浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

中国の今②

2011-11-23 17:53:57 | 資料

【中国語】

話す言葉は、親から子に受け継がれるもので、 長い年月をかけてゆっくりと連続的に変化する。
 

 しかし、書く言葉は、正式な文書や教育の「規範」とされるので、いったん「正しい」と定められた語法が長い間保たれる保守性を示す反面、 政治的な権威や社会的な運動によってごく短時間で急激に変えられることがある。 変化が不連続なのである。 最近では、学校教育とマスコミの主導で書く言葉が急激に変化する現象も稀ではない。 日本でも、敗戦後の数年間で、 話す言葉はほとんど変わらなかったが、 書く言葉は「現代かな遣い」、「当用漢字」を使用した口語文が急速に普及し、 旧かな遣いの文語文が駆逐されるという大変化を経験している。

 中国の現代書面語も最近の100年程度の中国近代化の中で急速に形成された新しいものである。

  • 清末の白話運動
  •   中国の現代書面語は、清末、光緒年間の変法維新運動の時期に始まるとされている。当時の書面語は「文言」といわれる特殊な文語であった。 文言は日本で「漢文」と呼ばれるものとほぼ同じである。

     日本では8世紀頃に宣命体が成立、12世紀頃以降は、漢字かな交じり文が一般化して、 純粋の漢文で作文することは仏教界などを除いて、 ほとんどなくなった。 漢文は古典を読むために必要とされるに過ぎない「死んだ」古典語であった。 しかし、清末の中国では文言は公文書・書籍・新聞で使用されている「生きた」文章語であり、「書く」能力も必要とされた。 もちろん文言は、日常の口語とは、語彙・文法が相当異なる純粋な文章語なので、読み書きに特別の教育が必要であった。

     中国の近代化のためには国民の識字率を上げる必要があると考えた革新的な論者は、 清末の変法維新運動の中で「文言文の廃止、白話*1文(口語体)の採用」を主張した。 変法維新運動そのものは政治的に敗れ、 変法派は弾圧されたが、白話文は19世紀末にはある程度定着した。 1890年代末には白話文の新聞が発行されたことが知られている。

     この時期の白話運動では、「言文一致」が唱えられただけで、 具体的に規範とすべき文法や模範となる文章は示されなかった。 「文言之害」を説き文言文の廃止を主張する論文自体が、立派な文言文で書かれていたありさまである。 口語で文章を作るといっても、方言変異の大きい口語のどの方言に依拠するかも定められなかった。(しかし実際に作られた「白話文」は、語法・基礎語彙ともほぼ官話方言に統一しているようである。)

    1*「白話」は現代中国の辞書では、 「唐宋以来の口語古典を基礎に成立した現代漢語の書面形式」と書かれている。 純粋の「口語」とは違うと認識されている。

  • 五四白話文運動以降
  •  1917年頃から、胡適*1、陳独秀*2、魯迅*3らが雑誌「新青年」を舞台に白話文運動を展開した。 1919年の五四排日運動が反封建の新文化運動に発展するとともに、白話文運動も勢力を増した。 この時期の白話文運動を「五四白話文運動」と呼んでいる。 五四白話文運動は、 論者たちの多くが北京大学の教員であったため、北京大学を中心に展開された。

     五四白話文運動では、白話文論者たちは、自ら白話による著作を活発に発表しながら文言文を支持する論者と論争した。 また、この時期には、 白話文が依拠すべき規範や方言についても議論された。 現代口語を基準とすべしという意見も強かったが、 胡適などは、「水滸伝」や「紅楼夢」などの明清代の口語古典を模範とした。

     1920年代には、 教科書も白話文で書かれるようになり、 白話文の使用が急速に広まった。 1930年以降も、 「文言文」論者、口語古典に依拠する「旧白話文」論者、そして現代口語をそのまま文章化すべきとする「大衆語」論者が激しく論争し、 容易に決着しなかった。 しかし、依拠すべき模範を争論しながらも、白話文」が事実上の共通文章語として定着した。

    1*胡適(1891-1962)、1910年アメリカ留学、 1917年北京大学教授、同年「新青年」に「文学改良芻議」を発表、白話文運動を始める。
    2*陳独秀(1880-1942)、1915年「新青年」の前身「青年雑誌」を創刊、新文化運動を指導、1917年北京大学教授、1921年共産党を結成、のち党総書記になるが除名される。
    3*魯迅(1881-1936)、1918年「新青年」に「最初の現代白話小説」と言われる「狂人日記」を発表、1920年北京大学講師。

  • 典型的な白話文? - 「普通話」が規範とする語法
  •  中華人民共和国が1955年に公布した「普通話」は、既に述べたように「典型的な白話文(口語文)を語法の規範とする」と定められている。


     しかし、 白話文の成立から数十年を経た現在、 新聞や文芸作品を通じて自然淘汰されながら「正しい」中国語の基準が一応安定したと考えてよい。 言い換えると、数十年の歴史の中で、口頭語としての北京土語と区別される書面語としての「普通話」という自然言語の実体が成立してきたと考えられる。

     (しかし、書面語だけを考えても、たとえば香港とそれ以外の大陸地域では語彙や語法に若干の差異がある。)

    パシフィックエンジニアリング 中国室言語グループ編

     

    魯 迅(ろ じん)1881年9月25日 - 1936年10月19日

    本名は周樹人

    弟に文学者・日本文化研究者の周作人、生物学者の周建人(1888-1984)がいる。

    牛込の日本語学校弘文学院にて松本亀次郎日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。

    魯迅が日本に留学して仰天したのが、図書館だという。そこには世界中の本や文献が揃い、中国では見たこともない日本語で書かれた中国の文献が山のように有った。

    彼は図書館で、儒教や孔子、論語・四書五経などを初めて読んだと語っている。

    日本の中国専門学者たちは、中国人は儒教や論語に囲まれて育ったと勘違いして、「中国人は道徳的で大人の風格がある」と勝手にイメージして仕舞ったのである。

    ところが皮肉なことに知識人である魯迅でさえ中国で論語などの古典を見たことがなかったのである。

    「狂人日記」で魯迅は中国の文体を変え、日本語文脈の白話文学の第一弾を書いた。これを境に中国語の日本化が決定的になったのである。このことを中国人は口が裂けても言わないが、紛れもない事実である。

    彼はその後やはり白話文学である「阿Q正伝」を発表した。

     

    ◆日本人の最大の誤解は「全ての中国人は同じ中国語を話せる」という当たり前のことが、大きな間違いだということである。

    実は一般の中国人同士は言葉が通じないのが原則なのである。

    日本の学者達は、漢文を中国で話されている言葉だと勘違いしてしまった。

    つまり中国の古典とか漢詩というものは、一部の秀才が「科挙」の試験を受けるために存在したもので、一般の中国人にとってはまるで関係のないものであった。まして現在の中国大陸の中国人は、論語に書かれているような同義心などまるで無縁の世界であった。

    中国では各地方ごとに言語が違っていて、うっかりすると隣の村とも言語が違ったりするのが当たり前で、中国には古代から共通の中国語というものは一度も存在しなかったということである。それは広東語の香港と北京語だけをみても明らかであろう。

    ◆中国4000年の歴史というが、中国には歴史が無い。

     中国正史は代々現王朝の正当性を主張する歴史として、都合の悪いところは事実をねじ曲げて書き換える。その王朝を倒して帝位に就く者は、また正当性を主張する為に歴史を書き換え、代々それが繰り返されてきた。

    故にその歴史には「正統性」というものは無い。

     中国はこのように国家を挙げて歴史を改ざんしてきた。権力者に都合のよい歴史が代々作り挙げられて来たのである。

    歴史の改装は中国が生き延びるための手段であり、長年にわたって人民の遺伝子に刷り込まれ、国家体質として染みこんだものである。

    よって、中国には正統な歴史など存在しないのである。

    近代においても、中華民国と中華人民共和国でそれぞれ別の中国大陸に置ける、別々の中国近代史が存在する。

    【文化大革命】

    名目上は社会全般にわたる改革運動だが、実際は毛沢東が復権するための大規模な権力闘争である。1966年から1977年までの10年間もの長きに渡って続けられた。

    この文革により数百万人から1000万人以上とも言われる多数の犠牲者を出したほか、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらした。

    知識層を始め党の権力者だけでなく全国の人民も対象として、紅衛兵による組織的な暴力を伴う全国的な粛清運動が展開され、多数の死者を出したほか、1億人近くが何らかの被害を被り、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたすこととなった。

    当然多くの歴史書や文献が廃棄され、徹底的に貴重な中国の歴史まで消失することとなったのである。

    しかし中国に無い歴史が、日本には日本語に訳されて存在する。


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