文治2年8月15日の西行と源頼朝 1

【文治2年8月15日の西行法師と源頼朝会談を考える】 吾妻鏡の文治2年(1186)8月15日と翌16日に西行が、奥州への砂金の勧請に行く途中、鎌倉に立ち寄り、頼朝と会談したという有名な話がある。しかしこのエピソードについて、これまで歴史的な解釈はされてこなかった。頼朝に貰った銀の猫を、門外の幼児に渡して、物に固執しない西行法師を物語る所謂「西行伝説」のひとつとして通俗的に解釈されてきたに過ぎない . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十二話 下

【平重盛小論】 十二話の背後にあるものを政治史の側面から少しばかり考えてみる。平清盛という成り上がりの人物が、当時の日本の政治構造に対して、いったいどのような変革のビジョンをもっていたのだろう。 「平家物語」で語られることは、日頃の後白河法皇のやり方に怒っていた清盛が、重盛という温厚な良識派の息子の死を契機ととして、ついにその本性を出して、福原より兵を上げ、ついには法皇を鳥羽殿に幽閉してしまう . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十二話 中

【平重盛小論】 さてこの鹿ヶ谷の陰謀の後の清盛の恐怖の裁断を良しと重盛が認める意味が分からない。何故ならば、その後のセリフで、清盛は心に夜叉を持っているのに、おもてに出るのは、「情」だと言っている。これは矛盾ではないのか。 原典の「平家物語」でも、ドラマ「義経」における清盛にも、夜叉の心を抑えて、「情」がおもてに出ているとは思えない。それに重盛が夜叉の部分を引き受けるというのであれば、すべての . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十二話 上

【平重盛小論】 第十二話を見た。今回は、「平家物語」にすれば、巻第三の部分にあたる。この巻のハイライトは、平家方の諌言役としての重盛の死にある。何故重盛の死かと言えば、原典である「平家物語」の中でも、重盛という人物が、平家の良心を一身に背負っているような人物として描かれていて、この人物の死は、そのまま平清盛の業としての悪逆非道を抑止できる人間が居なくなってしまったことを象徴する事件だからである。 . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十一話 下

第十一話においては、奥州での義経の泰衡救出劇とそれに伴っての義経評価の高まりという創作部分に比重が掛かりすぎて、肝心の平家物語の筋立が疎かになっていた。この回で、描かなければならなかったのは、平家政権の凋落の兆しである。ところがこの描き方が余りにサラリとしていた。映像のモンタージュと語りによって、説明していたが、泰衡救出の創作劇などよりは、何故平家政権に対する反発が起こったのか。その根底にある問題 . . . 本文を読む
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奥州で義経は何をしていたか?!

奥州で義経がどんな生活をしていたのかは謎である。僅かに義経記や、地元の伝承などから分かることは、東北各地だけではなく、時には関東、京都、木曾までも比較的自由に周遊していたのではないかと思われるが、それも推測の域を出るものではない。現在、「義経不死説」として語られるかつての蝦夷地北海道まで点々として伸びる義経北行伝説の道筋も、衣川で自害する以前に、足を伸ばした生前の伝承が、そのまま残っていて、後に落 . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十一話 上

いつも大河ドラマを見ながら、思うのであるが、このドラマが史実なのか、それとも単なる創作劇であるかというものである。 歴史をかなり知っている人でも、11話の義経の展開を見ている人にとっては、「ほうこんなこともあったのか?!」という感じに思ってしまうかもしれない。しかし厳密に言えば、ほとんどが創作で、史実というものとは、およそかけ離れていることは事実である。であるとしたら、最後に「本ドラマは史実とは . . . 本文を読む
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義経の生涯は「敵討ちの生涯」?!

義経の生涯は、敵討ちの一生であった。しかし「義経記」では、その敵討ちの側面を無視否定し、ひたすら不幸を背負って日本中を彷徨う義経だけに焦点をあてて描いた。 民俗学者の折口信夫がいうように義経の一代記としての、「義経記」は、唱導文学と言われる。周知のように唱導とは、僧侶(唱導師)が、俗世の無常を説いて、民衆を仏道に帰依させようとして日本中を歩いて物語などを語ることである。義経記は、多くの唱導僧たち . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十話 

【都市平泉への無知と無謀なストーリー展開】 「義経」第十話をみた。一言で云って、腰砕け状態だ。平泉という中世都市に関する知識レベルが稚拙過ぎる。 おそらく、作者も演出家も、実感(あるいは実景)として平泉を掴んでいないのだろう。冒頭のCG映像で、都市平泉の鳥瞰図をもってきていた。この原図は「図説奥州藤原氏と平泉」(高橋富雄他著河出書房新社 1993年作成:板垣真誠氏 監修:入間田宣夫氏)掲載の束 . . . 本文を読む
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平治物語の東下りを再現する 3

【迎える秀衡の心境はいかに?!】 義経はいよいよ白河の関を越えて奥州に入る。平治物語は語る・・・。 【早速、義経は、奥州へ向かうと、兄頼朝よりの文を届けると、夜になって尼(佐藤元治の妻となった大窪太郎の娘)と対面された。 尼は、「私には、佐藤三郎次信と、四郎忠信という二人の息子を持っております。次信は御曹司のお役に立ち者とは思いますが、、大酒飲みにて、酒に酔うと、少し口が悪くなるところがござ . . . 本文を読む
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義経の生涯を自己実現の視点で見直せば・・・?!

【運命としての源義経 結語】 多くの日本人は、義経の悲劇的な側面に焦点を当てて見る傾向にある。しかしそれは一面的で否定的(ネガティブ)な見方である。江戸期に徐々に形成された「判官贔屓」という日本人独特の心情は、まさにそのことの証明だ。しかし自己実現を人間の生涯の大いなる目標と考えるならば、義経の生涯は、まったく別の意味をもつものとなる。 義経にとって、彼自身が考えるている「自己実現」あるいは . . . 本文を読む
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大河ドラマ「義経」覚え書き 第九話 下

 【平泉へ海路を行くとしたら・・・】 さて、平家が追いかけて来たというので、義経一行は、駿河(静岡の清水か)辺りで駿河次郎を船頭として、船に乗って奥州に向かったという設定である。着いたところはどこの湊であろうか。作家がはっきりとどこという意識を持って描いた土地ではなかったように思える。バックの景色もスタジオで、実に曖昧であった。 勝手に想像してくれというのであれば、塩釜で上陸した一行は松島を越 . . . 本文を読む
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平治物語の東下りを再現する 2

【東下りの時に義経と頼朝は既に会っていた?!】 さて平治物語の東下りの真相を続けてみる。 【その夜、ふたりは鏡の宿に到着した。夜が更けると、遮那王は、自ら鬢(もとどり)取り上げて整え、懐より取り出した烏帽子を、しっかりと被り、紐をキリリと締めると、すでに夜明け間近となっていた。 陵助が「あっという間に御元服なさいましたな。さて御名はいかになさいますか」と申し上げれば、遮那王は、「烏帽子親もな . . . 本文を読む
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伊勢三郎義盛は山賊ではない!!

伊勢三郎義盛について少し言及しておきたい。大河ドラマ第九話では、鏡の宿であるから、滋賀県の竜王町の辺りで悪さをしている山賊として登場するのであるが、これは少なくても、おかしい。何故ならば、伊勢三郎という人物は、実在の人物で、しかも「義経記」によれば、一番最初に家来になった重要人物であるから、それなりに注意をした描くべきである。 義経記によれば、伊勢三郎と義経が出会ったのは、上野国の板鼻(現在の群 . . . 本文を読む
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平治物語の東下りを再現する 1

【義経東下りの真相を探る】 大河ドラマ第九話の東下りのシーンは、弁慶や喜三太や駿河次郎が登場するなどあまりにデタラメで論じるに値しない。大体平家が本気で追って来て、あの手勢で逃げられるはずはない。手勢を二手に分けるとの義経の進言であるが、まったくナンセンス。吉次ほどのプロが、義経というVIPを奥州に運ぶのに、山賊に狙われるような無防備で行動する訳がない。船で行くというのではあれば、初めから船の旅 . . . 本文を読む
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