
ジョン・キャメロン・ミッチェル監督・脚本・主演。2001年公開ですが、映画館で見ようと思っていながら見逃してしまった映画です。
ベルリンの壁が作られた1961年に東ベルリンに生まれたヘドウィグは、その美しさゆえにある米兵に愛され、性転換手術を受けて米国に移住するものの、米兵に捨てられてしまう。ヘドウィグは、ロックバンド「アングリー・インチ」を率いて全国行脚のツアーに出る。ツアーといっても、彼らのステージは場末のうらぶれたレストラン。ヘドウィグは、「アングリー・インチ」に込めた怒りとやるせなさを“ヘドウィグ”(=ヘッド・ウィグ、金髪のゴージャスなカツラ)をつけて絶叫する。アングリー・インチとは、性転換手術の失敗で彼の股間に残された1インチの突起のこと。男性でもなく、かといって女性にもなりきれない自分。彼は、自分の「存在」を歌に乗せてアピールするしかない。
彼らのツアーは、全米で人気のロックスター、トニー・ノーシスが歌うステージと常に隣り合わせでした。ヘドウィグが見い出し、ロックの基礎をたたき込んだのがトニーでした。ヘドウィグは彼を愛していましたが、トニーはヘドウィグがかつて男性だったことを知り、彼の元を離れていきます。トニーは、かつて二人で作った曲を歌い、全米で大ヒットを飛ばしていきます…。
この映画は、古代ギリシアの哲学者プラトンの書いた『饗宴』に出てくる一つのエピソードをモチーフにしています。『饗宴』(原題:シンポシオン)は、ある祝宴を舞台に、参加者たちが「エロス(愛)」について次々と語っていくという趣向になっています。喜劇作家アリストファネスの口を借りて、プラトンは、こんな話をさせています。
この世の始まりに、人間の性は3つあった。「男」、「女」、そして両性具有のもの。それぞれの人間の体は、我々がいうところの人間の体が腹の部分でくっついたような形をしていた。つまり、頭は1つだが、同じ顔が2つ、手足もそれぞれ4本ずつあった。「男」は太陽の子、「女」は地球の子、中性の者はその中間にある月の子で、みな親に似て球形だった。彼らは、4本足で素早く歩くことができ、4つの目で四方を見、4つの耳でより多くの情報を知ることができた。ところが、次第に人間たちにおごりが生まれ、神をも冒涜するに至った。そのため大神ゼウスは、人間の力や凶暴性を弱めるために一人一人を雷でまっぷたつに切り裂いてしまった。そしてゼウスは宣言する。これでもおとなしくしないようなら、さらにまっぷたつにしてしまうぞ…。人間は、自分が切り裂かれた名残である「へそ」の方を常に見るように顔を反対側にねじられた。おごり高ぶったことを忘れないようにと。
この物語を、ヘドウィグは「愛の起源」“Origin of Love”という曲に乗せて歌っています。バックには、かちゃかちゃ動く印象的なアニメーション。一度聞いたら忘れられない曲です。
もともと一体だった人間は、これ以降、かつての自分の「片割れ」を探すことになります。太陽の子や地球の子だった者は同性を、月の子だった者は異性を。これが愛(エロス)の始まりです。つまり、愛とは失われた自分の「片割れ」を追い求め、元の姿に戻ろうとする欲求なのです。
プラトンの寓話に従えば、何も同性愛に限らず、男が男を求めたり、女が女に惹かれたりするのも、「自分にないもの」を求めるという人間として根元的な欲求によるものと言えそうです。男と女が愛し合うのが当然だという考えは、子孫を残すためには異性との性的結合が必要だからという理由から来ているだけなのかもしれません。プラトンの名前からプラトニック・ラブという言葉が生まれたのもうなずけますね。彼が考える「愛(エロス)」のカタチに由来しているのですから。
映画のラストシーンで。
ヘドウィグは、「女であること」も「男であること」もやめ、一人の人間として歩き始めます。
「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」>>Amazon.co.jp
ベルリンの壁が作られた1961年に東ベルリンに生まれたヘドウィグは、その美しさゆえにある米兵に愛され、性転換手術を受けて米国に移住するものの、米兵に捨てられてしまう。ヘドウィグは、ロックバンド「アングリー・インチ」を率いて全国行脚のツアーに出る。ツアーといっても、彼らのステージは場末のうらぶれたレストラン。ヘドウィグは、「アングリー・インチ」に込めた怒りとやるせなさを“ヘドウィグ”(=ヘッド・ウィグ、金髪のゴージャスなカツラ)をつけて絶叫する。アングリー・インチとは、性転換手術の失敗で彼の股間に残された1インチの突起のこと。男性でもなく、かといって女性にもなりきれない自分。彼は、自分の「存在」を歌に乗せてアピールするしかない。
彼らのツアーは、全米で人気のロックスター、トニー・ノーシスが歌うステージと常に隣り合わせでした。ヘドウィグが見い出し、ロックの基礎をたたき込んだのがトニーでした。ヘドウィグは彼を愛していましたが、トニーはヘドウィグがかつて男性だったことを知り、彼の元を離れていきます。トニーは、かつて二人で作った曲を歌い、全米で大ヒットを飛ばしていきます…。
この映画は、古代ギリシアの哲学者プラトンの書いた『饗宴』に出てくる一つのエピソードをモチーフにしています。『饗宴』(原題:シンポシオン)は、ある祝宴を舞台に、参加者たちが「エロス(愛)」について次々と語っていくという趣向になっています。喜劇作家アリストファネスの口を借りて、プラトンは、こんな話をさせています。
この世の始まりに、人間の性は3つあった。「男」、「女」、そして両性具有のもの。それぞれの人間の体は、我々がいうところの人間の体が腹の部分でくっついたような形をしていた。つまり、頭は1つだが、同じ顔が2つ、手足もそれぞれ4本ずつあった。「男」は太陽の子、「女」は地球の子、中性の者はその中間にある月の子で、みな親に似て球形だった。彼らは、4本足で素早く歩くことができ、4つの目で四方を見、4つの耳でより多くの情報を知ることができた。ところが、次第に人間たちにおごりが生まれ、神をも冒涜するに至った。そのため大神ゼウスは、人間の力や凶暴性を弱めるために一人一人を雷でまっぷたつに切り裂いてしまった。そしてゼウスは宣言する。これでもおとなしくしないようなら、さらにまっぷたつにしてしまうぞ…。人間は、自分が切り裂かれた名残である「へそ」の方を常に見るように顔を反対側にねじられた。おごり高ぶったことを忘れないようにと。
この物語を、ヘドウィグは「愛の起源」“Origin of Love”という曲に乗せて歌っています。バックには、かちゃかちゃ動く印象的なアニメーション。一度聞いたら忘れられない曲です。
もともと一体だった人間は、これ以降、かつての自分の「片割れ」を探すことになります。太陽の子や地球の子だった者は同性を、月の子だった者は異性を。これが愛(エロス)の始まりです。つまり、愛とは失われた自分の「片割れ」を追い求め、元の姿に戻ろうとする欲求なのです。
プラトンの寓話に従えば、何も同性愛に限らず、男が男を求めたり、女が女に惹かれたりするのも、「自分にないもの」を求めるという人間として根元的な欲求によるものと言えそうです。男と女が愛し合うのが当然だという考えは、子孫を残すためには異性との性的結合が必要だからという理由から来ているだけなのかもしれません。プラトンの名前からプラトニック・ラブという言葉が生まれたのもうなずけますね。彼が考える「愛(エロス)」のカタチに由来しているのですから。
映画のラストシーンで。
ヘドウィグは、「女であること」も「男であること」もやめ、一人の人間として歩き始めます。
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