つれづれ

ハラホロシャングリラ役者、山本佳希のつれづれなるままに、ひぐらし。

『ちいさき神の、つくりし子ら』

2008-02-13 07:26:13 | Weblog
プレタポルテ『ちいさき神の、つくりし子ら』を観ました。

聾唖の生徒と健聴者の口語教師の恋愛のお話。
でも、障害者と健常者の物語だけではない、コミュニケーションの物語です。

この話を見ていて、僕は友人のことを思い出していました。

小学校の4年生から卒業まで、僕は毎日、聾唖の友人の通訳をしていたのです。
彼は健聴者と同じ教育を受けたいと言うことで、聾学校から2年遅れで編入して来たのです。
なぜ、2年遅れかと言うと、耳に障害がある人は、記憶の発達が遅れる傾向があって、どうしてもその分、教育課程が遅れてしまうのです。
健聴者の僕らにはわかりにくいですが、記憶というのは聴覚と結びついている事が多いのです。
実際、文面を目で追うだけで記憶するのは難しいですが、目を閉じて声に出して覚えると比較的覚えやすいという経験なら誰でも持っているでしょう。
健聴者の僕らでもそうなのです。
耳の聞こえない人が、記憶中心の教育に遅れを取るのはある意味、仕方ないことなのかもしれません。

しかし、僕も4年生の春に彼にあったのが初めてで、校庭に文字を書いて意思疎通したのが始まりでした。
いつの間にか、少しの手話とお互いの唇を読むことで会話は普通のペースになりました。
僕が驚いたのは、それが出来たのが僕だけだったということです。
他の友人や先生は彼の言うことを理解できなかったのです。
だから、小学校高学年の3年間、僕は彼の通訳を勤めました。
授業中も彼の隣に座って彼が当てられたら、彼の答えを通訳する。
彼は先生の言うことは唇さえ見えればわかります。
しかし、先生は彼の言うことは理解できないのです。

僕は彼の通訳をしながら不思議に思っていました。
なぜ、僕はわかるのに、みんなわからないんだろうと。
それは、僕に特殊な能力があったわけじゃなく、彼のことをわかろうと言う気持ちがあっただけなのです。
他の人は彼の言うことはわからないと最初からあきらめている。
聾唖者は健聴者と意思疎通しにくいものだと最初からあきらめているのです。

中学に進学してから、僕は彼とは違うクラスになりました。
いつまでも僕に依存していては彼のためにも僕のためにも良くないと言う学校側の判断だったのでしょう。
そして、それはこの場合正解でした。
彼は僕以外にもたくさんのコミュニケーションを取れる健聴者の友人が出来たのです。

そして、彼は、彼自身が望んでいた、普通高校への進学も勝ち取ったのです。
これが、どれほど難しいことかは、自分達の学校に聾唖者がいたかどうかを思い出せばわかると思います。
目が見えない人は、大学にも結構存在するし、研究者にもいます。
しかし、聾唖者にはとても難しいことなのです。
まず、今の日本の教育制度では、英語教育は必須ですが、聴覚に重点を置く外国語習得に聾唖者は圧倒的に不利です。
そこがまず大きな難関なのです。

話が少しずれてしまいました。

彼は、自分自身で、根気よく他人とコミュニケーションを取ろうと努力しました。
そして、聾唖者には難しい普通学校への編入もやり遂げたのです。

でも、そんな努力が他の聾唖者全員ができるものではありません。
健聴者の何倍もかかる努力を聾唖者が全員できるわけじゃないんです。
僕たちが何の努力も必要としていないことを努力しなくてはならないんですよ。
やはり難しいことだと思います。

そして、それは普遍的に個人差や国家間の問題にも当てはまることなのかもしれないと、この芝居を観ていて思いました。
他者を自分だけの物差しではかっていたら、理解しようにも理解できないことばかりなのではないでしょうか?
みんながそれぞれの物差しを持っていては、単位が合わないことばかりです。
相手を愛し、理解すると言うことは、お互いの物差しの目盛りを合わせることのような気がしてならないのです。