落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 民族主義と世界主義 マタイ 15:21-28

2008-08-13 05:31:07 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第14主日(特定15) 2008.8.17
<講釈> 民族主義と世界主義 マタイ 15:21-28

1. 資料問題
この記事は、一応マルコ福音書の平行記事とされる(マルコ7:24~30)。しかし、細かく見ていくと、マルコ福音書を書き写したにしては、かなり相違も見られる。それは、マタイがマルコを修正するというレベルを超えている。
たとえば、主人公である異邦の女はマルコ福音書では「シリア・フェニキアの女」(マルコ7:26)であるが、マタイ福音書では「カナンの女」(マタイ15:22)とされる。マルコ福音書では「ある家」の中での出来事であるが、マタイでは路上のこととされる。マルコ福音書ではいきなり本題に入り、イエスと女とは直接に会話しているが、マタイでは弟子たちの仲介が入る。マタイではカナンの女はイエスに対して「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という初代教会において定式化された祈りの言葉を用いているが、マルコにはそれがない。
何よりも決定的な違いは、ここでイエスはカナンの女に対して「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)と答えている点で、この言葉はマルコ福音書にはない。おそらくこれはマタイが持っていた別の資料によるというよりも、マタイの思想がここに挿入されているのだと思われる。逆に言うと、小犬云々という会話そのものの思想的背景になるのがこの思想で、この言葉を抜きにして語るマルコの物語の方が、不自然さを残す。
マタイ福音書の結論として女性の信仰に対する賞賛の言葉がマルコ福音書にはない。これだけ違いが明白にあると、おそらくマタイはマルコ福音書の他にこの出来事についての別の伝承資料を持っていたのかも知れない。
2. マタイのイエス像
この個所のキイワードはなんと言っても「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)というイエスの言葉である。イエスが、この通りのことを言ったのかどうかは、今さら何も言えない。ただ、マタイはイエスの言葉と生き方の中に、この言葉で表現されるイスラエル民族への固執を見たのであろう。これに類する言葉としてはマタイ10:5~6にも見られる。マタイが描くイエス像はイスラエルのために神から遣わされ、弟子たちの活動範囲をイスラエルに限定した偏狭なユダヤ民族主義者である。イエス像をそこまで限定してしまうことは行き過ぎだとしても、少なくともイエスの意識の中には、後の教会が目指した「全世界への福音」というような世界主義は見られない。
むしろ、本日のテキストの眼目は、自らの使命をイスラエルの家に限定するイエスの活動が、一人の異邦の女によって破られるという出来事である。言い替えるならば、それはマタイとマタイの集団の方向転換の出来事でもあろう。
3. キリスト教の「世界主義」
使徒言行録以後のキリスト教は、マタイによる福音書の最後の言葉「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉から出発している。これがキリスト教の世界主義の根拠である。もし、愛というなら、すべての民を愛するということである。博愛主義の立場と言い換えてもよい。もちろん、時間的な順序としては、世界への宣教という事実が先行し、マタイ福音書の言葉はその後に言語化されたのであろう。
さて、ここから問題は一挙に鮮明になる。イエスは博愛主義者だったのだろうか。博愛主義とはいったい何だろうか、という問題である。
本日の出来事は明らかに博愛主義を否定している。否定しているというよりも、博愛主義を知らない。少なくとも、ここでのイエスは博愛主義者ではない。むしろ、民族主義者とさえ言えるほど、民族を問題にしている。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。この言葉は非常に強い。排他的でさえある。つまり、自分の使命というものに固執している。この固執から、ある種の冷たさがにじみ出ている。
4. 義理と人情
一般に、義理人情と言って、義理と人情とをごちゃ混ぜにして一種の封建的モラルを考える。しかし、この義理と人情というものは対立的な関係であり、義理を通せば人情が破れ、人情を通せば義理が果たせない、という関係にある。これは又聞きであるが、夏目漱石が木曜会かなにかの席で、「自分は自分の娘が突然、盲目になって出てきても、ああそうかと言って座っているようになりたい」と語ったとのことである。そういうことで心が動かされないようになりたいということを、漱石は一つの理想としていたようである。これが理想かどうかはともかく、使命に生きるということには情を断ち切るという面がどうしてもある。自分の同胞に対する使命に生きようとするときに、どうしても他の民族を顧みない、「かまっちゃおれない」という面がどうしても出てくる。個人レベルで考えると、本当の愛に生きようとするとき、偽ものの愛、利己的な愛、人情というようなものを切り捨てなければならない。
イエスの生き方には、そういうところがあった。むしろ、そういうところに人々は惹かれた。そういう厳しさのない人物が、これほどのことが出来るはずがない。神から息子イサクを生け贄にして捧げよ、と命じられたとき、顔色一つ変えず、その明くる日にイサクを連れて祭壇に向かうアブラハム、このアブラハムを信仰の父として尊敬するイスラエルの伝統の中でイエスは生まれ、育ち、一つの使命を受けた。イエスはその民のために命を懸けた。
5. カナンの女
こういうイエスの態度に対して、カナンの女は、それは差別である、と批判的なことを言わない。「あなたはできるのに、こんなに困っているのに何もしてくれないとは、何事ですか」、とも叫ばない。むしろ、「ごもっともです」、という。これはイエスの情に訴えているのだろうか。イエスの義理に対して人情をからめているのだろうか。そうは思われない。そうだとすると、義理はますます堅くなる。そこには、響き合う共通点がない。イエスはこの女に対して「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われたのである。決して、「あなたの情に負けた」と言われたのではない。むしろ、女はイエスの民族意識を「主人の食卓」である、と言い切る。食卓は絶対ではない。縁がある。限界がある。あなたの使命は、そんなに狭いものなのですか。あなたの使命は食卓の縁を越えて溢れるものではないのでしょうか。この女は情に訴えたり、ヒステリックに脅迫するものではなく、イエスをもっと深く理解し、イエスの使命そのものに迫るものであった。だからこそ、イエスは「あなたの信仰は立派だ」と言われる。その意味はあなたはわたしを本当によく理解している。「あなたの願い通りになるように」。
6. 新しい世界主義
キリスト教の世界主義は、単純に民族意識を無視し、否定して生まれてきたものではなく、民族主義を徹底し、民族主義の底が割れて出てきたものである。民族間の淵、壁を破って達成された「超民族」ではなく、民族主義を徹底し、その底が割れて、到達された世界主義である。ユダヤ人としてのイエスとカナン人としての婦人とが同じ地平に立つ人間として向かい合う世界である。インターナショナル(国際)でもない、コスモポリタン(脱国籍)でもない、新しい世界主義である。まさに、カナンの女の「願い通り」になったのである。

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