宮城の判官森(伝源義経公胴塚)

宮城の判官森( 栗原市栗駒小学校裏)

秋の判官森へ行く。紅葉の色づきはまだまだであった。温暖化の関係かもしれない。急勾配の坂を登り、栗駒山が正面に見える地点に着く。仮にこの地を判官森西物見としよう。そこにはベンチが置かれていて、駒形根神社の里宮越しに栗駒山山頂が正面にみえる。

里の伝承によれば義経は、ここから見える景色をこよなく愛していて、そのことを思って、この地の領主沼倉(藤原)小次郎高次は、ここに義経の胴塚を造営し、その御霊を弔ったとのことである。

ベンチのある西物見から20mほど登ると判官森の義経公墓所(胴塚)に着く。辺りは静まりかえっていた。塚の背後には鞍馬山から届けられた杉の苗が、力強く天を目指している。同じく塚の後ろの右肩には、静御前終焉の地とされる埼玉県栗橋町から贈られた「静桜」が慎ましく立っている。さらにこの判官森の墓所から50mばかり東に登ると弁慶森と呼ばれる岩山が聳えているが、その道端には、義経を最後まで守り通した佐藤継信忠信兄弟の菩提寺医王寺(福島県福島市飯坂)から贈られた(?)白樫(しらかし)が凛と構えていた。

多くの伝説を残している源義経の御霊がどのようにして衣川館からここに運ばれて来たのだろう。義経の御遺骸は、おそらく聖地である平泉の内部には、穢れの関係で入れられず、衣川の雲散寺に運ばれた。そこで遺体の検証と確認の後、首と胴は分断される。首は腐食処理が施され、美酒(アルコール)に浸されて黒櫃に納められる。続いて、鎌倉までの使者を誰にするかということで、議論の結果、藤原泰衡の弟高衡が選ばれ、泰衡の名代として、鎌倉まで運ばれたと推測される。

次に高衡が義経の首の入った黒櫃を運んだ衣川からの順路を考えてみる。衣川から骨寺を通り、栗駒に至る古道がある。おそらく義経の御遺骸は、やはり穢れの関係で、平泉市街を通れず、衣川から骨寺を迂回する形でこの古道を通り、青笹、都田、桑畑、万代、岩の目、判官森と運ばれ、胴だけは義経と親しかった藤原高次に手渡され、この地に盛土をして手厚く埋葬されたと推測される。 義経の首を運ぶ高衡一行は、判官森から黒岩館の前(岩ヶ崎)を通り、東にそれて奥大道に合流し、義経ゆかりの栗原寺で法要を済ませ、一路鎌倉に向かったものであろう。

それから、800年以上の歳月が流れた・・・。2005年11月6日、物言わぬ義経の五輪塔を見つめながら、私の中にあるイメージが浮かんだ。それは街道を行く義経の遺骸を運ぶ一団の幻影である。義経の死を聞きつけて、悲しむ奥州の民衆が、どこからともなく沿道に集まってくる。ある者は道端に頭を擦りつけるようにして、またある者は、どこまでもその運ばれる黒櫃を追いかけてゆく。やがて警護の武者たちに護られた義経の首を入れた黒櫃は白装束の男によって担がれ、小さくなって見えなくなる。その時、近くで山鳩の声が聞こえ、私は我に戻った。

栗駒山の麓の沼倉の里(判官森)と衣川、平泉との距離は、およそ二十キロ。八百数十年の間、この地に埋葬された義経の御霊は、誰に知られることなく、ひっそりと沼倉の里人によって大切に守られてきた。それにしても、こんな凄い武者が動乱の日本に現れて、流星のようにして消えて行ったことが不思議に思われた・・・。

 栗駒の九郎の塚に積もりける紅葉の勲章朝日に眩し

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