浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

GHQ、進駐軍の為の慰安命令

2011-10-23 22:51:41 | 資料

日本で第二次世界大戦の戦闘停止発令から3日後の1945年8月18日、内務省が「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」を各県に発令し、これを端緒として、占領軍対策の一環として26日に設立された。

戦後の進駐軍の日本占領に当たり、日本の婦女子の操が進駐軍兵士らによって汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい、との思惑からである。占領軍がこの種の「サービス」を提供するよう命じたという俗説が一部にあるが、内務省が忖度して自主的に作ったものを連合国軍最高司令官総司令部が許可したものである。

基本的な発想としては戦時中の慰安婦施設と同様のものだが、慰安婦のように仲介業者を通さず、「日本女性の防波堤たれ!」というスローガンの公募に応じてきた一般女性たちが集められた。戦時中にあった女子青年団が終戦後、半ば強制的に集められたケースもあるとされる。また警察が戦時中に青線売春で検挙した者に慰安婦になるよう要請した例すらあった。

当初は水商売の者を雇う予定であったが思うように集まらず、「新日本女性求む、宿舎、衣服、食料すべて支給」などの甘言をもって銀座などに広告板を設置し、また新聞広告で一般女性を募った。

内容の詳細は広告に記載されておらず、これを見てやってきた女性の多くは水商売の経験のないもので、大半は仕事の中味を聞いて去っていった。しかし他に生活の術の無い戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、第一回の募集では短期間で1,300人あまりの女性が協会に登録した。東京都内だけでも30ヶ所以上、全国では最盛期に7万人もの女性が従事していたと見られている。

1946年1月21日、前アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト夫人エレノア・ルーズベルトの反対、性病の蔓延を理由としてGHQにより特殊慰安施設は廃止されたが、女性たちへの補償は無く、多くは当時パンパンと呼ばれた街娼、水商売等に進んだと見られている。彼女たちへの国からの保障は現在まで一切行われていない。

なお、一日に数十人の客を取るなど過酷な労働であったものの、実入りは良く、大森海岸の小町園の慰安所では、当時の金額で5万円にものぼる稼ぎを得る売春婦もみられた。

しかし、慰安所の開設後も、進駐軍の不法行為は数多く発生した。最初に米軍が横須賀に上陸した1945年8月30日に早くも強姦事件が起きている。特別高等警察はこれらの不法行為を解散命令が出た1945年10月4日まで調査を続け、内務省警保局外事課より「進駐軍ノ不法行為」として文書化された。この米軍にとって不名誉な文書は一旦没収されたが、1973年12月に日本へ返却、翌年1月より国立公文書館に所蔵されている。

(ウィキペディアより)

 また RAA 以外でも、 アメリカ軍向けのクラブを作ろうという動きはあり、 代表的なものとして、 1945年10月に安藤明によって作られた「大安クラブ」 がある。 ここではアメリカ側との公式交渉にワン・クッションを置く民間外交の役割が期待された。 また長屋式の鳩の街や焼けビルの吉原とちがって、 大きなダンスホールを持ち、 ジャズのすきなアメリカ兵に快適な満足をあたえたと思われるのは、 小岩のインターナショナル・パレス (後の東京パレス)であり、 ここにも寄宿舎の食堂を改造したダンスホールが設営された。

ルーズベルト夫人の一言で廃止された慰安所だが、そこから放り出される女性達に行き場など何処にも有りはしない。「慰安所」閉鎖後も占領軍向け娯楽施設運営主体として、1949年までは存続していた。

警察の手で作った慰安施設に慰安婦達である。結局警察も黙認の赤線地帯として残すしか方法がなかったのである。

 巷間では、「米軍が占領下の日本で米軍専用売春施設を作らせて大々的に活用したことなど余りにもよく知られた事実」というような俗説も流通しているらしいのだが、現実の歴史的事実関係は、日本政府が主体的に「米軍専用売春施設を作らせ」たのであるし、その「米軍専用売春施設」を閉鎖させたのは占領軍当局の方であった、ということなのだ。

このことから、日本の戦時中の慰安婦問題が、軍の強制が有ったという証拠も事実も出てはいないのだが、日本の関与を否定し切れていない原因となっている。

「星の流れに」

「星の流れに身を占って
何処をねぐらの今日の宿
(すさ)む心でいるのじゃないが
泣けて涙も涸れ果てた
こんな女に誰がした」

「煙草ふかして 口笛吹いて      

 当もない夜のさすらいに   人は見返るわが身は細る
 

 街の灯影の侘びしさよ こんな女に 誰がした」

「飢えて今頃妹はどこに
 一目逢いたいお母さん
 唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば
 闇の夜風も泣いて吹く
 こんな女に誰がした」

 

 

 戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)という表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降である。

 売春防止法(1956年制定)の完全施行を控え、1958年3月までに赤線内のカフェーなどは一斉に廃業した。店舗は、バーやスナック、料亭などの飲食店に転向するもの、旅館・ラブホテル・アパート・下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなどさまざまであった。

なかには看板は料亭であるが、営業内容は1958年以前と何ら変わりがないものが現在もある。表向き料亭に転向することにより、料亭内での客と仲居との自由恋愛という脱法行為として売春防止法を逃れられたためである。

代表的なのが大阪の飛田新地、信太山新地、松島新地である。大阪には条例でソープランドというものがない。

飛田新地

鯛よし百番(こちらは純然たる料亭で、観光名所となっている)

信太山新地

松島新地

他にも名古屋中村、京都五条楽園など、一部が残るところやそのまま料亭として自由恋愛のお店と残るところが現存する。

 

 

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