陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

この先は  あっちこっちに身に障り

2017-01-17 23:19:12 |  エッセイ
おふでさき八号です。

  このさきハあゝちこゝちにみにさハり 月日ていりをするとをもゑよ八 81
   この先はあっちこっちに身に障り 月日出入りをすると思えよ
 「ていり」は、「出入り」ということ。これを、「牛馬と見える」を『牛馬に落つる』などと世間並みの因縁論にゆがめてしまうように、『手入れ、お手入れ』などと、人間の思考のままに流し込んだりすると、おふでさきの真意を掴み損ねてしまう。
 「入り込む」は、人間の心が「欲」、我が身思案のエゴが消え、神の「意識」がすんなりおさまるなら、神(神の意識)がそのまま留まる、入り込んでしまって自由自在となるのです。
 「出(て、で)入り」は、神が出たり、入ったりすること ― 神が入っても、人間の胸の内がエゴで満たされていては、神が留まるスペースがないから出て行くしかない。あるいは一度は縮んだエゴがまた復活すれば、やはり神の留まるスペースがなくなり、出て行くしかないということ。これらの語と似た内容で「飛び出る」という言葉も使われるが、それは 十4~13で詳しく語っている。
 「身に障り」ですが、みかぐらうたとおふでさきでは、「やまい」とは「如何な病も心から」と、先ず決定づけている。身体が侵されたから病気になったという世間並みのとらえ方は、おふでさきはしないのが鉄則で、心が病むことが病気ということ。
 調和の本道から外れて脇道に進んでいては、遠回りになるし、場合によっては二度と本道に戻ることが不可能になると可哀相で、人間の「親」としてとても見ていられない。エゴに操られて脇道を選び、自らを痛めているその悲しい心構えを、本人に気づかせたいと「身に障り」をつけているのです。気づけばそのまま月日は留まるから、エゴから解放されて自由自在になることができるのです。

  きたるならわがみさハりとひきやハせ をなじ事ならはやくそふぢを 八 82
   来たるなら我が身障りと引き合わせ 同じ事なら早く掃除を
 (八67までの歌で)かんろうだいの話を繰り返し聞くことで、だんだんと理解が深まっていくとともに、胸の内が洗われて神の「意識」を感じられるまでに、その波動が高まり、人々の中にかんろうだい建設の機運が熟してくる。
 このように価値観が変化して、意識、波動が高まってくると、それとともに個人だけではなくその集団においても、身体、事情に様々な変化が起こることは、近年その方面の科学では認識されていることですが、ここでは、そのことを「我が身障り」と表現している。この「障り」が引き合わせとなって、その体内に「月日が入る」状況を言っている。
 つまり、身の内に障りをつけることで、神が人々の体内に入り込み、留まるスペースを探っている様子を語っているのです。その「障り」を身体が病気になってしまったと認めるなら、せっかく高めた波動は下がりエゴが復活するから、神は留まれず「出ていく」しかないでしょう。障りを病気とは認めず、月日の助けたい手段(68)だとそのまま受けいれて、自ら高めた波動に身を任せるなら、「神は入り込んだまま」となり、障りなどものともしないのです。

 「同じ事なら、早く掃除を」― かんろうだいは、一人残らずが陽気ゆさんする世の象徴だから、必ずできてしまうもの。どうせなら、人々の波動が高まっている、この今が最大の好機、今がその時ですよ。かんろうだいを据えるための所を『さあ、早く掃除! 、さあ、早く! 』


  身体を自分と同一視していなければ、身体の一部や能力が損なわれても、自尊心やアイデン
 ティティは影響されないだろ。それどころか身体が衰えれば、衰えた身体を通して形のない次
 元が、意識の光がやすやすと輝き出るようになる。[ニュー・アース]


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講