浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

韓流⑥

2011-10-17 05:02:54 | 資料

朝鮮で「日本の力で朝鮮を完全に独立国家にしよう」と考えた政治家の金玉均(キムオッキュン)がクーデターに失敗し、日本に亡命した。(*クーデターを鎮圧したのは清軍で、率いていたのはのちに有名になる袁世凱)。

また亡命から10年後、金玉均が上海に誘い出され暗殺されたため、日本では金玉均追悼集会を開いた。

それまで朝鮮は清国の属国として、毎年迎恩門まで李帝が出向き清国の使者を、大地に9度額を打ち付けて出迎えた。

そして帰りに李帝は、貢ぎ物と処女数百人を献上して絆を深めていた。

 

1894年、腐敗した官僚の罷免、租税の軽減などを求めまた外国勢力の排斥を求めた運動が始まる。さらに1894年7月25日。漢城(ソウル)近くの豊島(ブンド)沖の海戦で日清両国が激突し、ここに日清戦争がスタートした。

世界中が、まさか清国が負けるとは誰も予想していなかった。

1895年3月、山口県の下関に清国側全権大使として李鴻章がやってくる。。
そして下関の料亭「春帆楼(しゅんぱんろう)」で講和会議が開かれた。

一、清は朝鮮の独立を承認する
二、中国東北部の遼東(リャオトン)半島と台湾、澎湖(ボンフー)島を日本に割譲する。
三、賠償金二億両(テール)を日本に支払う
四、欧米並みの条件の対清条約を日本と結ぶ。新たに重慶・杭州などを開港する。

とうとう朝鮮は独立させられて仕舞ったのである。

この独立を期にそれまで有った迎恩門が壊され柱だけになり、代わりに独立門が建てられた。

ところが、この日本の動きを快く思わないロシアは、しきりに朝鮮半島を領有しようと狙い始めた。

困ったのは李氏朝鮮である。これといった産業もなくまして防衛能力も無い。今まで清国の庇護が有ったから国の体裁が保てていた。正に内憂外患である。

一方日本は、朝鮮半島がロシアの勢カ圏におかれることは、日本国民がロシアに奴隷化される第一歩とみなし、戦争を決意したものである。欧米の指導者の大半はこの事情を理解していた。

そして次に意外なことは、日露戦争において日本の海軍が用いた方法(ソフト)と装備(ハード)が世界第一級、さらにその上を行くものがあったことである。

海戦のためのハードの大半はイギリスからの輸入品だった。だが、輸入したイギリス製品はイギリス海軍も十分使いこなしていないような最先端品ばかりだったのである。つくれなくとも技術評価はできていた。維新から三〇年ほどしか経たず、このようなことができるのかと驚くと同時に、明治人の受容性、応用力に脱帽せざるをえない。

日露両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

この結果、李帝は日本に保護を求め、李氏朝鮮の高級官僚も大半が日本に亡命してしまう。

かくして1905年11月17日、朝鮮は日本の保護国となった。その後世界の列強が認める中、1910年(明治43年)8月29日朝鮮は日本に併合されることとなる。

その後の朝鮮半島は、たちまち自然的な生活を放棄させられ、望まぬ近代化へと変化させられていった。しかし彼ら朝鮮人の適応能力は素晴らしく、たちまち日本文化や日本人に同化していった。

また警官に就職したり志願兵に応募する者も多く、毎年志願兵も定員を設け制限する程であった