平治物語の東下りを再現する 1

【義経東下りの真相を探る】

大河ドラマ第九話の東下りのシーンは、弁慶や喜三太や駿河次郎が登場するなどあまりにデタラメで論じるに値しない。大体平家が本気で追って来て、あの手勢で逃げられるはずはない。手勢を二手に分けるとの義経の進言であるが、まったくナンセンス。吉次ほどのプロが、義経というVIPを奥州に運ぶのに、山賊に狙われるような無防備で行動する訳がない。船で行くというのではあれば、初めから船の旅を試みるはずである。

むしろ義経は、平治物語の記述のように吉次と出発したのではなく、下総国の陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)という者と二人で、密かに旅支度を整えて鞍馬を出た可能性がある。平治物語の「牛若奥州下りの事」記述は、古い形の諸本より後に付け加えられたものと思われるが、それでも義経記の成立よりは、遙かに古く平家物語の成立年代に近いと思われ、史実としては、研究の余地が大いにある。ある意味、義経記は、熊野山伏の影響下にある物語で、弁慶物語の挿入は、そのことの端的な証左となる。

さてこの平治物語を吟味して義経の東下りの真相をみることにする。

平治物語では、東下りをこのように記している。

【鞍馬山の「蓮忍」も「覚日」も、声を揃えて「遮那王出家しなさい」といえば、「兄二人が法師になったのも無念なのに、私はそのようには絶対になりたくありません。」と、場合によっては、二人を突き殺さんばかりの眼をして答えるので、二人の師匠も常磐も継父の長成も、それ以上強くは言い出せず、ただただ平家にそのことが聞こえるのを怖れ嘆いていた。

そしてある時、奥州の金商人で吉次という者がやってくる。この者は京に上ってきたついでに必ず鞍馬へお詣りをするの習わしであるが、たまたま遮那王に会うと、遮那王は、「この童の私を陸奥へ一緒に連れて参れ。身分の高いお方(ゆゆしき人)を知っているので、無事に連れて行ってくれた時には、褒美の金を貰ってお前に進ぜよう」と言う。

それに対して、吉次は、「ご一緒にお供をさせていただいて、お連れするのは容易いことですけれども、大衆(鞍馬の衆徒を指す)に咎めを受けてしまうと思われます」とやんわりと断るのである。

すると遮那王は、「この私のような童が、どこかに消え失せても、誰か尋ねてなど来ようものか。ただ行き倒れて土用干しとなった死人の懐を漁る盗人がやってくるくらいのものであろう」と言うので、「そのお覚悟ならば、子細はいずれお伺いしましょう」と約束したのであるが、「但しその時には、私一人ではできないので、協力者の助けによって実行致すことになりましょう」と言うことになったのである。その時、そこへ鞍馬へやってきた者があった。

遮那王がその者に質問する。
「あなたはどこの国の人か。そして氏(うじ)は何と申すのか」などと言えば、その人物は「下総国の者です。深栖(ふかす)の三郎光重が息子で、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)と申します。源氏です」と答えたので、「やはりそうでありましたか。誰が親しい人はおりますか」と問えば。陵助は「源三位頼政(げんざんみよりまさ)と申す人と親しくさせていただいています」と言う。

「私は今のところはどうしても、隠さなければかならない前右馬頭義朝の末子です、母も師匠も出家して僧侶になれと言うのですが、心に期したことがあって、今までいたずらに時を過ごして参りました。最近では、都住まいの全てに難儀を覚えておりました。この上は、どうか私を連れて、まずは下総まで下ってはくださいませんか。そこから、私は吉次と共に、奥州に向かおうと思うので。」と、計画と存念を語ったので、「分かりました」と約束して、御年十六と時の、承安四年(1174)三月三日の暁に、鞍馬を出て、東下って行ったのである。(現代語訳佐藤)】


さて、ここまでのところで、注目すべきは、四つほどある。

まず第一に「ゆゆしき人」という人物が誰を指すかということである。これまでは単純に「藤原秀衡」と思われていたが、最近では、一条長成の縁者である前陸奥守藤原基成を指すという見方もなされるようになって注目される。

第二に、義経が子細に語った計画によれば、まず陵助頼重の領地である下総国(現在の千葉から茨城にかけての地)まで、二人で密かに下り、そこで吉次と合流して、奥州に行くという計画であったことになる。これもまた義経自身が立案した計画として注目される。

第三に、吉次が、義経を奥州に連れて行くことについて、怖れているのは、平家の追手ではなく、大衆(寺の衆徒)の咎めを怖れているということである。ということは、吉次も相当鞍馬寺とは密接な付き合いがあり、もしも義経が姿を消すとなって、直接的に手を下したとなると、責任を問われかねないということであろう。同時それは鞍馬という寺が、義経を見張る役目を負わされているということを意味するのかもしれない。

第四には、伊豆の国守である源三位頼政(1104-1180)が一枚絡んでいそうな気配があることである。これは大変なことである。平治の乱では、清盛方に与して、従三位にまで出世したが、内心は源氏として忸怩(じくじ)たる思いで過ごしていたのであろう。義経が鞍馬にいる時には、直接的ではないにしろ、何かと気に掛けていたことは間違いない。これから6年後、頼政は以仁王を奉じて挙兵し、平家と宇治川で戦って亡くなっているが、いささか歳を取りすぎたとはいえ、武者としては、後に続く源氏の若武者たちのことを信じて本懐を遂げたというべきだろう。彼の長男仲綱の子に源有綱がいる。彼はほとんど義経と同年代と思われるが、義経の娘を妻として娶っている。あるいは政略のために義経の養子になった女性が嫁いだ可能性もある。いずれにしても伊豆の国守としての頼政の棟梁としての器量が、頼朝を含めた関東の源氏勢力を結びつける影の力となっていたことが伺えるのである。

つづく
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