横綱土俵入り、太刀持ち保志(現八角理事長)、露払い孝乃富士
九重親方(横綱千代の富士)が亡くなった。すい臓がんが転移したのだという。61歳は若すぎる。
大鵬、北の湖に続いて一代年寄の対象になった(一代年寄は拒否)、一時代を築き上げた昭和の大横綱だった。小柄???力士にしてはという事だが、183cm、126kgだった。体格でまさる力士達に太刀打ちするために、脱臼を克服するために筋トレを行っていた。苦手な力士の部屋に出げいこに行って攻略法を見出して苦手を克服していた。
北の湖を押し出す千代の富士
幕内最高優勝は31回で当時は大鵬の32回に次ぐ回数であった。
横綱としては大器晩成。26歳で横綱昇進。30歳代での優勝が19回。
連勝記録は53。それを止めたのが横綱大乃国であった。
54連勝はならず。千代の富士自身この日は平常心ではなかったのではないか?大乃国は情けないただのデブだったが、ここでは横綱として意地を見せた。
非常に強い横綱だ。前みつさえ取れば負けは無い。さすが千代の富士だと思って僕は当時TV観戦していた。大記録が出来るのもうなずけると思っていた。集中力が素晴らしいと思っていた。しかし、今当時を振り返ると、同時代に弱い力士達が多くて千代の富士はかなり恵まれていたのだとも思う。もちろん千代の富士は圧倒的に強かったのだが。
一時代を築いた北の湖、二代目若乃花は引退目前の晩年状態。千代の富士が横綱昇進してから、あとに続くのは低レベルな大関達の存在であった。琴風、朝潮、若島津、北天祐、隆の里、北勝海、大乃国、旭富士・・。マスコミから彼らは“大関互助会”と呼ばれていた。“大関互助会”は優勝争いに絡む事も少ない、情けない存在だった。大関が5、6人いた時もあったので上位との取り組みが多く、彼らは負け越さないように互いに星を貸しあって八百長でもしていたのではないだろうか???と当時噂されていた。千代の富士はいずれにも勝ち越していて、彼らは“お客さん”みたいなものだったのだ。隆の里、北勝海、大乃国、旭富士はその後横綱になった。横綱になった人達は“大関互助会”には入ってなかったかもしれないが、彼らの優勝回数トップは北勝海の8回が最高。大乃国なんて2回しか優勝していない。
千代の富士の引退後の不遇は、相撲協会のおかしな仕組みによるところが大きいのではないか?
理事の選挙で、一門と呼ばれる部屋の派閥が投票結果に大きな影響力を持つ仕組み。現役時代の優勝回数や勝利数など貢献度や、親方として強い力士をどれだけ育成出来たかというような事は考慮されない。大関にすらなっていない親方が理事になっているのに、九重は高砂一門で親方数が少ないから票が少なくなってしまうのだ。高砂一門の票は人柄の良い???八角に集まってしまうのか?とにかく不遇だった。理事長をやって当然だと僕は思うのだが。改善してほしい仕組みだ。前頭止まりのやつが理事なんて絶対おかしい!
弟弟子だった八角(横綱北勝海)は、本来前頭止まりくらいの才能くらいしかなかったが、けいこだけは熱心にやっていたから、それも大横綱千代の富士とけいこをやっていたから横綱まで上り詰める事が出来たのだ。一生かかっても返せないくらいの恩を受けたのに、兄弟子を立てずにまんまとうまくやっている。尾車(大関互助会だった琴風)は八角の腰ぎんちゃくとなり下がり、相撲協会ナンバー2の地位を占めている。
左から八角、尾車、貴乃花
現役時代と人相が変わっている。もちろん悪くなっている。
横綱土俵入りする北勝海
優勝した時の琴風
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