大河ドラマ「義経」 覚え書き 第四十七話 下

ー勧進帳小論ー 著名な国文学者の折口信夫(1887ー1953)は、「日本芸能史六講」という著作の中で、芸能の発生の根源に、「鎮魂」という目的があったとの発言をしている。 つまり芸能は、現在のように人様に見せるものなどではなく、神や仏となった魂の鎮めの目的で発生したということである。なるほど、考えてみれば、江戸歌舞伎三大名作といえば、「菅原伝授手習鑑」(1746初演)、「義経千本桜」(1747初 . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第四十七話 上

ー勧進帳人気の秘密を探るー 大河ドラマ第47話「安宅の関」を観た。弁慶一世一代の名場面である「勧進帳」であった。勧進帳は周知のように歌舞伎十八番の演目である。三世並木五瓶が、能の「安宅」を翻案し、天保十一年(1840)、第七代市川團十郎によって初演された作品である。流れから言えば、この「勧進帳」は、史実ではなく、フィクションと思われている。言ってみれば、「義経記」から発した義経に関わる伝説が時代 . . . 本文を読む
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岩手衣川の冬景色

    岩手衣川の冬景色古来より、歌に詠まれてきた「衣川」は、冬がいい。西行法師(1118―1192)も、衣川の冴え冴えとした冬景色をこのように詠んでいる。 とりわけて心もしみてさえぞわたる衣河みにきたるけふしも (解釈:何と心に沁みてくるのだろう。この冴え渡る衣川の景色は。今日まさしく私は冬の衣川を見にきているのだ) 奥州の冬の厳しさがしみじみと伝わってくるような歌 . . . 本文を読む
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奈良吉野蹴抜の塔(隠れ塔)

  奈良吉野の蹴抜の塔(隠れ塔)(奥千本の金峯神社裏) 源義経にとって、吉野はどうしても忘れ難い土地である。この地は、母常磐の故郷の龍門(宇多郡龍門牧は吉野郡龍門牧の誤記か?注)に近く、幼子の頃には、父義朝が平治の乱で失脚し、母に抱かれて冬の吉野路をさすらったと伝えられる。義経は、兄頼朝との確執によって、追われる身ではあったが、吉野の人々は、そんな義経を暖かく迎えた。この周辺には . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第四十六話

ー史実をベースにした脚色をー大河ドラマ「義経」46話を観た。はっきりいって破綻したストーリーを語るのは辛い。弱い者イジメと云われかねないからだ。ある人から、もう「覚え書き」は書かない方がいいですよ、との助言もいただいた。でもここまで来たので書くことにしたい。それにしても今回は、開き直りとも受け取れる史実を無視した派手な演出で、もはや頼朝、政子、静、佐藤忠信、などの人物の描写は、虚実のレ . . . 本文を読む
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京都蹴上の清水

京都蹴上の清水(蹴上の疎水公園) 京都の東山区に蹴上(けあげ)という不思議な地名がある。この地はかつて三条大橋を渡って東海道へ向かう京都の玄関口にあたっていた。南禅寺の近くである。琵琶湖疎水(1890年完成)の取水口があり、「蹴上浄水場」として知られている。蹴上の地名の由来は、牛若と呼ばれていた義経が生まれ故郷の京都を離れ奥州平泉に向かう時のエピソードから来ているらしい。義経は、16才になっ . . . 本文を読む
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兵庫須磨の浦の光芒

  兵庫須磨の浦の光芒(一ノ谷合戦跡) 一ノ谷合戦の往時をあれこれと想いながら、須磨浦公園駅で下車し、鉢伏山のだらだらとしたこう配を登ると、急に須磨の海が輝いて見えるところに出る。そこで八百数十年前のことが脳裏に浮かんだ。寿永三年(1184)二月7日、70騎ほどの義経軍は、この付近の高台に陣を構えたとされる。直下を見れば、そこには平家軍の本陣が見える。平家の赤旗がそこかしこにはた . . . 本文を読む
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福島県飯坂の医王寺

福島飯坂の医王寺(佐藤繼信、忠信の菩提寺) 福島県飯坂にある医王寺は、佐藤家の菩提寺である。16才で鞍馬山から奥州にやってきた源義経がはじめに身を寄せた場所がここ飯坂の地である。ここには大鳥城があり、湯の庄司と云われる佐藤基治という領主がこの地一帯を治めていた。佐藤家は藤原秀郷の末裔で奥州藤原氏とは同族である。奥州の棟梁藤原秀衡が奥羽の南限である白河からこの飯坂という要衝の地に佐藤氏を配置 . . . 本文を読む
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宮城の判官森(伝源義経公胴塚)

宮城の判官森( 栗原市栗駒小学校裏) 秋の判官森へ行く。紅葉の色づきはまだまだであった。温暖化の関係かもしれない。急勾配の坂を登り、栗駒山が正面に見える地点に着く。仮にこの地を判官森西物見としよう。そこにはベンチが置かれていて、駒形根神社の里宮越しに栗駒山山頂が正面にみえる。 里の伝承によれば義経は、ここから見える景色をこよなく愛していて、そのことを思って、この地の領主沼倉(藤原)小次 . . . 本文を読む
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福島の白河の関跡

福島の白河の関跡(奥州の南限) 白河の関は、奥羽三関(他に勿来の関、念珠の関)のひとつで、古来より歌枕として多くの歌人に詠まれた古関である。中でも能因法師(988~)の「都をば霞とともに立ちしかど秋風の吹く白河の関」や、西行法師(1118~1190)の「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり」はとくに有名だ。この白河の関周辺には、源義経にまつわる多くの伝説が散見される。白河神社境内 . . . 本文を読む
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宮城の栗原寺

 宮城の栗原寺(奥州平泉への玄関口) 宮城県北部栗駒山の麓に栗原寺(りつげんじ)がある。この寺は、義経が二度の奥州入りをする際、身支度を調えたとされる古寺である。当時は巨大な伽藍が建ち並び、多くの僧兵が闊歩する大きな寺であったと言われる。周囲には空堀が張り巡らされ、この地域が要衝の地であったことが伺える。寺伝によれば、義経はこの栗原寺の僧兵五十名を従えて奥州の覇王藤原秀衡の待 . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第四十五話

【義経の吉野からの逃亡ルート】 大河第45話を観た。これまでの45回の中でももっともバカバカしい最低の内容。もはや筋の論理破綻は歴然とし、台本の体をなしていない。義経の生涯の本質を「仇討ち」から「家族和合」ということに変化させた根本的な論理矛盾が、一気に露呈した格好だ。 前回にも書いたが、何故勝手に、名場面を脚色してしまうのか。変えて良いケースもある。それは平家物語や義経記の原作よりも、筋立て . . . 本文を読む
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義経とジャンヌ・ダルク

【義経の復権とジャンヌの聖女化】 日本におけるジャンヌ・ダルク(1412-1431)研究の第一人者高山一彦氏の新著「ジャンヌ・ダルク」(岩波新書05年9月刊)を読む。冒頭の序章で、義経伝説とジャンヌ・ダルク伝説が比較されていて興味を引いた。氏によれば、義経伝説とジャンヌ・ダルク伝説の違いは、「ジャンヌにはその生涯を明らかにする信頼できる特異な大部の史料ー二回にわたる教会裁判の記録ーが残されている . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第四十四話

【静御前小論】 大河四十四話を観る。はっきり言って台本がここに来てスピードアップしてきている。案の定、壇ノ浦以降の冗長な演出のツケが回って来ていることは明らかだ。腰越状で、三話も費やすなど、全体の構成から無駄な尺が多すぎたために、スピードアップせざるを得なくなった。中学高校の日本史の授業を思い出してしまった。 その為に、大物浦の知盛の亡霊出現のシーンがひどく安っぽいものになった。知盛役の阿部寛 . . . 本文を読む
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義経は自分の弓に銘を入れていたかどうか?

<質問> Nさんから、以前の大河「草燃える」(79年)で頼朝が平泉の持仏堂の前で義経の弓をとって涙するシーンがあったが、義経は自分の弓に銘が入っていたでしょうか、というご質問をいただいた。 <回答> 当時、弓に銘をいれる習慣性があったどうか、調べたことがないので軽々には申せませんが、基本的に弓に銘を入れることはあったと考えます。 弓・矢、太刀、馬具などは武者にとって、命とも言える道具です。弓の . . . 本文を読む
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