未安心の部屋

「不安に立つ」ほかなし

解脱の光輪

2011年01月01日 | 和讃
解脱の光輪きはもなし
 光觸かふるものはみな
 有無をはなるとのべたまふ
 平等覚に帰命せよ

「解脱の徳ある無辺の光を身に蒙るものはすべて、
 有・無の偏見を離れるとお説きになる。
 平等覚の仏に帰順せよ。」

と、名畑応順先生の『親鸞和讃集』には注があるのですが、
私にとっては、どうも文字が上滑りしてしまって
なかなか心や腹に届きません。
たまたま自坊には「おやまごぼう」があって
そこに古田和弘先生の解説があるので、
こちらも読んでいこうかと思います。

「誤ってこだわるために、自分自身を苦しめている者を、何とかして、こだわりから解き放ってやりたいと願っておられるのが阿弥陀仏です。(中略)自分を照らしている智慧の光に少しでも気づかされるならば、どのような人であっても、一切のこだわりから離れることができるのであるから、自分の都合だけで、あれこれと、邪見を重ねないで、仏さまの智慧をよりどころにしなさい」
       (おやまごぼう・第274号)

          

あけましておめでとうございます。
気まぐれに更新しているにもかかわらず、
またこちらをのぞいてくださって有難うございます。

赤ちゃんのいる場所の関係と
パソコンに触ることのできる機会が少ない状況のため
なかなか更新ができずにいます。
でも、「だから、出来ない。」と思い込まないよう、
探し求めていく姿勢を
今年は持ちたいと思います。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
        

智慧の光明

2010年12月20日 | 和讃
智慧の光明はかりなし
 有量の諸相ことごとく
 光暁かぶらぬものはなし
 真実明に帰命せよ

「智慧の光明の徳は無限であって、
有限のすべての人間に光明を蒙らせる。
真実明の仏に帰順せよ。」
   (岩波文庫『親鸞和讃集』より)


「諸相」のお左仮名は「衆生なり」とあります。
「真実明」は、阿弥陀仏の別表現になります。     

弥陀成仏のこのかたは

2010年12月16日 | 和讃
讃阿弥陀仏偈和讃  愚禿親鸞作

南無阿弥陀仏

弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫をへたまえり
 法身の光輪きわもなく
 世の盲冥をてらすなり

「弥陀が成仏されてから、既に十劫を経て現在し給う。
清浄な仏身の光明は遍く暗愚の者を照らされる。」
    (岩波文庫『親鸞和讃集』より)

                 

先に登場した

 成仏已来 歴十劫
 寿命方将 無有量
 法身光輪 遍法界
 照世盲冥 故頂礼

に対応する和讃と思われます。

この和讃には「世のめしゐくらきもの」という
お左仮名がついていますが、
七高僧の書物には「女人・聾・盲」など、
女性や障害者に関わる言葉が譬喩としてよく使われているようです。
当時は、「みな」と表現したとしても、
そのなかにこれらの人が含まれることのない社会だったのでしょうか。

以前「市民しんぶん」等の広報を読んでいたとき
障害者のなかでも女性がとりわけ人権無視されていることが多いとありました。
ヘレンケラーは家がよかったのかな…?

讃阿弥陀仏偈 その2

2010年12月14日 | 和讃
和讃をよもう、と思ったら突然の漢文です。
本文にあるように、曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」が引用されています。
でも、「讃阿弥陀仏偈」って何でしょう?
画像が見づらいですが、出典が見つかりました。

これは、『真宗聖教全書』(大八木興文堂)の中に入っています。

書き下し文は、『浄土真宗聖典』(本願寺出版社)にあります。


「讃阿弥陀仏偈」は
曇鸞大師が大経によって阿弥陀仏の徳を讃嘆した詩句
でした。
阿弥陀仏の徳が(十二光をはじめとして)たくさん形容されています。
これから始まる親鸞聖人の和讃は、
それらを和訳したものなのでしょうね。

人々にわかりやすく広く伝えたというと
蓮如上人のイメージがありますが、
親鸞聖人もそのような努力をされたのでしょう。


讃阿弥陀仏偈

2010年12月11日 | 和讃
今日は長いです。
内容については、また後ほどに。

(検索してコピーすれば簡単なのですが、
自分で入力しないと頭に入りませんからね。)

      

讃阿弥陀仏偈 曰
  曇鸞御造

南無阿弥陀仏  
  釈名無量寿傍経
  奉讃亦曰安養

成仏已来 歴十劫
寿命方将 無有量
法身光輪 遍法界
照世盲冥 故頂礼

又号無量光 真実明
又号無辺光 平等覚
又号無碍光 難思議
又号無対光 畢竟依
又号光炎王 大応供
又号清浄光 又号歓喜光
大安慰 又号智慧光
又号不断光 又号難思光
又号無称光 号超日月光
無等等 広大会
大心海 無上尊
平等力 大心力
無称仏 婆伽婆
講堂 清浄大摂受
不可思議尊 道場樹
真無量 清浄楽
本願功徳聚 清浄勲
功徳蔵 無極尊
南無不可思議光  已上略抄也

十住毘婆沙論曰
自在人 我礼  清浄人 帰命
無量徳 称讃  已上

宮殿のうちに五百歳

2010年12月09日 | 和讃
誓願不思議をうたがひて
 御名を称ずる往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

「名号は仏の誓願であるのに、その誓願の他力を疑って、自力で念仏している者は、浄土の辺地(胎宮)に生まれて、五百歳の間意味のない年時を過ごすと大経に説き給う」
    (岩波文庫『親鸞和讃集』より)

      


「最上の真理を見ないで
 百年生きるよりも
 最上の真理を見て
 一日生きることのほうがすぐれている」
と書かれた碑が、自坊にあります。

100年はさすがに長いと感じますし、
500年ははるか遠くに感じます。
それでも、たった1日にも及ばないのですね。
そろそろこの1年を振り返る季節になりました。





今日一日だけでも

2010年12月08日 | 和讃
弥陀の名号となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり

                  

自坊への往復や夫の留守で
週1コマの授業もなかなか出席できないうちに
この1年が終わりそうです。
残りの人生もこんな調子で終わってしまいそうで
焦りを感じていたところ、ふと気が付きました。
「三帖和讃って350首くらいなんだ。
じゃあ、1日ひとつ読めば1年で一通り目を通せる。」

では来年の1月1日から、
などと言っていると必ず挫折するので
思いついた日からと思いながらも、
また1週間が経ってしまいました。

       
  
「念仏を称えて、同時にこの念仏を選びとられた仏の本願のまことを疑いなく信ずる人は、つねに心に本願を忘れずに、仏恩を感謝する思いが持続する。」
     (岩波文庫『親鸞和讃集』より)

名畑應順先生の岩波文庫『親鸞和讃集』には補注もありますが、
これに目を通そうとするとさらに挫折しそうです。

この首は有名で、三帖和讃の冒頭に登場しますが
最初につくられたのではなく、
「信を勧め疑いを誡める」ことを強調するために
あとから冒頭に加えられた様子です。
正像末和讃にほぼ同じ首があるのですが
国宝本(草稿本)、顕智本(初稿本?)、文明本(真宗聖典の底本)と見ていくと
これら2首の扱いは変遷しているようです。