奈良吉野蹴抜の塔(隠れ塔)

 
奈良吉野の蹴抜の塔(隠れ塔)
(奥千本の金峯神社裏)


源義経にとって、吉野はどうしても忘れ難い土地である。この地は、母常磐の故郷の龍門(宇多郡龍門牧は吉野郡龍門牧の誤記か?注)に近く、幼子の頃には、父義朝が平治の乱で失脚し、母に抱かれて冬の吉野路をさすらったと伝えられる。

義経は、兄頼朝との確執によって、追われる身ではあったが、吉野の人々は、そんな義経を暖かく迎えた。この周辺には、源氏ゆかりの者や母常磐の縁者たちもいて、朝敵とされてからも義経を必死で支えようとしたのではないかと思われる。

文治元年11月5日未明、大物浦で難破した義津は、摂津住吉から同年11月12日吉野にやってきた。おそらく吉野執行の好意により役行者ゆかりの吉水院(現在の吉水神社)に通されたのである。しかしながら、それもつかの間、義経追捕の院宣が下り、頼朝の命を受けた使いの者が、吉野にもやってきたのである。

義経潜居の間(吉水院)

吉野山では、義経をこのまま匿うかどうかの激論が交わされる。結局、義経はこの空気を察知し、これ以上吉野に迷惑はかけれないとの判断から、吉水院から奥千本の金峯神社(金精大明神社)の裏手にある蹴抜の塔(隠れ塔とも)に一旦隠れることとなった。

そこで義経の郎等たちも、吉野の人々同様、激論を交わしたと思われる。まずこのままでは、いかに武略に長けた義経と云えども、多勢に無勢、捕縛される怖れもある。

そこで佐藤忠信が叫んだ。
「自分は、殿になりすまして、敵を引きつけますから、その間にお逃げください」
忠信は奥州から運命を共にしてきた手勢を引き連れて、義経一行になりすまし、吉野の悪僧の追捕をくい止めようというのである。
義経は、最初この申し出を強く否定していた。しかし忠信の決意の固さに負け、泣く泣くこの申し出を承諾する。

次に最愛の女性静も、「私も女人禁制の禁を犯して、一緒に参ることは叶いません」と単独で、山を下りて、京の母の許へ行くと言い出す。これも静の覚悟に感じて、義経は受け入れる。断腸の思いだったはずだ。

伝承によれば、義経は、その二人の思いを胸に、極寒の吉野の山河を抜け、川上村大滝に一泊、龍門から多武峰(談山神社)に入ったと伝えられている。

吉野山の山河を見、歩いていると、義経や佐藤忠信、静の思いが、今だにそこかしこに浮遊し、彷徨っているのを感じる。

吉野山九郎の跡をたどり来て静かなりけり女人結界


注>吉田東悟著 増補「大日本地名辞典」 冨山房 昭和44年12月刊
吉野郡龍門
 高見山の西に接し、上市村にいたる間を龍門村となす、古の龍門牧また龍門荘の地なり。北に龍門山を負い、吉野川に臨む、大字柳村山口の二を首里とす。東鑑云「文治元年、義経赴大和国宇多郡龍門牧以来、一日片時不在住安堵之思」この宇多郡はこの隣の地なれば誤記したるか、義経の幼児時母常磐に抱かれこの里に隠れたること平治物語に見ゆ。(後略)・・・。

秋の吉野山義経伝説紀行

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