志水甚吾と聞いてピンとくる方は
それほど多くないだろうと思う。
初代 二代 三代と続いているそうだが
熊本の加藤清正公の後に入った細川忠興に召抱えられた
刀装具の金工の名前である。
鍛冶場は八代にあったらしい。
ちなみに子連れ狼の主人公の拝一刀の愛刀も
肥後で鍛え上げられた同田貫という刀だ。
破れ傘刀舟悪人狩りの叶刀舟も愛刀も同田貫である。
こちらは加藤清正公時代からの実践刀であるが
こういう野趣で無骨なところがある肥後に
芸術の花を開かせたのが細川忠興ともいわれている。
さて志水甚吾であるが芸術性の高い刀の鍔を数多く製作している。
その中に雨龍の意匠がある。
このデザインを始めて見た時に何か歴史的な背景を感じたのだが
それが何なのかすぐには理解できていなかった。
佐賀の鍔工である若芝がこの甚吾の鍔を見たのか
類似の意匠の龍を彫っている。
ただ鍔の裏面が甚吾の独鈷ではなく倶利伽羅剣となっている。
ということはこの龍は弘法大師空海を助けた
波切不動たる倶利伽羅龍王ということが分かる。
たぶん甚吾の鍔を一般的に解釈すると
若芝と同じように弘法大師と倶利伽羅龍王を連想することになるかと思う。
しかし肥後の甚吾鍔の独鈷と雨龍は
古い方の独鈷山龍伝承の『弘法大師空海と雨龍』ということになる。
まず現在はこの空海の方の伝承は途絶えてしまい
古老の話以外では確認しようもないが
この甚吾鍔の意匠が、私にそういう伝承が
江戸初期には確かにあったと語りかけてくる。
そしてこの鍔には雨龍鎮護と鎮魂の願いが込められている。
やはり肥後独鈷山の龍を最初に封印したのは弘法大師空海であって
天台宗の真澄が悪竜退治をしたという新しい方の伝承は
天台宗池辺寺によって作られたものかもしれない。
しかしなぜかこの雨龍は悪龍とされて空海に封印されてしまい、
その800年後に肥後入りした甚吾が
なぜその独鈷山の龍に感応して雨龍の鎮護と鎮魂を思ったのかは、
もはや謎のままであるが
甚吾は八大龍王神と妙見の元地である八代に住み
そこから熊本市内城下に向かう際に通過する独鈷山を見て
その龍の秘密を知ったに違いない。
筆者がそれにより熊本霊ラインのHPを作り
分かる人には分かる様に公表した如く
甚吾も分かる人には分かるように鍔を製作したのかもしれない。
だとすれば同様の甚吾雨龍鍔が五山のそれぞれに埋められた筈である。
鉄鍔だから400年の年月により原型は望むべくも無いが
そういう感応はある。
真言宗を極めたという古老が話す
空海が退治した龍の伝承については『龍神信仰 6 No163』を参照していただきたい。
注記:高野山の伝承では三鈷杵であるが
なぜか伝承の飛来地は
熊本だけでなく長野・四国でも独鈷山となっているという謎はある。
弘法大師の独鈷杵落下伝承地
①長野県上田市 独鈷山 中禅寺
②四国高知第36番札所 独鈷山 青龍寺
③丹波国山内庄 稗田野町鹿谷 独狐投山千手寺
④熊本市 独鈷山
この飛来独鈷の話の概要をかいつまんでおく。
『飛行三鈷の伝説』
大同元年(806)年八月、弘法大師空海は明州から日本に帰ることを決意する。
弘法大師空海は明州の浜に立たれ、
「私が受けついだ、教法を伝法するのに良い土地があったら先に帰って示せ」と祈り、
手にもった「三鈷杵」を、空中に投げ上げた。
三鈷杵は五色の雲に乗って、日本に向かって飛んでいった。
この三鈷が高野山の御影堂(みえどう)の松の枝に留まっていたので、
これを「三鈷の松」とあがめて
このときの三鈷杵を「飛行の三鈷」と表している。
この三鈷杵が何時の日か三個の独鈷杵としての伝承にすり替わったのかもしれない。
重要文化財 ≪飛行三鈷杵≫伝空海所持 唐または平安時代 金剛峯寺蔵
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それほど多くないだろうと思う。
初代 二代 三代と続いているそうだが
熊本の加藤清正公の後に入った細川忠興に召抱えられた
刀装具の金工の名前である。
鍛冶場は八代にあったらしい。
ちなみに子連れ狼の主人公の拝一刀の愛刀も
肥後で鍛え上げられた同田貫という刀だ。
破れ傘刀舟悪人狩りの叶刀舟も愛刀も同田貫である。
こちらは加藤清正公時代からの実践刀であるが
こういう野趣で無骨なところがある肥後に
芸術の花を開かせたのが細川忠興ともいわれている。
さて志水甚吾であるが芸術性の高い刀の鍔を数多く製作している。
その中に雨龍の意匠がある。
このデザインを始めて見た時に何か歴史的な背景を感じたのだが
それが何なのかすぐには理解できていなかった。
佐賀の鍔工である若芝がこの甚吾の鍔を見たのか
類似の意匠の龍を彫っている。
ただ鍔の裏面が甚吾の独鈷ではなく倶利伽羅剣となっている。
ということはこの龍は弘法大師空海を助けた
波切不動たる倶利伽羅龍王ということが分かる。
たぶん甚吾の鍔を一般的に解釈すると
若芝と同じように弘法大師と倶利伽羅龍王を連想することになるかと思う。
しかし肥後の甚吾鍔の独鈷と雨龍は
古い方の独鈷山龍伝承の『弘法大師空海と雨龍』ということになる。
まず現在はこの空海の方の伝承は途絶えてしまい
古老の話以外では確認しようもないが
この甚吾鍔の意匠が、私にそういう伝承が
江戸初期には確かにあったと語りかけてくる。
そしてこの鍔には雨龍鎮護と鎮魂の願いが込められている。
やはり肥後独鈷山の龍を最初に封印したのは弘法大師空海であって
天台宗の真澄が悪竜退治をしたという新しい方の伝承は
天台宗池辺寺によって作られたものかもしれない。
しかしなぜかこの雨龍は悪龍とされて空海に封印されてしまい、
その800年後に肥後入りした甚吾が
なぜその独鈷山の龍に感応して雨龍の鎮護と鎮魂を思ったのかは、
もはや謎のままであるが
甚吾は八大龍王神と妙見の元地である八代に住み
そこから熊本市内城下に向かう際に通過する独鈷山を見て
その龍の秘密を知ったに違いない。
筆者がそれにより熊本霊ラインのHPを作り
分かる人には分かる様に公表した如く
甚吾も分かる人には分かるように鍔を製作したのかもしれない。
だとすれば同様の甚吾雨龍鍔が五山のそれぞれに埋められた筈である。
鉄鍔だから400年の年月により原型は望むべくも無いが
そういう感応はある。
真言宗を極めたという古老が話す
空海が退治した龍の伝承については『龍神信仰 6 No163』を参照していただきたい。
注記:高野山の伝承では三鈷杵であるが
なぜか伝承の飛来地は
熊本だけでなく長野・四国でも独鈷山となっているという謎はある。
弘法大師の独鈷杵落下伝承地
①長野県上田市 独鈷山 中禅寺
②四国高知第36番札所 独鈷山 青龍寺
③丹波国山内庄 稗田野町鹿谷 独狐投山千手寺
④熊本市 独鈷山
この飛来独鈷の話の概要をかいつまんでおく。
『飛行三鈷の伝説』
大同元年(806)年八月、弘法大師空海は明州から日本に帰ることを決意する。
弘法大師空海は明州の浜に立たれ、
「私が受けついだ、教法を伝法するのに良い土地があったら先に帰って示せ」と祈り、
手にもった「三鈷杵」を、空中に投げ上げた。
三鈷杵は五色の雲に乗って、日本に向かって飛んでいった。
この三鈷が高野山の御影堂(みえどう)の松の枝に留まっていたので、
これを「三鈷の松」とあがめて
このときの三鈷杵を「飛行の三鈷」と表している。
この三鈷杵が何時の日か三個の独鈷杵としての伝承にすり替わったのかもしれない。
重要文化財 ≪飛行三鈷杵≫伝空海所持 唐または平安時代 金剛峯寺蔵
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