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同じ作品を繰り返し上演することができる最大の喜びは、自分でその作品の意味をしつこく発見できることだと思う。
舞台が、小説や映画や録音された音楽と大きく違うのは、そこだ。塗り替えや解釈が何度もできる。それを言うと、完成していないものを観客に差し出すとはどういうことだ、という批判を受けたりするけれど、それは間違っている。完成しているしていない、という尺度で舞台は成立していない(と僕は思う。もちろん暫定的には完成しているわけだけど)。舞台が成立しているかどうかの大きなポイントは「いまここにいる」かどうかだ。もしも「いまここにいない」なら批判されても構わない。そんな舞台は僕だって見たくない。
舞台上の俳優は、今日と明日では違うのだ。そのことを認めないと、面白くないと思う。
極端なたとえ話をすれば、恋に落ちたことのない俳優がロミオを演じている。今日の夜、劇場からの帰り道、人生で初めての恋に落ちる。翌日の公演、彼はおそらく違ったロミオを演じるはずだ。一字一句同じ言い回し、同じ動きをしたとしても、だ。そのことに演出家や観客が気づくかどうかは問題ではない。大事なのは、俳優が恋に落ちたという事実で、俳優とは否応なく(良くも悪くも)生きているのだ。
いやほんと、俳優を含めた人前に体や心をさらすあらゆる職業の人は偉いと思う。その生き方が(間接的にではあるけれど)価値を生んだりするのだから。僕にはちょっと真似できない。
そういう意味で舞台は本当の意味での時間芸術なんではないだろうか。上演時間だけ時間は流れているのではない。物語が進んでいる間だけ時間が流れているのではない。袖の向こう側の時間、稽古場の時間、プライベートな時間全部が舞台上には流れている。
そしてすばらしく面白いことに舞台上には「観客の時間(人生)」も流れるということだ。すべての芸術と同じで、観客の脳みそで最後に完成する(あ、完成している、ということ、はそういうことかもしれない。つまり完成していない作品とは、観客の脳みそがさっぱり反応しないときのことを指すのだ。そこには受け手と送り手の相互の対話がある・・とこの話はまた今度)。
つまり観客ひとりひとりの答えがあり、ひとりひとりの問いがある。できれば劇場の向こう側や明日にもそれが繋がるといい。そういうものを私は作りたい。宮沢賢治風。