 在り続けることであり  …  …
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                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講