無知の知

ほたるぶくろの日記

近所の例大祭

2010-05-30 10:47:50 | 日記

今週末は隣町の神社のお祭りです。昨日は各町内会の御神輿が出発するのを子供と一緒に観に行きました。あいにくの曇り空、ひんやりとした空気、ときどき小雨すら降っているのですが、大勢の方がいらしていました。大人の御神輿に混じって子供だけで担ぐ子供神輿もありました。子供神輿とはいえ、作りのよい立派な御神輿でした。お祭り衣装にみをつつみ、真剣な顔をして重い御神輿を担いでいました。何だか懐かしい感じがしましてみとれてしまいました。今までその神社の存在は知っていたのですが、なぜか一度もお参りしたことがありませんでした。千年以上の歴史のある神社だそうです。良い機会なのでそのままお参りさせていただくことにしました。そのあと氏神様にもお参りして、帰ってきました。

私がまだ赤ん坊の頃、母の背中におぶわれて近所の八幡さまの縁日に行ったそうです。その後越したところの氏神さまも八幡さまで、そこの縁日にもよく行ったそうです。お祭りが好きでねぇ、と言っていました。長じてからその話しを聞いたのですが、その頃はすっかり神社には縁がなくなっていまして、そういう話しを聞いてもなんだかピンとこないものがありました。ほんとう?と問い返すくらい深い記憶で、思い出すことも難しかったです。

その後神社のお祭りに出会うたび、お囃子の太鼓と笛の音はなんとなく懐かしい気がしたものですが、お参りをするようなこともなく生きてきました。大体宗教について考えるときに、神道、神社、というものが何故かすっぽりと意識から抜け落ちていました。どこかで神道は宗教ではない、と思っていたのかもしれません。東洋について考えているときももっぱら仏教について調べ、そして荘子にひかれていました。

そうして、ご縁があってこの地域に引っ越してきたのは、ちょうどこの神社の例大祭の日でした。御神輿が大きな道路を渡るため、しばし通行止めになりますが、丁度そこに居合わせたのでした。それ以来でしょうか、なんとなくこの地域の神さま、神社が気になりました。そうして氏神さまにお参りに行くようになったのでした。

宗教の何に違和感を感じていたのでしょうか。祈り、トランス。正気を失うということにでしょうか。禅にも思想哲学としての興味はありましたが、とうとう座禅などには参加することなく、今日まできました。何度となく座禅会などに参加してみようかなあ、と思ったのですが何となくそういう機会がありませんでした。「頭で理解するのではなく、心で感じるもの」というのもかなり微妙なことです。悪くしますとうっかり夢の世界へ引き込まれかねません。いろいろ議論はありましょうが知能をもった人間としてうまれたのです。それが何を意味するのか自分なりに考えてみたいと思います。