こんなのできた!

単調な生活に新発見を!  
日々の小さな出来事の写真日記

2010/12/15 坂の上の雲

2010-12-15 20:15:02 | Weblog

7:02 日の出前
冷たい朝だった。


後から見られていたようだ。


7:11 日の出
写っているのはさっきのカラスか。


生駒山


二上山
ここからは1つ山に見える。

新聞・ネットのニュースは
○ 12月調査日銀短観  7四半期ぶりに悪化
 大企業製造業DI 5 (前回 8)
悪化はリーマン・ショック後の金融危機の影響が色濃く表れていた2009年
3月以来、7四半期ぶり。

午前中


100ポイントを貰いに


「Jシン」へ


出かける。
ここからの二上山は雄岳、雌岳が見える。
ついでに


「Kメリ」に寄り、


モールを買った。


モール3号 茶 @¥218.×3本。


帰り道、高架は「いまのとこ無料の高速道路」。

昼食後、


先日電源線の配線工事を行ったが不細工な仕上がりだ。
買ってきたモールをここに取り付ける。


モールは両面テープで止め、さらに木ネジ2本で止めた。
作業はすぐに終り、細かい写真を取らなかった。


完成。
こんなに簡単に仕上がると思わなかった。こんなのだったらもっと早くやっ
ておくべきだった。また、電源線は天井を通すべきだった。


坂の上の雲  
昨夜、正岡子規が亡くなった。これはNHK「坂の上の雲」のドラマのこと
で、録画していたのを見た。
 へちま    たん
《糸瓜咲て痰のつまりし仏かな》 (正岡子規 ⑥-113) 

大岡信氏の解説・・・
これは死の前日、仰向けに筆を走らせた絶筆三句の最初の一句。子規は
すでに死んだ人、つまり「仏」として自分を描いている。この自己客観の余
裕と胆力に、たぶん子規の生涯が要約されていた。明治35年9月19日未
明没。

夏目漱石はこのとき、文部省の命を受けてロンドンに留学中だった。子規
が亡くなって約2ヶ月後、高浜清(虚子)から親友の訃報を受ける。

高浜清への返信で 


          漱石全集第二十七巻 書簡集一 p.176 岩波書店
  啓。子規病状は毎度御恵送のほとゝぎすにて承知致候処、終焉の模様
 逐一御報破下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶
 い申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは
 不致、只々気の毒と申より外なく候。 ・・・   (漱石全集27巻p.176)

と、すでに英国への出発の際、生きては再会できないだろうと互いに覚悟
して別れた友であった。
そして追悼句5句を書き送った。

   倫敦にて子規の訃を聞きて
《筒袖や秋の柩にしたがはず》 (夏目漱石 9-109、全集23巻p.166、27巻p.177)

《手向くべき線香もなく暮れの秋》 (夏目漱石 3-121、全集23巻p.166、27巻p.177) 

《霧黄なる市に動くや影法師》 (夏目漱石 ⑧-113、全集23巻p.166、27巻p.177) 

《きりぎりすの昔を忍び帰るべし》 (夏目漱石 全集23巻p.166、27巻p.177)

《招かざる薄に帰り来る人ぞ》
 (夏目漱石 全集23巻p.166、27巻p.177)

 皆蕪雑句をなさず。叱正。(十二月一日、倫敦、漱石拝) 


   のち