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『消えた画-クメール・ルージュの真実』-ポル・ポトの時代のカンボジアの悪夢を追及する

2014-10-03 21:21:15 | 最近見た映画


     【2014年9月28日】 京都シネマ

 前提と予備知識を理解していなかったら、わかりにくい映画だ。登場する人物は、全て土で作った人形だ。「クメール・ルージュ」に全てを-人間も文化も街も-全部破壊さて手しまったのだから、それしか伝える道具がなかったからか。
 予備知識として、公式サイトイントロダクション>の新谷氏の説明が手っ取り早いので以下に引用しておく。


クメール・ルージュとは?
クメール・ルージュとその時代
 新谷春乃(東京大学大学院)

クメール・ルージュは1975年4月17日から1979年1月7日までカンボジア(当時の国名は民主カンプチア)を統治した勢力の通称であり、ノロドム・シハヌーク元国王が武闘派左翼勢力に対して名づけた呼称が定着したものである。そのトップは1963年以来「ブラザー・ナンバー・ワン」であるポル・ポト(本名サロト・サル)であった。ポル・ポトは富農の家に生まれ、1950年前後に3年間フランスへ留学する。この時期に、イエン・サリ、らクメール・ルージュの最高幹部と出会い、共産主義に傾倒していく。カンボジアに帰国後、教員をしながらクメール人民革命党の地下活動に参加する。1963年には党書記となり、66年には党名を「カンプチア共産党」へ変更した。その前年、中国へ訪問したポル・ポト一派は毛沢東思想に触発され、自らの統治思想に適用した。カンボジア国内ではシハヌークによる共産主義者への弾圧が激化し、ポル・ポトらはカンボジア東北部の少数民族居住地域に潜伏することを強いられた。冷戦が過熱する中で、中立主義をかかげるシハヌークの統治体制にかげりが見られ、ロン・ノルら体制内の右派勢力が台頭してくる。1970年3月18日、シハヌークの外遊中を狙い、米国を後ろ盾としたロン・ノルがクーデタを起こした。ロン・ノルの統治下、カンボジアは汚職による政治腐敗、内戦による国土の疲弊に苦しんだ。農村部ではベトナム戦争の余波による米軍の空爆によって村々は破壊され、反米反政府の立場からクメール・ルージュに参加する人々が増えた。特に若者の参加が急増した。都市は農村部からの避難民であふれかえった。クメール・ルージュは解放区を徐々に拡大し、ロン・ノル政府の支配域は都市部に限定された。1975年4月17日、首都プノンペンが陥落し、クメール・ルージュが政権を握る。
クメール・ルージュが統治した民主カンプチア体制は、当時のカンボジアの人口約700万人の内、約150万人が犠牲になったとして、その被害規模の大きさから国際社会の耳目を集めてきた。ポル・ポトを筆頭とするカンプチア共産党中央委員会は、毛沢東主義に基づいた政策を実施し、カンボジア経済を停滞させた。知識人は排斥され、私的所有権はなく、様々な伝統文化が禁じられた。クメール・ルージュが都市部に入城すると、都市部にいた人々は、すぐに農村部へ強制移動させられた。この時に都市部から移住させられた人々は「新人民」と呼ばれ、多くが過酷な労働条件の地域に送られた。一方4月17日時点でクメール・ルージュの支配地域に住んでいた人々は「旧人民」と呼ばれ、新人民と比べて被害は小さかったと言われるが、被害の規模は管区ごとに異なっているために一概には言えない。農村部では、性別と年齢に応じて集団化が進められた。これらは共産党を母体とし、国家諸機関を包括する組織「オンカー(クメール語で組織という意)」によって担われた。「オンカー」は子どもスパイを配置するなど、人々の生活を監視した。各地に政治犯収容所が行政単位に応じて作られ、「内部の敵」に対する粛清を行った。「内部の敵」には旧体制関係者だけでなく、知識人や「オンカー」を裏切ったとみなされた一般人も含まれていた。「S21」と呼ばれる首都プノンペンにある最高位の政治犯収容所では、ポル・ポトの側近はもとより、クメール・ルージュに長年参加してきた古参革命家も、「裏切り者」として殺害された。対外的には、親中・反越政策をとり、中国から多額の軍事支援や経済支援を獲得した。ベトナムに対しては、政権獲得の直後から度々国境衝突を繰り返した。全国で内部粛清が横行し、各地でクメール・ルージュから離反する幹部が増えた。1979年1月7日、ポル・ポトらによる粛清から逃れるためベトナムに渡ったベトナム国境付近の東部管区出身者を中心とするカンプチア救国団結戦線とベトナム軍の進攻により、民主カンプチア体制は崩壊した。
体制崩壊後、国外退避を求める人々はタイ国境沿いの難民キャンプへ向かった。これらの人びとも含めたインドシナ難民の受け入れは世界中で行われた。日本も定住枠を徐々に拡大し、インドシナ難民の受け入れを2005年末まで継続した。



 それにしてもいつも思うのは、近代的になったという世界で【こうした人間の愚かな行為】がどうして繰り返されるのかということだ。ナチスの『ホロコースト』から始まり、インドネシアでの大虐殺(『アクト・オブ・キリング』)、ルアンダの大虐殺(『ホテル・ルアンダ』、『ルアンダの涙』、等)と、それぞれ、映画にも取り上げられた事件がある。

 『ハンナ・アーレント』を見ても、『人はなぜ人を殺すのか』を読んでも釈然としない。


    『ハンナ・アーレント』のマイブログ

    『アクト・オブ・キリング』のマイブログ>



 数年前、映画『ホテル・ルアンダ』を最初に見たときは、こんな近い現代に、なぜ野蛮で残虐な虐殺が簡単に起きるのだろうか、と強い衝撃を受けた。『ルアンダの涙』はそれに追い打ちをかける衝撃だった。


    『ホテル・ルアンダ』のマイブログ

    『ルアンダの涙』のマイブログ


 『グローバル主義』を展開する世界の支配者の策略なのか、あるいは『庶民の無関心』『大衆の無知』がそのような事態を許しているのか。
 先の見えにくい世の中である。
 



  『消えた画-クメール・ルージュの真実』-公式サイト















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