浮世風呂

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サウジアラビアの外交政策の大転換

2015-01-08 08:55:51 | 資料

◆サウジアラビアの外交政策の大転換

2014年9月5日 ROCKWAY EXPRESS


8月24日、サウジアラビアで開催された、イスラム国問題を討議するアラブ会議

 このブログではシリア紛争において、イスラム過激派を支援してシリアのアサド政権打倒を目指してきたのは、欧米、トルコ、湾岸アラブ諸国、イスラエルだと指摘してきたが、ここにきて対「イスラム国(=IS、ISIL、ISIS)」で彼らの姿勢が変化してきていることを以下の記事が示している。

 特に以下の記事ではサウジアラビアが対イスラム国ではその反対の姿勢を明確にし彼らの撃滅を目標にしだした、という。これはこのブログでもずっと指摘してきた、「フランケンシュタイン博士の怪物」の物語を髣髴とさせるものだということは、一昨日の記事でも指摘した通りである。

 ロシアのプーチン大統領が、欧米のように「穏健的」とか「過激派」とか言わずに、「人間の心臓を食べる輩を君たちは支援するのか?」と明瞭に事の是非を世界に示したのと異なり(心臓を食べたイスラム教徒は欧米が穏健派だと言っていた、自由シリア軍の指揮官)、欧米以下こういった勢力は、イスラム過激派の実際を理解できずに、甘く見て来たツケが今になって飼い犬に手を噛まれる事態を招来したことを知るべきである。

 そしてシリアでは少数派のアラウィ派の出身であるアサド大統領を、多数派のスンニー派の国民もその他のキリスト教徒やドゥルーズ派などと一丸となって支えてきて、その穏やかな市民生活を破壊するイスラム過激派の侵略に対抗してきた賢明さを、各国は改めて評価すべきであるし、そのアサド政権を支援すべきなのだ。

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●サウジアラビアの外交政策の大転換(部分訳)
http://www.voltairenet.org/article185132.html
【9月1日 Thierry Meyssan:Voltaire Network】

■2014年8月サウジアラビアの変化

 35年間に渡ってサウジアラビアは政治的イスラム運動に資金を提供し武器を供給してきた。そのための条件は、1.彼らがスンニー派であること 2.アメリカ式ビジネスを肯定すること 3.イスラエルを問題視しないという合意にサインしていること。

 35年間、大多数のスンニー派はジハーディスト(聖戦主義者)と帝国主義との馴れ合いに目をつぶってきた。彼らがしてきたことと彼らがしたとされてきたことに連帯を表明した。最後にはサウジアラビアの聖地の破壊にも拘わらずワッハービ派をイスラムの正式な形式として正当性を受け入れた。

 「アラブの春」を驚きを持って注視しつつ、どう対処したらよいか分からぬまま、サウジアラビアはアメリカによってカタールとムスリム同胞団に与えられた役割を心配した。サウジアラビアはまもなくリビヤと特にシリアのジハーディストに対する支援でカタールと競争することになった。

 一方、アブドゥラ国王はアブデル・ファタハ・アル・シシがエジプトの大統領になった時、彼にムスリム同胞団の政治的記録のコピーを送ることで、エジプトの経済を救済した。しかしながら、同胞団に対する戦いという観点では、シシ将軍は2014年2月、サウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)で権力を掌握するという同胞団の詳細な計画を発見しそれを知らせた。数日以内に計画していた者たちは逮捕され告白した。一方サウジアラビアとアラブ首長国連邦は同胞団のスポンサーであるカタールに、同胞団を見捨てなかったのであれば即座にそれを破壊するよう脅した。

 サウジアラビアはイスラム国(首長国)は災厄であり、イラクの3分の1を支配したら、次はサウジアラビアを攻撃するということを発見するのに、時間はそれほど掛からなかった。

 35年間に渡って築かれてきたイデオロギー的留め金はUAEとエジプトによって粉砕された。8月11日、アル・アズハール大学のグランド・イマームであるアハマド・アル・タイェブはイスラム国とアルカイダを厳しく非難した。翌日にはエジプトのグランド・ムフティであるシャウキ・アラムが同様の行動に出た。

 8月18日と22日、エジプトの支援の下、UAEはリビヤのトリポリのテロリストに対する爆撃を実施した。二つのスンニー国家が同盟して三番目のスンニー国家のスンニー派過激派を攻撃した最初の出来事であった。彼らの標的はNATOによってトリポリの軍事知事として指名された、アルカイダの元ナンバー3であるアブデルハキム・ベルハジを含む、すべての同盟者であった。

 8月19日、サウジアラビアのグランド・ムフティであるシェイフ・アブドゥル・アジズ・アル・アル・シェイフは最終的に、ジハーディストであるアルカイダとイスラム国を「イスラムの公的な敵」であると呼称することを決定した。

■サウジアラビアの変化による結果

 サウジアラビアの変化はあまりにも素早いものだったので、関係各位はそれに対応する時間が無く、それぞれの問題に対し矛盾した姿勢を示すことがあった。全体的には、アメリカの同盟国はイラクのイスラム国を非難はすれど、シリアのそれに対しては態度は明確になっていないのだ。

 更に驚くべきことには、7月28日の議長声明と8月15日の議決2170で、安全保障理事会はイスラム国を非難しているのだが、このジハーディストの組織は国家の支援を受けていることは明らかだった。イスラム国によってイラクの石油がトルコを経由して略奪されている。その石油はトルコのセイハンで積み込まれイスラエルに寄港し、次いでヨーロッパに戻るのだ。今のところ会社の名前は分かっていないが、トルコとイスラエルの責任は明らかだ。

 またカタールとしては、多くのムスリム同胞団の者たちを支援し続けているが、イスラム国への支援は否定している。

 ロシアとシリアの外相会談の記者会見で、ラブロフ外相とムアレム外相はテロリズムに対抗する国際的連帯を築くことを提唱した。しかしながら、アメリカはイギリスと一緒にシリア領土内での作戦を準備しているため、シリアと同盟することを拒否しアサド大統領の辞職を強要し続けた。

 35年間のサウジアラビアの政策を終焉させた衝突は、サウジアラビアとトルコとの間の対立へと変わっていった。今からは、アメリカとヨーロッパ連合によってテロリスト組織とされているトルコとシリアのクルド人のPKKは、イスラム国に対抗することでペンタゴンの支援を受けることになった。

 実際、欧米メディアの誤った報道にも拘わらず、トルコとシリアのPKK戦士らはイラクのクルド人地方政府のペシュメルガと違って、最近はアメリカの航空機の支援の下にイスラム国を撃退した。

■とりあえずの結論

 現在の状況が作られた陰謀によるものか実際のことか、はっきりとはしていない。アメリカは自分達が産み出したイスラム国を本当に破壊せんとしているのか、そしてもう彼らを支配はしていないのか、あるいは彼らはイスラム国を弱体化させるだけで地域の政策のための道具として存在は維持するつもりなのか?

 トルコとイスラエルは対米国の観点でイスラム国を支援しているのか?あるいは、アメリカ内部の分裂に乗じているのか?サウジアラビアは自分達の王国を維持するため、イランとシリアと同盟するという手段に訴えるのか、あるいはイスラム国の運命についてアメリカと合意に至るのであろうか?

http://rockway.blog.shinobi.jp/%E6%88%A6%E7%95%A5/20140905

◆サウジアラビア

アラビアのロレンスはメッカの太守 ハシミテ家のフセインに肩入れした。ハシミテ家はムハンマドに直決する家系である。

しかしのワッハーブ派のイマムであるイブン・サウドは1925年はハシミテ家よりヒジャス王国を奪う。

アラビアのロレンスの構想は当時の英インド総督府系のジョン・フィルビーのイブン・サウドに荷担する勢力に最終的に敗れる。

イブン・サウドは1931年にはナジュド及びヒジャーズ王国の建国を宣言して、自らマリク(王)となり、翌1932年には、サウジアラビア王国と国名を変えている。

イブン・サウドは英国・米国に従順だった。

しかし、イブン・サウドはイスラム原理主義のワッハーブ派のイマムである。

現在のシリア、イラクで猖獗を極めるイスラム国、アフガニスタンのアルカイダ、アルジェリアのAQIMとそれから分離して人質事件を起こした部隊、マリで騒いだテロリスト部隊、そしてナイジェリアで猖獗を極めるテロリストなど皆、ワッハーブ派だ。

その根源はサウジアラビアにある。

サウジアラビアはイスラム教が生まれた国であり、メッカとメジナの2つの聖地を持ち、巡礼が年2回、100万人~130万人も巡礼に来る。

このため、イスラム教の信者に対して、世界的に影響力がある。この巡礼(Haji)は影響力を行使するツールになっている。もう1つが、石油を持っていることである。米国と同盟国というのも大きな力になっている。宗教的には、イスラム教(スンニ派)を世界に広める役割があり、拡大させている。

イランは、世界でシーア派が支配している唯一の国である。シーア派は中東各地に飛び飛びに存在する。その飛び地に対して、本や講演、学校などをいろいろと提供しているのがイランである。

そして、シーア派は世界的に伸びている。その上に核兵器を開発し石油がある。

この2ケ国が宗教的に対立している。

シーア派、スンニ派がイスラム世界を2分している。マレーシアは、スンニ派が国の宗教であるが、シーア派の学生が1300人いる。しかしマレーシアではシーア派信者は犯罪である。

この構造がシリアでも起こっている。アサドがシーア派であり、反アサドがスンニ派である。戦略的な戦いでもある。イランは反米で、サウジが親米である。

イランは、メッカへの巡礼者にテロを行い、1979年と1987年に100人以上の犠牲者が出た。イランはシーア派の布教を積極的にしている。
このため、プロ・シーア派の布教者を世界に送っている。

しかし、サウジは、そのような布教はしていない。

スンニ派が支配しているバーレーンは、国王など少数だけがスンニ派であり、圧倒的多数がシーア派である。サウジはこのバーレーンに介入して、シーア派のデモ隊を弾圧して、国王を守っっている。
イランは反君主制であり、サウジは君主制である。

シリアの状況は、混沌としている。反アサド勢力の中にアルカイダ勢力がいて、多数の勢力がいる。この勢力間で紛争も起こっている。

ここで、米国はイランと関係改善を行う。しかし、このことをサウジから見ると、米国の裏切りと見える。米国がエジプトのムバラクを見殺ししたことから疑念が出ていたが、確信になっている。

君主制に対して、米国がどう見ているのか、サウジは心配している。
はたして、民主化運動にどう対応するのかと。

日本は、シリア平和会議に参加することになっている。その時、日本はどう対応するのであろうか?
日本は一貫した姿勢が必要であるが、どうするのか?
この一貫性を確保するためには、根拠が必要であるが、何に根拠を置くのかが問題である。

シリアの反政府派はバラバラであり、この反政府派が政権を取っても、イラクと同様に安定しないことは現時点でわかっている。

◆イスラム国を理解するには、サウジアラビアの過激主義「ワッハービズム」を知らなければならない

Alastair Crooke元イギリス秘密情報部(MI6)幹部 中東担当

イスラム国の劇的な出現は西側の多くの人々に衝撃を与えている。そして多くの人が困惑して、恐怖を感じている――その暴力と、イスラム教スンニ派の若者たちへの明らかな求心力にだ。さらに、この出現に直面したサウジアラビアの迷走を厄介に、また不可解に感じ、首をかしげている。「サウジはイスラム国が自分たちをも脅かしていることに気付いていないのだろうか?」と。

今でさえ、サウジアラビアの支配階級のエリートたちは分裂しているように見える。ある者たちは、イスラム国がイランのシーア派の"武力"にスンニ派の"武力"で対抗するのに拍手喝采だ。新しいスンニ派国家が、まさに彼らがスンニ派の歴史的遺跡とみなす中心地で具体化しているからだ。そしてそれらはイスラム国の厳格なサラフィスト(サラフと呼ばれる初期イスラムの時代を理想とするサラフィー主義の一派)・イデオロギーにより出現している。

他のサウジ人たちはもっと恐れており、ワッハーブ派(18世紀半ばにアラビア半島に起こった復古主義的なイスラム改革運動)のイフワーン(サウジアラビアの建国を支えた民兵組織)によるアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(サウジアラビア初代国王)への反乱の歴史を思い出している。(お断り:このイフワーンはイスラムの兄弟関係を意味するイフワーンとは無関係である。――今後のすべての言及はワッハーブ派のイフワーンに関するもので、イスラムの兄弟関係のイフワーンについてではないことにご注意いただきたい)。イフワーンは1920年代末に、ワッハーブ派とサウド家をほぼ崩壊寸前まで追い込んだ。

多くのサウジ人はイスラム国の急進的教義に深く困惑している――そして、サウジアラビアの方向性と論理のある部分に疑問を投げかけ始めている。

サウジの二重性

イスラム国をめぐるサウジアラビアの内的不調和と緊張は、この王国の教義上の構造やその歴史的起源のまさに核心に存在する、固有の(また持続する)二重性を知ることで初めて理解できる。

サウジのアイデンティティーの1つの支配的な鎖は、ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(ワッハーブ派の創始者)と、イブン・サウードにより示された急進的で排他的なピューリタニズムの採用に直接つながる(後者は当時、非常に乏しい灼熱のネジド砂漠でベドウィン部族たちを襲い続ける多数の指導者たちにまぎれた、目立たないリーダーの一人に過ぎなかった)。

この複雑な二重性への2つ目の鎖は、1920年代の、アブドゥル・アジズ王に続く国家体制へのシフトに正確に結びつく。彼がイフワーンの暴力を抑制したこと(イギリスやアメリカに対し国家として外交的立場を取るため)、ワッハーブ派の元来の衝動を制度化したこと、そして続く1970年代の、絶好のタイミングで押し寄せてきたオイルマネーの蛇口を捕らえたこと、変化しやすいイフワーンの流れを内側から外側へ向けさせたことだ。それらはイスラム世界全体に、暴力革命よりも文化革命を拡散させることによって実現した。

しかしこの"文化革命"は穏やかな改革主義ではなかった。それはアブドゥル・ワッハーブが自らの内に知覚した、腐敗と逸脱へのジャコバン派に似た憎悪に基づく革命であり、すべての異端と偶像崇拝を粛清するよう求めるものだった。

イスラムの詐欺師たち

アメリカの作家でジャーナリストでもあるスティーブン・コールは、14世紀の厳格なイスラム法学者イブン・タイミーヤの厳しくて口やかましい弟子、アブドゥル・ワッハーブが、"上品さ、芸術家気取り、喫煙、大麻吸引、太鼓を叩くエジプト人、そしてアラビアを縦断してメッカへ祈りに行くオスマン貴族"をいかに軽蔑していたか書いている。

アブドゥル・ワッハーブの思想によれば、彼らはイスラム教徒ではない。イスラム教徒の仮面をかぶった詐欺師だ。もちろん、地元のベドウィン・アラブ人の振舞いを、もっとましだと思ったこともない。彼らは聖人をあがめ、墓石を建て、"迷信"(たとえば墓や、特に神聖とみなされる場所をあがめたりすること)に従うことで、アブドゥル・ワッハーブを怒らせた。

これらの振舞いすべてを、アブドゥル・ワッハーブは異端――神により禁止されている、として非難した。

昔のタイミーヤのように、アブドゥル・ワッハーブは預言者ムハンマドがメディナ(イスラム教の聖地)にいた期間こそ、すべてのイスラム教徒が倣おうとすべき理想的なイスラム社会("最良の時代")だったと信じていた(本質的に言って、これがイスラム教の最も保守的な思想であるサラフィズムにほかならない)。

タイミーヤはシーア派、スーフィズム(イスラム教の神秘主義思想)、そしてギリシャ哲学に対し宣戦布告した。彼はまた預言者の墓を訪れて誕生日を祝うことにも反対し、そのような振舞いはすべて、イエスを神として崇拝(つまり偶像崇拝)するクリスチャンのまねごとにすぎないと宣言した。アブドゥル・ワッハーブはこれら初期の教義すべてを吸収し、こう言った。イスラム教義のこの特定の解釈を受け入れる面で、信者の側に「なんであれ疑いや躊躇」があれば、「その者は財産や命を免除される権利を奪われる」べきだ。

アブドゥル・ワッハーブの主要な教義のひとつがタクフィール(不信仰者の宣告)の主要な考えとなった。タクフィールの教義のもとでアブドゥル・ワッハーブと彼の追随者たちは、何であれ絶対の権威(すなわち王)の主権を侵害するような活動に携わった仲間のイスラム教徒を異端者とみなすことができた。アブドゥル・ワッハーブは、死者、聖人、天使をあがめたイスラム教徒すべてを非難した。そのような感情は、神に対し、また神にのみ示されるべき完全な服従を損なうと考えたのだ。よってワッハーブ派のイスラム教義は、聖人や死んだ愛する人に祈ることや、墓や特別なモスクへの巡礼、聖人をたたえる宗教的祭り、イスラムの預言者ムハンマドの誕生日を祝うこと、そして死者を葬る際に墓石を使用することさえ禁じた。

この考えに従わない者は殺されるべきであり、その妻や娘たちは犯されるべきであり、その財産は没収されるべきだと彼は書いている

アブドゥル・ワッハーブは服従を要求した――物理的、具体的に示される服従だ。彼は、イスラム教徒すべては1人のイスラム指導者(カリフ、もし存在するならば)に個人的に忠誠を誓う必要があると論じた。この考えに従わない者は殺されるべきであり、その妻や娘たちは犯されるべきであり、その財産は没収されるべきだ、と書いている。死に処されるべき背教者のリストには、シーア派、スーフィー派、そして他のイスラム宗派、すなわちアブドゥル・ワッハーブが決してイスラム教徒であるとは考えなかった人々が含まれていた。

ここにはワッハービズムとイスラム国を区別するものは何もない。裂け目は後に現れることになる。後の、ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブの教義を制度化した"1人の支配者、1つの権威、1つのモスク"―― これら3つの柱のそれぞれがサウジ王、すなわち正統ワッハービズムにおける絶対的権威を現す、そして"言葉"を支配することだ(つまりモスクだ)。

これが裂け目――イスラム国による、スンニ派が全権を振るうこれら3つの柱の否定――、すなわち他のすべての要素についてはワッハービズムを受け入れるイスラム国を、サウジアラビアの深刻な脅威としているものだ。

ワッハービズム小史
1741年―1818年

こうした超急進的思想をアブドゥル・ワッハーブが擁護したことは、必然的に彼自身が町から追放されることにつながった。そして1941年、放浪を繰り返したあげく、イブン・サウードと彼の部族の保護の元に避難することになる。イブン・サウードはアブドゥル・ワッハーブの高潔な教えがアラブの伝統と慣習を覆す手段になると考えた。それは権力掌握への道だった。

彼らの戦略は、現代のイスラム国と同様、征服した人々を服従させることだ。恐怖を植え込むことがねらいだった

アブドゥル・ワッハーブの教義を手中に収めたイブン・サウードの一族は今や、いつも行っていること、すなわち近隣の村を襲って財産を奪うことができた。ただし今回はただアラブの慣習の範囲で行うのではなく、ジハードの旗の下にだ。イブン・サウードとアブドゥル・ワッハーブはさらに、ジハードの名の下に殉教という考えを持ち込んだ。それら殉教者たちはそのまま楽園へ行くことが保証されるというのだ。

当初、彼らはいくつかの小さな地元コミュニティを征服して自分たちのルールを課した(征服された人々には限られた選択肢しかなかった。ワッハービズムへの改宗、もしくは死である)。1790年までに、この連合はアラビア半島の大半の地域を支配しており、メディナ、シリア、イラクを繰り返し攻撃した。

彼らの戦略は、現代のイスラム国と同様、征服した人々を服従させることだ。恐怖を植えつけることがねらいだった。1801年、この連合はイラクの聖都カルバラを攻撃した。女性や子供を含む何千人ものシーア派を虐殺した。預言者ムハンマドの殺害された孫であるイマーム・フセインの寺院を含め、シーア派の寺院の多くが破壊された。

イギリスの役人、フランシス・ウォーデン中尉は当時の状況を観察し、「彼らはそこ(カルバラ)のすべてを略奪し、フセインの墓を・・・略奪した。その日の、独特の残酷な状況の中で、5000人以上の住人を殺害した・・・」と書いている。

オスマン・イブン・ビシャール・ナジ、第一次サウード王国の歴史家は、イブン・サウードが1801年のカルバラの大虐殺に関わったことを記している。彼は誇らしげにその虐殺を記録していた。「われわれはカルバラを制圧し、その民を殺し、(奴隷として)捕らえた。アラーが賛美されますように、世界の主が。われわれは謝罪しない、そして言う、『不信者たちへも、同様の扱いを』」。

1803年、アブドゥル・アジズは、恐怖とパニックにより降伏した聖都メッカに入った(同様の運命がメディナにも間もなく訪れることになる)。アブドゥル・ワッハーブの追随者たちはメッカにある歴史的建造物やすべての墓、寺院を破壊した。1803年末までに、彼らはグランド・モスク近くの何世紀もの歴史を持つイスラム建築物を破壊した。

しかし1803年11月、シーア派の暗殺者がアブドゥル・アジズを殺害する(カルバラの大虐殺の報復だ)。彼の息子、サウド・ビン・アブドゥル・アジズがその後を継ぎ、アラビアの征服を継続した。しかしオスマンの支配者たちはもはや、指をくわえて自分たちの帝国が少しずつ削り取られていくのを見ていることはできなかった。1812年、エジプト人で構成されたオスマンの軍隊はこの連合をメディナ、ジェッダ、そしてメッカから追い出す。1814年、サウド・ビン・アブドゥル・アジズは熱病により死亡した。しかし彼の不運な息子、アブドゥラ・ビン・サウードはオスマン人によりイスタンブールへ連れてゆかれ、陰惨な方法で処刑された(イスタンブールを訪れたある人は、彼がイスタンブールの通りで3日間にわたって辱められ、その後つるされて首を切られ、切断された頭部はキャノン砲で吹き飛ばされ、心臓は切り出されて体の上に突き刺されたと報告している)。

1815年、ワッハーブの軍は決定的な戦いでエジプト人(オスマンのために行動していた)と衝突する。1818年、オスマン人はワッハーブの首都ディルイーヤを制圧し破壊した。ここに第一次サウード王国は消滅した。ワッハーブ派の少数の生き残りが再起のため砂漠に逃げ、19世紀の間のほとんど、そこで沈黙を貫いた。

イスラム国により歴史は繰り返す

現代のイラクにおけるイスラム国によるイスラム国設立が、歴史を思い出す人々の間でどのように共振するかを理解するのは難しくない。確かに、18世紀のワッハービズム思想はネジド(サウジアラビア中央部の高原地域。ワッハーブ派の発祥地)において枯渇しなかった。それは第一次世界大戦の混乱のさなかにオスマン帝国が崩壊した時、唸り声を上げて舞い戻ってきた。

アル・サウードは、この20世紀のルネッサンスにおいて簡潔で政治的に抜け目のないアブドゥル・アジズに導かれた。気難しいベドウィン部族たちを統一し、先に述べた通り、アブドゥル・ワッハーブとイブン・サウードによる改宗者たちとの戦いの思想に基づいたサウジの"イフワーン"を創始した。

イフワーンは、初期の激しい半独立の急進的運動から派生したものだ(そのために自ら進んで武装したワッハーブ派の"道徳者たち"は、1800年代初頭にアラビア半島をほぼ掌握した)。当初と同じように、イフワーンは再び1914年から1926年の間にメッカ、メディナ、そしてジェッダの制圧に成功する。しかしアブドゥル・アジズは、イフワーンによって掲げられる革命的な"ジャコバニズム"が、自分のより広範な関心事にとって脅威になると感じ始めた。イフワーンは反乱し、内戦が始まった。内戦は1930年代まで続いた。アブドゥル・アジズが彼らをマシンガンで射殺し、終結させたのだ。

この王(アブドゥル・アジズ)にとって、それまで数十年間続いていたイスラムの純粋な真理は価値のないものとなってしまった。アラビア半島で石油が見つかったからだ。イギリスとアメリカは、アブドゥル・アジズに言い寄りつつも、なおアラビアの唯一の正当な支配者としてメッカの太守シャリフ・フセインを支持することに傾いていた。サウード家は、もっと洗練された外交的姿勢を示す必要があったのだ。

ワッハービズムは強制的に変換させられた。革命的ジハードと神学的なタクフィールの純化運動から、保守的、社会的、政治的、神学的、宗教的ダワ(イスラム布教活動)と、サウード家と王の絶対的権力への忠誠を掲げる制度を正当化する運動へである。

オイルマネーがワッハービズムに広がる

石油資源が掘り当てられ(フランスの学者ジャイルズ・ケペルが書いているように、サウジの目標は、ワッハービズムを、"ワッハービズ"[ワッハービズム・ビジネス]イスラム国家へ向けてイスラム世界全体に広め、この宗教内部での異なる思想を退けて"単一の信条"にすることだ)、この運動は国家的分裂を克服するはず、だった。このソフトパワー(その社会の価値観、文化的な存在感、政治体制などが他国に好感を持って迎えられ、外交に有利に働くこと)の表明に対して何十億ドルもの富が投資されており、さらに投資されるはずだった。

それは魅力的な何十億ドルもの富、そしてソフトパワーの投影だった。サウード家が推し進めようとした、イスラム教スンニ派を管理しアメリカの利益を促進しようとする意図は、教育的、社会的、文化的にイスラム世界全体へワッハービズムが付随的に埋め込まれた。その結果、西側世界の政策がサウジアラビアに依存するようになった。1945年2月、アブドゥル・アジズが(ヤルタ会議から大統領を連れ戻す)アメリカの戦艦クインシー号でルーズベルトと会談したときから今日までずっと続いてきた。

西側の人々はこの王国を見た。彼らはその富を、見かけだけの近代化を、公言されたイスラム世界のリーダーシップを凝視した。そしてこの王国が近代社会の要求に屈服することになるだろうと予測していた。そしてスンニ派イスラムの指導部も、近代社会のために、王国に屈服するだろうと。

「一方では、イスラム国はワッハーブ派が深く根ざしている。他方で、違った意味で超急進的だ。それは現代ワッハービズムへの是正運動に本質的に見ることができる」。

しかしイスラム教へのサウジ・イフワーンのアプローチは1930年代に断絶していなかった。イフワーンは衰退したが、システムのさまざまな場所に影響力を残していた――だから今、我々はサウジのイスラム国への姿勢に二重性があると見ている。

一方では、イスラム国は深く根ざしたワッハーブ派だ。他方で、異なる意味で超急進的だ。それは現代ワッハービズムへの是正運動に本質的に見ることができる。

イスラム国は"ポスト・メディナ"運動だ。闘争の旗印として預言者ムハンマド自身よりも、2人の正統カリフ(初期イスラム国家の最高権威者)カリフに目を向けており、サウード家の支配権を強く否定している。

サウード家の支配者たちが石油時代に花開き、かつてないほど隆盛したのに伴い、原理主義的なイフワーンのメッセージは主張の拠り所を得た(第3代国王ファイサル王の近代化キャンペーンにもかかわらず)。"イフワーン・アプローチ"は多くの裕福な男女とシャイフ(アラブの族長)たちの支持を得たし、今も得ている。ある意味で、オサマ・ビン・ラディンは、まさにこのイフワーン・アプローチが遅まきながら花開いた象徴であった。

現在、イスラム国が王権の正当性を弱めようとする動きは問題ないとみられている。むしろ、サウード家―ワッハービズムへの原点回帰だと言える。

西側のプロジェクト推進のため、サウード家と西側諸国がこの地域の共同管理(社会主義、バーシズム、ナセリズム、ソビエト、そしてイラクの影響力に対抗して)を行っている。西側の政治家たちは、彼らがサウジアラビア(富、近代化、影響力の拡大)の選択を担ったことを強調している。しかし彼らは、ワッハーブ派の動きは無視することにした。

結局のところ西側の諜報機関は、もっと急進的なイスラム原理主義がアフガニスタンからソ連を追い出すために――また好まれない中東の指導者たちや国家との戦いに、より効果的だと認識していた。

であれば、サウジの情報機関トップであるバンダル王子のサウジ―西側コネクションがシリアのアサド大統領への反乱を指揮するよう命じ、現代のイフワーン的な暴力、恐ろしい急進的活動、すなわちイスラム国を出現させたことに驚きはない。ワッハービズムについていくらか知っているなら、シリアの"穏やかな"抵抗勢力が神話のユニコーンよりも珍しい存在だということに驚くこともないだろう。急進的なワッハービズムが穏健派を生み出すなどと、どうして想像できるだろう。あるいはどうやって"1人の指導者、1つの権威、1つのモスク:服従させよ、さもなくば殺せ"という教義が、最終的に中庸、譲歩につながると想像するのだろうか。

あるいは、多分、想像したこともないだろう。

http://www.huffingtonpost.jp/alastair-crooke/you-cant-understand-isis_b_5807238.html

◆焦点:イスラム世界で開いた「パンドラの箱」、宗派戦争に終わり見えず

2014年 06月 30日 ロイター

[ベイルート 29日 ロイター] - イラクの北西部から首都バグダッドに向かって進撃するイスラム教スンニ派の過激派組織。彼らはシーア派中心のマリキ政権を「異教徒」だと攻撃するが、こうしたイスラム世界の根深い宗派対立は、シリアの内戦を激化させ、さまざまな宗教や宗派が混ざり合うモザイク国家レバノンにも飛び火している。

宗派対立の「パンドラの箱」は今や完全に開放されたと言え、これまで中東地域を支配していた伝統的な国家間の対立を凌ぐほどになっている。

そもそも中東では1979年、革命でイランにシーア派の政教一致政権が誕生し、長年のライバル関係にあった同国とサウジアラビアの間で宗派対立の構図が強まった。絶対君主制国家のサウジは、スンニ派のうち特にイスラム教の戒律に厳しいワッハーブ派を国教とする。

また、イラクは2003年の米国による進攻の結果、少数派であるスンニ派の支配的立場がシーア派に移り、それまで約100年続いた力の均衡が崩れ、民族的・宗派的な混乱状態に陥った。

内戦が続くシリアは、アサド大統領がシーア派の分派であるアラウィ派に属しており、反政府派はスン二派が多数を占める。今や、イラクのバグダッドからレバノンのベイルートまでの地域は、ほぼ継ぎ目なく「宗派対立」の戦いの場となっている。

<残虐行為>

こうした「戦場」では、国際武装組織アルカイダから派生したスンニ派組織「イラクとレバントのイスラム国(ISIL)」が勢力を拡大させるに伴い、残虐行為も目立ち始めている。

ISILがインターネット上に公開した動画では、同組織に属する兵士らが年老いた男性の家に押し入り、男性と2人の息子がマリキ政権下の治安部隊員として働いていることを責める場面が映し出されている。男性らは墓となる穴を自分で掘らされ、「もっと掘れ。なぜマリキの軍に参加した」と罵声を浴びせられる。動画はその後、許しを請う男性に刃物が振り下ろされたような場面で唐突に終わり、 「処刑された」という字幕が流れる。

ロイターがスカイプを通じて接触したISILのリーダーは、同組織が国境を越えたイスラム国家の建設を目指しているとし、こうした残虐行為もよく考えた上でのことだと説明。「われわれはマリキの支持者と彼の汚れた国家に対し、正しいイスラム法に照らして対処していく」と述べた。

「第2のビンラディン」とも称されるバグダディ容疑者が率いる同組織は29日、「カリフ(預言者ムハンマドの後継者)」を指導者とするイスラム国家を樹立すると一方的に宣言。世界中のイスラム教徒に忠誠を呼びかけた。

一方、シーア派も「目には目を」で応酬し、スンニ派が処刑される映像を流している。ある動画では、無差別に銃で撃たれた男性らが、壁中に血が飛び散った場所で横たわっている場面もある。

米ブルッキングズ研究所の上級研究員で、かつて国務省顧問も務めていたバリ・ナスル氏は「こうした国では国家のアイデンティティーが損なわれ、宗派のアイデンティティーが突出しつつある」と語った。

<疑似国家>

シーア派とスン二派の反目は過去にも流血の事態を招いたことはあったが、今はそれが、東地中海に面するシリアからアラビア海に面するイエメンまでの非常に広い範囲に広がっている。

アラブ世界を専門とする政治経済学者タレク・オスマン氏は「(対立は)宗教的もしくは政治的な理由だけでなく、個人的な利益や地政学的対立も火に油を注いでいる」と指摘。「宗派戦争」はアラブ社会でいくつもの独裁政権が倒れ、政治秩序が大きく変革しているのと同時に起きているとの見方を示した。

そして今、中東地域では過去150年で初めて、攻撃的で武力に長けたイスラム過激派が台頭。シリア東部からイラク西部までの広い範囲を掌握し、将来的な独立を視野に入れた疑似国家を築きつつある。オスマン氏は「そうなれば、この地域の国家や宗教的少数派にとってだけでなく、社会全体にとっての脅威だ」と危惧した。 

ただ、イラク北部のスン二派が「マリキ憎し」でISILの進撃に力を貸したのは事実だとしても、ISILの偏狭性や残虐性が原因で、シリアや7年前のイラクで起きたのと同様の仲間割れが起きる可能性はある。

専門家らは、ISILの名の下に集まった聖戦主義者たちは、金や土地、権力をめぐる内紛で次第に分裂するともみている。また、掌握した広大な地域で行政機能を提供しなければならないため、内部分裂は早いと指摘する声もある。

英ロンドン大学東洋アフリカ研究学院のチャールズ・トリップ教授は「アルカイダの最大の強みの1つは、社会的側面を持たないことだ。彼らは考えで人を集めるが、電気や水道、社会的正義などを用意しなくてもよかった。ISILは違う」と述べた。

マリキ首相がほぼ有名無実化した同国の治安部隊を投入し、ISILが掌握したスンニ派地域を取り戻すことは考えにくい。とはいえ、イランの息がかかったシーア派武装組織アサイブ・アハル・アル・ハク(正道者同盟)を使って失地を奪回したとしても、宗派対立を一段と激化させるだけだろう。

「宗派戦争」について専門家の多くは、シリアからイラクまでのすべての当事者、つまり、シーア派、スンニ派、アラウィ派、そしてクルド人が、既存の国境内に引き続きとどまるにしても、自分たちの「絶対的地盤」を手に入れるまでは終わらないと予想している。

http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0F50ZA20140630?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0

シリアのアサド政権を倒す目的でサウジアラビアやカタールなどが欧米と組み反政府軍を支援してきた。だが米国はイスラエルを助けるためにトルコやイラクに展開してきたISISを教育し、イスラム世界の中にイスラムに敵対するスンニー派過激テロ集団を作り出した。しかし、スンニー派を標榜しているが彼らはスンニー派ではない。米国が作り上げた、ただのテロリスト集団である。

  アル・バグダディ

◆米国は恐怖で支配するしか能がないとライス元米国務長官は認めたが、そのためにISは作られた

2014.11.11 櫻井ジャーナル

 アメリカは恐怖で支配するしか能のない国だということをコンドリーサ・ライス元国務長官は認めた。控えめで穏やかに話すアメリカの言うことを聞く人はいないとFOXニュースのインタビューで語ったのだが、それだけアメリカが世界の人びとから信頼されていないということにほかならない。アメリカ政府が嘘八百を並べ、中東/北アフリカ、最近ではウクライナを侵略していることは本ブログで書き続けてきた通り。

 10月24日にロシアのソチで「バルダイ国際討論クラブ」の会議が開かれた。そのテーマは「新しいルールか、ルールなきゲームか」。その会議でウラジミル・プーチン露大統領はアメリカが「唯一の超大国」として身勝手な行動を始め、国際法を無視、カオスを地球上に広げていると語った。そうしたアメリカの命令に各国のリーダーを従わせるため、ビッグブラザー、つまり電子情報機関のNSAを使って各国のリーダーを監視、脅迫しているとも指摘している。全くその通りだ。

 残虐さを売り物にしているIS(イスラム国。ISIS、ISIL、IEILとも表記)の登場、カナダで引き起こされた銃撃事件、プーチン大統領との関係悪化を見てアメリカ国民や世界は「より強いアメリカのリーダーシップ」を受け入れる準備ができたともライスは語っているが、これこそがISをアメリカが作り上げた理由だろう。

 世界各国から傭兵を雇い入れてきたのはサウジアラビアなどペルシャ湾岸の産油国であり、中東の石油産業を支配してきたアメリカがその気になれば、ISが石油を生産、精製、輸送、販売することは不可能に近い。ISの販売を請け負っている会社はARAMCO、つまりSOCAL(スタンダード石油カリフォルニア)、テキサコ、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー、ソコニー・バキューム(後のモービル)が出資している巨大企業だと言われ、トルコやイスラエルも輸送や販売に協力していると伝えられている。

 ISは戦闘員をシリアへ潜入させる際、トルコの情報機関MITの支援を受け、ヨルダンにも潜入ルートをISは持っていると言われている。そうした戦闘員の大半は非シリア人。シリア政府によると、そうした「外人部隊」は25万人以上。またシリア北部で入手された記録によると、反シリア軍の戦闘員は41%がサウジアラビア人、19%がリビア人、シリア人は8%にすぎなかったという。新疆ウイグル自治区からカンボジアやインドネシアを経由、トルコの情報機関MITの手引きでシリアへ入っているともいう。

 しかし、戦闘能力の高さではチェチェンからの傭兵が注目されている。チェチェンの反ロシア勢力はグルジアのパンキシ渓谷を拠点にしているが、そこでCIAはチェチェン人をリクルート、訓練していると言われている。ISに参加しているチェチェン人は200名から1000名とされている。戦闘を経験したウイグル人が中国で破壊活動を行うのと同じように、チェチェン人は帰国後、ロシアを攻撃する可能性が高いだろう。

 1970年代の終わりにアメリカが編成したイスラム教スンニ派の戦闘集団は当初、ソ連軍と戦う「自由の戦士」と呼ばれたが、ソ連軍の撤退でプロジェクトは終了、2001年に登場したときは「アル・カイダ」という名前で呼ばれる「テロリスト」になっていた。こうした戦闘集団を作り上げたのはズビグネフ・ブレジンスキーだが、ライスはその孫弟子にあたる。

 そうした「テロリスト」と戦うと称してアメリカは中東を軍事侵略、戦乱を中東から北アフリカへ広げ、破壊と殺戮が繰り広げられている。ウクライナでアメリカはネオ・ナチを「自由の戦士」として使っているが、その一部はチェチェンで中東/北アフリカの「テロリスト」とつながっている。そうした「テロリスト」のISはアメリカ(ネオコン/シオニスト)にとって理想的な戦闘集団。中東や北アフリカを分割する道具になっている。

 アメリカは自国の軍隊を使うだけでなく、傭兵を雇い、侵略と占領を続けている。そうした戦略の中心にいるのがCIAと国務省で、正規軍は嫌がっている。そこでサウジアラビアなどに戦費を負担させ、ISのような傭兵を雇っているわけだ。言うまでもなく、この連中は日本にもカネと戦闘員を提供させようとしている。

http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201411110000/

 

 


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