今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

自主性オワデッド

2014-03-29 | Weblog
自主性をバカにしてはいけない。自主性オワデッドと言ってもいい。僕がそうだからだろう。自分の中で、やりたい!と思わないとなかなか手が動かない。動かないだけじゃなく、空しさを感じてしまうときがある。もちろんその思想を他人に押しつけるのは良くないと思ってるけど、けれど、自主性がないままに何かをトライしても、それって失敗しても次に繋がらない気がするのだ。よりうまく失敗しろ、と言ったのはベケットだけど、そこまで言わないけど、それでも失敗なんか普通にする。どうせするならうまく失敗したい。だからそれを許容できない仲間とはなかなか仕事はできない。まあ成功とか失敗とかって、すぐに答えが出ないから難しいし面白いんだけど。
そーね、あらゆる仕事は自分で自分に火をくべるものだ。そして僕はその火をたくさんの人に渡していきたいのであーる。

投げたボール

2014-03-28 | Weblog
いじめで「それを決めるのは、受けた側だ」という考え方がある。この理屈はすごくよくわかるし、そうだと思う。一方、本当にそうなのか、とも思うんですよね。受け手ってそんなに強いのかな?送り手は「そう思われたこと」を100%受容しないといけないのかな。
舞台でも送り手と受け手がいて、観客がどう思ったかがすべて、みたいなことを言う人がたまにいて、そのときも、そうだよなーと思う一方で、本当にそうなのか、とも思うんですよね。
いじめの話とか舞台の話とかのことをしたかったんじゃなくて、受け手と送り手って思ってるよりも決まってないんじゃないかってこと、が云いたかったんです。
投げたボールは、投げる側とキャッチする側のどちらの手にもないものなんじゃないかって。それはただ空にある。ていうような感覚?
その瞬間を見ればどっちが主体なのかわからないような構図。それがわりと本質に近い気がしている。

スナフキン

2014-03-21 | Weblog
よのなかにはスイートやキャッチーがいっぱいあるはず
うー神様、パレードにあめなんてふらせないで
よのなかにハッピーもラッキーもぜんぜんなくても
あなたとならうれしくてほおずりしたくなるでしょ

昨日の森田一義と小沢健二のツーショット、からのメドレーはほんと良かった。
昔、渋谷というジャンルの音楽があって、その頃、僕は渋谷からは遠い遠い山の上にいて、渋谷という謎の谷から聞こえてくる澄んだ水のような音楽に耳を澄ませていた。さっきのピチカートの歌詞のようなことがどこか遠くの谷、ムーミン谷に似たような場所、では実際にあるのだと思っていた。瞬間と永遠の場所。いまその谷で音楽とか演劇とかの舞台を作ってると思うと不思議でならない。もちろんあの頃のパレードはもう終わってしまってるけど。
そういえばどこか年を重ねたオザケンはスナフキンに似ていたなー。

観客の時間

2014-03-18 | Weblog
TPDの「1×0」ニューバージョンの初日が迫ってきている。まだまだやれることはたくさんある。もっと面白くしたい、ということはつまり、もっと集中して追い込みながら楽しまないといけない。チケットまだの人はぜひ→http://tpd-web.com/

同じ作品を繰り返し上演することができる最大の喜びは、自分でその作品の意味をしつこく発見できることだと思う。

舞台が、小説や映画や録音された音楽と大きく違うのは、そこだ。塗り替えや解釈が何度もできる。それを言うと、完成していないものを観客に差し出すとはどういうことだ、という批判を受けたりするけれど、それは間違っている。完成しているしていない、という尺度で舞台は成立していない(と僕は思う。もちろん暫定的には完成しているわけだけど)。舞台が成立しているかどうかの大きなポイントは「いまここにいる」かどうかだ。もしも「いまここにいない」なら批判されても構わない。そんな舞台は僕だって見たくない。

舞台上の俳優は、今日と明日では違うのだ。そのことを認めないと、面白くないと思う。
極端なたとえ話をすれば、恋に落ちたことのない俳優がロミオを演じている。今日の夜、劇場からの帰り道、人生で初めての恋に落ちる。翌日の公演、彼はおそらく違ったロミオを演じるはずだ。一字一句同じ言い回し、同じ動きをしたとしても、だ。そのことに演出家や観客が気づくかどうかは問題ではない。大事なのは、俳優が恋に落ちたという事実で、俳優とは否応なく(良くも悪くも)生きているのだ。
いやほんと、俳優を含めた人前に体や心をさらすあらゆる職業の人は偉いと思う。その生き方が(間接的にではあるけれど)価値を生んだりするのだから。僕にはちょっと真似できない。

そういう意味で舞台は本当の意味での時間芸術なんではないだろうか。上演時間だけ時間は流れているのではない。物語が進んでいる間だけ時間が流れているのではない。袖の向こう側の時間、稽古場の時間、プライベートな時間全部が舞台上には流れている。

そしてすばらしく面白いことに舞台上には「観客の時間(人生)」も流れるということだ。すべての芸術と同じで、観客の脳みそで最後に完成する(あ、完成している、ということ、はそういうことかもしれない。つまり完成していない作品とは、観客の脳みそがさっぱり反応しないときのことを指すのだ。そこには受け手と送り手の相互の対話がある・・とこの話はまた今度)。
つまり観客ひとりひとりの答えがあり、ひとりひとりの問いがある。できれば劇場の向こう側や明日にもそれが繋がるといい。そういうものを私は作りたい。宮沢賢治風。

うねり

2014-03-17 | Weblog
南米のジャングルから本届く。驚くのは、夜中に注文して、目覚めると届いてること。まるで気の利いたサンタクロースだね。ファストクロース。というわけで今月の読書は、「そのように見えた」「monkey第1号」「日本の起源」「安部公房とわたし」「デジタルネイティブとソーシャルメディア」「好き?好き?大好き?」の6冊。できれば一日に1時間は本だけに集中したいと思うのだけど。
昨日は稽古後に渋谷の高級ホテルの地下の能楽堂で狂言を見る。童司さんがはじめた新作狂言シリーズ。もちろん面白かったのだけど(特に3本目の「今際の淵」は出色)、童司さんが狂言界という伝統の中でこういう挑戦をしていることにいたく感動した。過去は未来のために。そして未来は現在のために。
そう考えると時間というのは後ろから前に流れるのではなくて、もっとうねりのあるものなのかもしれない。少なくとも芸の世界の時間軸はうねりを作るアーティストのところで勝手にビッグバンが起こるのだと思う。

白髪、動く光、暗い穴

2014-03-14 | Weblog
六本の木の森のビルに白髪のアメリカ人が作った複製芸術が大挙してやってきていたのを見に行く。19歳の時にたぶん初めて本物を見た。そのときの「心にぺたっと張り付く感じ」(BY村上龍)はその後、僕を夢中にさせて、ポップアートの展覧会があれば足繁く通うようになった。でも年齢的なものか、嗜好の変化か、正直言うと、もう今ではあのときのもぞもぞした感じはなかった。
彼の作品でレッド・レーニンというのあるのだけど、それを楽しみにしていたのに、来てなかったのも残念なひとつだった。
隣ではメディアアート系の展示があって、動いていないのに動いてるように見えるスーパーカーとか、手で触るともぞもぞ動く光とか、巨大なボールの世界に入り込むのとか、そっちの方がもぞもぞした。
でも一番もぞもぞしたのは、東京の夜景だった。ところどころ大きな暗い穴があって、公園なのだろうか、それが不思議だった。東京は光よりもわりと闇の方が印象的であることがわかった。街全体がもぞもぞしたメディアアートのような気がした。

東京タワー的なるもの

2014-03-13 | Weblog
日曜は、稽古は休みだった。池袋にニッポンの河川を見に行き、そのあと渋谷でインターネットラジオの収録、急いで秋葉原に飛び、TPDの初の対バンイベントを途中から観戦、盛り上がっていて良かった。そこもすぐに飛び出し、田町へ。初めて降りる駅。角を曲がると、そこに突然、東京タワーが見えた。
東京タワーって、いつも突然、目の前に現れる。心の準備をまったくしていない。大きなビルに囲まれているからだろうか。まるで夢の中のように、東京タワーは不思議な存在感で目の前にどんと現れて、そして僕は立ちすくむ。うわ、て、なる。
うわ、でか。そして、赤!
東京に東京タワーがあることをよく忘れる。忘れるというか、気に留めていない。でも人生の中で時々目の前に現れて、存在感をアピールしてくる。
そういう、東京タワー的なるもの、って他にもいくつかあって、いますぐに言えないけど、ありますよね?歯痛とか?説教してくる後輩とか、好きな人の涙とか、メチャクチャおいしいハンバーグとか。わかんないけど。東京タワー的なるものを、大事に愛でたいと思うのでした。

静かだった

2014-03-12 | Weblog
あの日はPLAY PARKの本番10日ほど前で、僕は大阪から新幹線で東京に向かっていた。静岡を過ぎたあたりで緊急停車して、しばらくして車内放送でNHKのラジオが流れた。パニック映画のような声だった。車窓の外は山間地帯で、遠くに掘っ立て小屋が見えて、そこに老人がいた。

段々畑がどこまでも続き、小鳥が時たま飛んでいった。車内も静かだった。みんな黙って放送を聞いていた。誰ひとりこれがどういう意味を成すことなのかわからなかった。ただ静かに新幹線が再び動き出すのを待っていた。外の老人にはこのニュースはもちろん伝わっていなかった。

途中で孫がやってきて、ふたりはゆっくりとどこかへ去っていった。風景画のようだった。僕は、携帯の電源も切れて誰にも連絡とれないので、ただぼんやり外を眺めていた。で田舎を思い出したりしてた。時たま津波という言葉が放送から流れてきたけど、うまく想像することはできなかった。

基本的に、僕はいろんなことをうまく想像することができない。ましてやそのあとに起こったいろんなことなんて想像していなかった。PLAY PARKは中止になった。たくさんの人と話をした。いくつかの悲しい言葉もあったし、嬉しい言葉もあった。

9.11のときも僕はフェスの準備をしていた。あの時は、部屋にいて、メンバーの中瀬君とあの映像を見ていた。そのときもとても静かだった。3歳のくらいのときの、田舎の縁側で、おばあちゃんと姉と一緒に何かを食べていた。たぶんあの記憶が一番古いものだ。あれもとても静かだった。

阪神大震災のときは、被災者だったので、記憶はもう少し違う意味合いになっている。
記憶をたどると、いろいろ出てくるけど、それらが示唆することが何かはやっぱり想像できない。想像できないことはとても悲しい。想像できないことで多くの心が傷つくことも知っている。だから想像しようとは思うのだけど。で、想像できないことは受け入れる。そのときはしっかりと静かに現実を見る。ようにしたいね。深呼吸。

理想の眠り

2014-03-11 | Weblog
年を取ると、若い頃に比べて、眠るということについて頻繁に考えることが多い。
できれば「ゆっくりと」眠れる環境が欲しい。食事にしてもそうだ。できれば「ゆっくりと」食べたい。そもそもが僕は「せっかち」なのだ。だから食事も睡眠も、基本的には慌ただしい。お風呂だってそうだ。カラスだ。ほとんどガソリンスタンドの洗車機だ。
眠りに話を戻そう。ゆっくりと、そして重要なのは「しっかり夢を見る」ことだ。

先日、気分転換に映画を見に行った。去年封切られた映画で、一度は終わってしまったのだけど、名画座として早くも上映が決まり、わざわざ大森まで足を運んだ。正直今映画を見に行く余裕はない。でも無理してでも見た方が良いと思った。忙しいときほど心に余裕を持たないといけない。と、もはやその義務感、全然余裕ない。
早く着いたので映画館の隣のそば屋で鰻丼を食す。ああ、余裕ある演出。全然忙しくない感じ。客は誰もいない。なのに店のおじさんは、耳が遠いのか呼んでも全然来てくれない。それでもいい。なぜなら僕には余裕があるからだ。さらに時間があったので、大森を散歩してみる。知らない街、ああ、なんか旅みたい。道に迷う。あやうく上映時間に遅れるところだった。で映画が始まってすぐに寝てしまった。それもぐっすり。しっかり夢まで見た。たぶん夢だと思う。映画かもしれない。映画のような夢だった。
確かにゆっくりと眠りたかったよ。でも違う。今じゃない。
まったくもって余裕のない余暇の過ごし方をしてしまった。余計なことするとこうなるいい例だね!
来月にはその映画、DVDになるから買おうっと。

近未来感

2014-03-08 | Weblog
大阪に家があってでもほとんど東京に住んでいることでの不便さに関して例を挙げだしたらきりがないのだけど、その逆もまたあるんじゃないかと最近思うようになってきた(つまり便利なこと)。まず服装。そもそも着るものをそんなに持ってきていない。スーツケースに入る分。冬服の場合はもう、aとbとcくらいしかない。これはこれで何も考えないで済むのでとても便利だ。同時に少ない分まめにコインランドリーに行くことで、こぎれいにしていられる。ものも少ない。というかほとんどない。あの資料読みたい、と思ってもない。けれどそれが良い。資料なんか頭の中だけを便りにしたらいいのだ。結局の所、本棚にはヒントは隠されていない、そのことに気づく。それから大阪との打ち合わせがほとんどスカイプになるので、近未来感+タイトにまとめる打ち合わせになる。これはとても良い。勿論ときたま大阪の人に忘れられているんではないかと頭をよぎるけど、そもそも覚えられていない(たぶん)。また仮住まいならではの気楽さもある。どれだけ枕が変わっても大丈夫な人間なので、というか変わった枕が好きだ。まるで旅人じゃないか。何かの予行演習だと思えば、やる気も出る。もちろんこれらすべては強がりであることも明記しておく。

コミュニケーション能力

2014-03-07 | Weblog
コミュニケーション能力という言葉が氾濫しているけど、それに関して僕の中で一番腑に落ちたのは内田さんの以下のブログ。
http://blog.tatsuru.com/2013/12/29_1149.php
長いけどかなり適切に説明されていると思う。
「私は私のコードを破った。あなたはあなたのコードを破ってはくれまいか。」
こういうことって恋愛でも仕事でも、人と人が関わる以上、とても大事なことだ。もちろん演劇の現場だってフェスティバルの運営だって、ワークショップするにしたって、そうだと思う。僕ができているかどうかはわからないけど(たぶんできていないことが多い)、そのことを教えてくれる人に出会うと、ふむふむそうだよなー、と得心する。相手に対して敬意を持つ。自分の立場をいったん置く。
たとえ立場の違う人間同士だとしても、決定的な違いなんて、実は少ない。話してみたら目的は一緒だった、なんてことよくある。
転校をしたことある人は分かると思うけど、まずその学校のルール(ほとんどが暗黙)を見極めることが死活問題だ。僕はそれで失敗していじめられたこともある。相手にたいして敬意を持ってなかったことと、自分の立場に固執したことが原因だったと思う。もちろん、100%こっちに否があったとは思ってないし、そもそも子供のストレス発散にいちいちコミュニケーション能力を持ち出すこともないとは思う。それでも僕らは、いつだって、手っ取り早いコミュニケーションとしての暴力というカタチ(装置)をとりがちであることは、大人社会の縮図として覚えておいた方がよい。

ご飯を食べたり眠ることと同じくらい

2014-03-04 | Weblog
東京バス生活。とは言っても、住んでるウィークリーマンションから稽古場までは歩いても20分くらい。バスだと8分くらい。短い時間だけどちょっとした通勤気分が味わえる。時間帯によってバスの乗客の年齢層や性格はだいぶ違うことが分かってきた。主婦の時間、老人の時間、会社員の時間、幼稚園の時間、大学生の時間。運転手さんも様々で愛想のいい人にあたるとやはり気持ちよい。バスが他の乗り物と決定的に違うのは、運転する人と一緒にどこかに向かう、という感覚が強いところかもしれない。それを知らない人たちと共有することで、彼らとも運命共同体的な気持ちになれる。特に旅の時は、バスが好き。19の時の西アメリカグレイハウンドの旅は今でもまざまざと思い出せる。
東京に来ていた黒田さんとお昼にチラシの打ち合わせ。東京駅にある穴場の博物館教えてもらう。稽古場では17歳の女の子に「人生は楽しまないと」と教えてもらう。僕も誰かに教えられる人になれるといい。教えたり教えられたりって、ご飯を食べたり眠ることと同じくらい人間の身体には必要なことだと思う。

天候、星の運行、重力、地熱とか、

2014-03-03 | Weblog
ひさしぶりにブログ。少し前の話だけど、白金にも雪が降って白銀になり、誰もが思うことだけどいつもの景色が真っ白に覆われるのは心の奥の方をノックされる。これが真っ赤でも真っ黄色でもそれなりに感動はあるのだろうと思うが、いずれにせよ同じ色で見渡す風景が染められるのは愉快だ。今日は雨がしとしと降っている。水槽の中にいるようだ。水は不思議。カタチや色を変えて、上から下から生活を潤す。まるで音のようだ。水は本当は見えていないのだと思う。天候、星の運行、重力、地熱とか、そういう見えないもので覆われている。たぶん目でも耳でも鼻でもない場所で、水とか風とか、もしくは霊魂みたいなものも含めて感じ取って生きているのだと思う。そういう能力はけして太古の世界に置き忘れてきてはいないと思う。