日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
魔女・細木数子
魔女・細木数子
最初の結婚相手が語る離婚の真相・二
実際に細木がHと協議離婚し、籍を抜くのは3年半後の1966年・昭和41年のことである。その4年後Hは再婚して
2人の子を設け、現在も尚、静岡で眼鏡店を営んでいる。Hに改めて細木について聞くと、言葉少なにこう答えた。
『細木は当時、年相応に会話とかはしっかりしていたけど、右も左も分からないような女の子だった。つまり水商売の女の子ですよ。昔は可愛かったけど、今はテレビなどで見るとブタになっちゃった。
当時から仕事向きというか、商才が有ると思った。占いの話なんてした事がない。まあ、努力したんだろうね。こんなに有名になるとは思わなかった』
結婚するいきさつはどうだったのか
『実家の父親が倒れ、家業を継ぐために急遽、静岡に帰らなければならなくなった。そのとき細木は私に”ついていく”という話になった。離婚の原因は細木が“賑やかな所がいい、東京へ帰りたい、帰りたい”と言っていて、それじゃあ、ということで帰した。
わかるでしょ。所詮無理だったんだよ。田舎には合わなかった。ただ細木とはケンカした訳ではない。細木がH家を飛び出したのは直ぐだった。それ以来口を利いた事もない。自分はその後細木に連絡していないし、細木から電話があったことも手紙が来たこともない。
細木が出て行って直ぐ荷物を送った。離婚届を出すときも細木とは会っていない。出て行ってから一度も会っていない。細木とはまったく揉(も)めていない。直ぐ出て行ってそれだけですよ』驚くほどあっけらかんとした、“人間味に乏しい離婚”である。細木はこの結婚離婚騒ぎで男より商売を選ぶ自身の性向を自覚したに違いない。
当時の細木に女としての魅力が有ったとしても、それは商売の武器としての色香だった。婚家を飛び出し、銀座に舞い戻った細木はベビー洋品店を売り払い、前出の建設会社社長や銀行からも金を借りて、銀座八丁目、並木通りにバー『だりあ』をオープンした。
『だりあ』については当時を記憶する常連の客が居る。
「銀座のホステスの間で広まっていた噂は、店からの借金を返せないようだと『だりあ』に売られる。『だりあ』でホステスするか、ホステスしても返済が追いつかなければ更に売春要員として転売されるって話でした」人身売買とは不穏な話である。
★
細木数子は結婚生活わずか3ヶ月で嫁ぎ先のH家を飛び出し、
東京銀座に舞い戻ってバー『だりあ』を開店した。この時も建設会社のオーナー社長が500万円ほどを用立ててくれたという。
結婚する前、細木は同じ銀座八丁目でクラブ『かずさ』を営んでいたが、結婚に備えて弟の細木久慶に経営を任せ、月40万円(久慶に言わせれば月50万円)を仕送りさせた。
久慶は『かずさ』を手がけて水商売が儲かることを知り、立て続けにクラブ『シンザン』もオープンした。細木数子と共通のスポンサーで有る東京四谷の不動産業者が、大学を卒業して間もなくの細木久慶に出資してくれたものという。
同店は銀座八丁目、第五秀和ビルの五階でフロア面積30坪、バンド演奏も出来るステージも備えていた。ホステスは40人ほど、客単価は15000円ほどだった。店は流行ったが、久慶は母親の勧めで『シンザン』を細木数子に譲ったという。 続く
最初の結婚相手が語る離婚の真相・二
実際に細木がHと協議離婚し、籍を抜くのは3年半後の1966年・昭和41年のことである。その4年後Hは再婚して
2人の子を設け、現在も尚、静岡で眼鏡店を営んでいる。Hに改めて細木について聞くと、言葉少なにこう答えた。
『細木は当時、年相応に会話とかはしっかりしていたけど、右も左も分からないような女の子だった。つまり水商売の女の子ですよ。昔は可愛かったけど、今はテレビなどで見るとブタになっちゃった。
当時から仕事向きというか、商才が有ると思った。占いの話なんてした事がない。まあ、努力したんだろうね。こんなに有名になるとは思わなかった』
結婚するいきさつはどうだったのか
『実家の父親が倒れ、家業を継ぐために急遽、静岡に帰らなければならなくなった。そのとき細木は私に”ついていく”という話になった。離婚の原因は細木が“賑やかな所がいい、東京へ帰りたい、帰りたい”と言っていて、それじゃあ、ということで帰した。
わかるでしょ。所詮無理だったんだよ。田舎には合わなかった。ただ細木とはケンカした訳ではない。細木がH家を飛び出したのは直ぐだった。それ以来口を利いた事もない。自分はその後細木に連絡していないし、細木から電話があったことも手紙が来たこともない。
細木が出て行って直ぐ荷物を送った。離婚届を出すときも細木とは会っていない。出て行ってから一度も会っていない。細木とはまったく揉(も)めていない。直ぐ出て行ってそれだけですよ』驚くほどあっけらかんとした、“人間味に乏しい離婚”である。細木はこの結婚離婚騒ぎで男より商売を選ぶ自身の性向を自覚したに違いない。
当時の細木に女としての魅力が有ったとしても、それは商売の武器としての色香だった。婚家を飛び出し、銀座に舞い戻った細木はベビー洋品店を売り払い、前出の建設会社社長や銀行からも金を借りて、銀座八丁目、並木通りにバー『だりあ』をオープンした。
『だりあ』については当時を記憶する常連の客が居る。
「銀座のホステスの間で広まっていた噂は、店からの借金を返せないようだと『だりあ』に売られる。『だりあ』でホステスするか、ホステスしても返済が追いつかなければ更に売春要員として転売されるって話でした」人身売買とは不穏な話である。
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細木数子は結婚生活わずか3ヶ月で嫁ぎ先のH家を飛び出し、
東京銀座に舞い戻ってバー『だりあ』を開店した。この時も建設会社のオーナー社長が500万円ほどを用立ててくれたという。
結婚する前、細木は同じ銀座八丁目でクラブ『かずさ』を営んでいたが、結婚に備えて弟の細木久慶に経営を任せ、月40万円(久慶に言わせれば月50万円)を仕送りさせた。
久慶は『かずさ』を手がけて水商売が儲かることを知り、立て続けにクラブ『シンザン』もオープンした。細木数子と共通のスポンサーで有る東京四谷の不動産業者が、大学を卒業して間もなくの細木久慶に出資してくれたものという。
同店は銀座八丁目、第五秀和ビルの五階でフロア面積30坪、バンド演奏も出来るステージも備えていた。ホステスは40人ほど、客単価は15000円ほどだった。店は流行ったが、久慶は母親の勧めで『シンザン』を細木数子に譲ったという。 続く
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )
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細木は、静岡にしばらく住んでいたのですね。