落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第13主日(特定14)説教 不可能を可能とする

2008-08-07 07:34:42 | 説教
2008年 聖霊降臨後第13主日(特定14) 2008.8.10
不可能を可能とする マタイ 14:22-33

1. 5000人の給食と水上歩行
イエスの水上歩行の奇跡物語は、マタイ、マルコ、ヨハネが伝えているが、いずれも5000人の給食物語とセットになっている。この物語についても5000人の給食物語同様昔から色々な解釈がなされてきた。弟子たちの幻覚であるとか、岸辺近くの浅瀬での出来事なのに、弟子たちは沖でのことと勘違いしたとか、いわゆる「合理的解釈」である。この物語を読んで、どう考えても、そんなことは「あり得ない」というのが率直な気持ちである。この奇跡物語も5000人の給食同様、出来事そのものは確かに「ありそうもない」。しかし、「ありそうもない」この出来事を「あったこと」として福音書は語る。何があったのだろうか。そこには、確かに水上歩行以上の奇跡があったに違いない。わたしたちは、奇跡の可能性を議論するよりも、そのことの方がはるかに必要なことであろう。
2. 水上歩行の不可能性
人間は水の上を特別な装置なしで歩くことは出来ない。不可能なことが出来たから奇跡である。この物語を語り伝えた人々も実際に水の上を歩いたことを見てもいないし、経験もしていない。しかし、これを真実として語った。彼らはこれを真実と思った。本当のことと信じた。この信仰の背景にはこれに似た経験を彼らはしたからであろう。
この物語で最も重要な点は、ペトロである。イエスが水の上を歩かれたのは神の子だからということでけりはつく。しかし、ペトロも歩いた。この物語の痛快な点は、ペトロも歩いたということである。ペトロも歩けるなら、わたしも歩ける。ペトロに可能ならばわたしたちにも可能である。問題は一挙に現実性を帯びてくる。ペトロはイエスと同じように歩いた。あのペトロが歩いた。それならばわたしたちもイエスと同じように歩ける。
3. ペトロの問題
12弟子の中でもペトロはいろいろ問題の多い人間である。「おちょこちょい」といえば確かに「おっちょこちょい」である。勇敢だといえば、確かに勇敢である。臆病者といえば確かに臆病者である。要するに、12弟子の中でのペトロは「典型的な人間」「人間らしい人間」である。言い替えると、わたしたちはみんなペトロである。ペトロが行ったこと、言ったこと全部わたしもしそうだし、言いそうである。だからこそ、イエスはペトロを弟子の代表のように接している。ペトロも自分を弟子の代表のように思っている節がある。
ペトロの生涯での最大の汚点は、イエスが十字架刑に処せられるとき、イエスの弟子であることを否定し、逃げ出したことである。ペトロは3年間イエスに従って生活したにも関わらず、いざという時イエスと共に死ぬことができなかった。実は、これは、勇気とか忠誠心とかいうよりも愛の問題であった。イエスの死とは、「隣人のために命を捨てる愛」を意味している。従って、教会は伝統的にイエスと共に死ねなかったペトロの行為を愛の問題として理解してきた。だから、復活後のイエスが執拗にペトロを問い詰めた問題は「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」ということであった(ヨハネ21:15~17)。この問いに対して、ペトロは単純に「ハイ、愛しています」とは答えられず、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよくご存じです」(17節)としか答えられなかった。
4. 愛の問題
イエスは人々を愛された。これはいわば周知の事実である。イエスは人々に互いに愛し合うように教えられた。教えられたというより、命じられた。ここにイエスとわたしたちとの接点がある。イエスの身近にあり、共に生活し、共に旅をした弟子たち、特にペトロはその点を最もよく知っていた。イエスから「隣人を愛せよ」と命令されたとき、もちろんそうしようとした。そうできると思った。そんなに難しいこととは思わなかったに違いない。しかし、愛とはそんなに簡単なことではない。愛は究極においてその人のために死ねるかというところまで含まれている。イエスが「友のために死ぬ」という、「同胞のために死ぬ」というところまで進んだとき、ペトロは逃げ出した。つまり、自分には「イエスのようには愛せない」という告白である。キリスト教のつまずきは、わたしたちがイエスのように愛し、生きれると思っていることと、それは不可能であるということとの間にある。前者においては現実的な挫折がない。後者においては現実的な絶望のみが支配している。信仰は不可能を可能にする恵である。奇跡物語がつまづきなのではない。愛がつまづきなのである。キリスト者は信仰を語ることによって愛の不可能をあまりにも簡単に言い過ぎる。愛を信仰にすり替えている。
この奇跡物語はペトロがイエスのように歩けたということを語る。つまり、あのペトロがイエスのように愛せた。もっと言うと、使徒ペトロはイエスのように死ねた。不可能が可能になった。奇跡が起こった。キリスト教信仰はこの面をもっと語るべきであるし、それはわたしたちの現実的な課題でもある。

最新の画像もっと見る