今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下の2014年度の活動のことなど。もろもろ。

そういうものだ

2017-02-07 | Weblog
半年くらい悶々と唸っていたことも、いざ目の前に現れれば、その肉体に、全部答えは隠されている。
演劇とはそういうものなのだと思う。戯曲を書いているとき、演出を考えているとき、舞台美術の図面を見ながらいろいろと作戦を練る、音楽を聴いて、人と話をして、目をつぶって、いろいろと考える。こんな演劇にしたいなあと。
それらは、目の前に俳優が現れて彼ら彼女たちが何かを発した瞬間、全部別の何かに変わっていく。そういうものだ。別に準備したことが全部無駄だったとか言ってるわけではなく、肉体の、その重さ、と、神秘性、と、どうしようもないぎこちなさ、に、実は答えは隠されている。そういうものだ。
だから、演劇は、やってみないとわからない。
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夜明け前

2017-01-16 | Weblog
旅の前日はだいたい〆切に追われて、きーってなってる。でも基本ずっとわくわくしている。
tpdの新年一発目のライブも無事に終わって一安心。きっと3月の中野サンプラザのライブがひとつの夜明けを告げるライブになると思う。僕もまったく同じ気持ちで演出しようと思う。
生ハムと焼うどんの「断食」のブログを読んで、いろいろと考えることは多い。テレビを見ていて、たくさんのアイドルや芸能人がにこやかに楽しそうに手を振っているが、彼ら彼女たちだって「なんらかしらの問題」を抱えてあそこに立っているわけで。まあそこそこの神経ではやっていけないんだろうな。
新しいプロジェクトもうねうねと動き出していて、まだ全然形も見えていないけど、どっかそれこそ「旅」の前日のような気分。どんなことが待っているんだろう。ツアコンもいないし、旅程表もない。泊まるホテルも決まっていない。それでもどうにかなるし、だからこそどのガイドブックにも載っていない場所にたどり着けると信じている。
でもさすがに本物の旅でそういう旅行はもう何年もしていない。少なくとも泊まるホテルくらいは決めていく。なんだか「ヤワ」になったようで寂しい。
今回の旅はたぶんずっと本を読んでいる。小説ばかり4冊、鞄につめた。それ以外は基本なにもしない予定だ。そろそろ夜明け。出発。
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日常旅情

2017-01-09 | Weblog
たぶん誰もが経験したことあると思うのだけど、普段の生活の中でふとしたきっかけで旅している気分になるときあるよね。もう少し厳密に言うと「海外にいるような錯覚」に陥るときある。地下鉄の階段を下りているとき、公園を散歩しているとき微妙な太陽の光がさしたとき、ローカル線のさびれた駅をおりたとき、などなど。これは人によってかなり個人差があると思うのだけど、急に、今海外にいるぽい、と胸に小さな靄がわき起こる。で、そう思ったのもつかの間瞬間的にそれは消えている。そこはいつもの大江戸線で、代々木公園で、福井の田舎だ。ロンドンでもセントラルパークでも東ヨーロッパの片田舎でもない。
デジャブのようなものなのかもしれないが、デジャブほど郷愁はなくて、ただ、旅をしている気分になるだけだ。いわば日常旅情とでも言うような、なんとも形容のしようがない気分。いつもの見慣れた風景なのに、それははじめて訪れた場所のようになる。今までの旅の記憶をよみがえらせるスイッチがその風景によって押されたのだろう。で、どこかキザな気持ちになる。少しだけ背筋が伸びるというか、自分が世界の中心にいるような気分。そして、それが消えたあとに思うのは、ああ旅行に行きたい、だ。
まあ、でも旅行には行けないときは、そうやって日常旅情で満足しておく。

ちなみに野外でパフォーマンスをしたりそういうフェスを開いている理由の一つは日常旅情を意図的に人工的に起こしてみようという企みでもあるのです。
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あけましておめでとうございます

2017-01-03 | Weblog
3年ぶりの渋谷の高層からスクランブル交差点を見下ろして、そのまま赤坂の豊川稲荷でカウントダウンはひっそりと行われ、幸多め災難少なめを願う。お神籤は末っ子。これで雪でも降ってたら完璧な初詣だったのだけど。元旦はハイボールとホットワインと日本酒を、おせちで挟んで飲み続ける実験をしてみて、いつ寝てもいい、というルールで楽しんだ。初夢はお芝居の夢だった。とても面白そうな舞台を作っていた。なぜかデザイナーの黒田さんが主役だった。今まで夢で見たことを舞台に使ったことはないのだけど、後から考えると自分の夢にインスピレーションを受けて作っていることはある気がする。僕は大学時代に心理学をやっていてユングを専攻していたので夢占いとかに凝ったことがあるのだけど、それを人に言うと、みんな「昨日見た夢、占ってー」と言ってくる。そんなものその場で言われてわかるわけないのだけど、なんだか面白いので適当に占ってみると(すいません)わりとみんな納得してくれて楽しい。村上春樹が物語を紡ぐのは目を覚ましながら夢を見るようなものだと書いていたけどさもありなん。自分の見た夢を自分で占いながら自分の物語を生きようと思う。あけましておめでとうございます。
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年末雑記10

2016-12-31 | Weblog
大晦日。落ち着いてブログを書けるくらいに。
つらつらと頭によぎったことを。
①ほとんどのことは計算できない。いや、世の中には計算通りの人もいるのかもしれないけど、僕には無理なようだ。計算して計算して、これはうまくいくだろうとか、きっとほめられるだろうとか、喜ばれるだろうとか、思えば思うほどあんまりその通りにはならない。ただ気持ちよくクリアなことを考えることでしか、結果はついてこない。誰かを喜ばしたいなら、自分がまず喜ぶしかない。
②年内中に「真田丸」を見終われなかった。やはり三谷さんの脚本が大好きだなと思った。慈悲、ていうか、眼差しっていうか、暑苦しくなくでも冷め切ってもいない。人肌のような物語。「ウォーキングデッド」のseason7とともに最近のお楽しみ。でも見終わりたくないという気持ちも。
③今年もいろいろな舞台を作らせてもらってそれについては感謝しかない。でもまだまだ作りたいモノはあって、それをどう実現するか。課題もたくさんある。今頭の中にある「やりたいことリスト」を眺めてみると、半分くらいは演劇とは直接的には言えないものだったりする。それでも全部演劇として作れると楽しそうだなと思っている。
④先日、姪っ子たちのバレエの発表会を見に行って、はじめてそういうものを体験したのだけど、正直退屈だったので、勝手に自分の子供をひとり作って、その子を応援してみるという遊びを心の中でしながら見た。演目ごとに(10分づつくらいに入れ替わる)それをするので、時たま、目星をつけた「自分の子供(仮)」が全然やる気ないやつだったりして、やきもきした。帰ったら説教だな、とか。
⑤この時期に、近所に「火の用心」の声と拍子木が鳴り響くのはいとおかし。いつか自分があの人たちの代わりに冬の街を練り歩くことがあるのだろうか。そういう引き継ぎみたいなことを全然しないで年をとっている気がする。そもそも自分の街をいまだかつてしっかり持っていない。今住んでいるところがそうなるのだろうか。定着しない性格だから難しい気がする。
⑥リンゴの電話機は素晴らしい機能をいくつも持っているのだけど、家のリモコン全部をここに集約できないものだろうか。あとハサミとか爪切りとかもつけてくれたらもっと嬉しいのだけど。ずぼらな性格だと思うのだけど、ブーツの靴紐とかもあれなんとかならないかな。結ぶの嫌い。ジョジョの宇宙人の人みたいにシュルシュルって勝手に足にまとわりついてくれたらいいのに。
⑦今年はひさしぶりに山口君の年賀状展に年賀状を送ろうと思っているのだけど、まだなにも手をつけていない。やばいな。そういえば最後に年賀状を書いたのが(それも山口君に送るために)4年前の長崎ハウステンボスの大雪の中だった。1年も早いけど、10年も100年も早いんだろうなきっと。だからどうしたってことだけど。
⑧新しい人たちとの出会いも楽しいけど、何度も同じ人たちと一緒にやりたいという気持ちもある。はじめましてのように、気心の知れた人たちと創作できる環境が必要だ。
⑨今年は蜷川さんが亡くなったけど(面識はない)、僕にとっては維新派の松本さんの死はとてもショックだった。何度もお酒を飲んだり、お話を聞かせてもらった。なぜか僕みたいな演出家にも目をかけてくださり、調子に乗って面倒なお願いも何度かさせてもらった。フラットな人で、緊張はしたけれど、怖くはなかった。若い時の破天荒な部分は若干影をひそめ、いわゆる「好々爺」のように僕には見えた。でもやってることはやはり「パンク」で「クレイジー」だった。こんな大人になりたいと思っていたひとりだ。もっともっと遊ばないとああはなれないような。精進します。
⑩できるだけへらへら笑って過ごせるのがいいと思う。同時に、もっと緊張感も欲しいので、なにか怒られるかもしれないぎりぎりのところを攻めながら楽しんでいこう2017。はい、良い年を、おむかえください、エブリワン。



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うねり?

2016-12-05 | Weblog
「ハイキュー!!烏野、復活」閉幕しました。劇場映画館にご来場いただいた皆様、応援してくださっている皆様、ありがとうございました。そしてスタッフキャストのみんなおつかれさまでした。いろいろと書きたいことはあるけど、またまとまって落ち着けるときに書こう。
"なんでも演劇にできる"が舞台演出家としてのモットーなのですが、今回ほど"演劇でできることはたくさんあるなあ"と思ったことはないかもしれない。"なんでも演劇にできる"と"演劇でできることはたくさんある"は全然違うことなんだけど、なにか従兄弟くらいには繋がっている気もする。
現代演劇が(僕は)今キテると思ってるんですが、それはたぶん業界全体の盛り上がりもあると思うし、いろんな先輩後輩たちが実験的で野心的な作品を、舞台でやってやろうというムーブメントがあるからだし、そのおかげでお客さんも昔ほど演劇を高尚で難解なものと思わずに、世の中にはこんなにたくさんの表現(遊びと言ってもいい)があるんだってことを楽しんでそして気づいてくれているんだと思うんです。そういう土壌があるから「ハイキュー!!」もできているような気はするんです。ややこしい文脈とかの話ではなくて、ライブ芸術のうねり?というか。ともかく、演劇、面白いですよね。いつまでも作り続けたいものだし、この仕事、最高です。
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遠くを見るか、近くを見るか、どっちが多いですか?

2016-11-27 | Weblog
随分昔、「645」というお芝居の稽古中に劇団員の東くんの馬跳びをする動きが気に入らず、調子こいて見本を見せたら思いきっり足首をぐねった。それ以来、年に数回、右足をぐねる。いわゆる「くせ」になっている。だいたい調子に乗ったときに「それ(捻挫)」は起こる。神様がブレーキをかけているのだと思って、足首をぐねったときは、「調子に乗ってすいません」と心の中で思うようにしている。もしくは何かの危険信号だと思うようにする。ただの雨の日というのもあるけど。
身体のサイン、で言えば、最近夜になると目がかすむ、という完全に老化への道が開かれはじめていて、大阪にいたときにいつも通っている眼鏡さんに行き、新調すると同時にこれって老眼ですか?と聞いてきた。詳しく調べてもらって、「老眼ではないがこれから先あやうい」と診断。もともと近視の乱視のW受賞者だったので、老眼になっていても気づくのが遅いらしい。「遠くを見るか、近くを見るか、どっちが多いですか?」と聞かれて、そういえばいろんな意味で近くしか見てないなーと反省、意味もなく「遠くを見ます」と宣言して都島の眼鏡屋をあとにした。
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もうひとつ別の世界

2016-11-25 | Weblog
「ハイキュー!!」のツアーも佳境、大阪公演初日が昨日あけて、今週末まで、そのあとは東京凱旋。千秋楽は全国47都道府県でライブビューイング。何万人て人に見てもらえるのは嬉しい。
今年は明治座とか梅芸とか、1年前の自分では想像もしていなかった小屋で演出をさせてもらえる。まったく不思議なものだ。
で、頭をよぎるのが2つ。ひとつは、これは決して僕が売れたわけではないということ。そういう作品に巡り合わせてもらっているだけで、かなり一過性のものだと考えた方がよい。
もうひとつは、劇場の大きさや格式で演劇の内容は変わらないということ。表面的には随分と違うことになっても、根本的なメッセージ、偉そうに言えば「演劇たるもの」は何も変わらない。特別だけど特別じゃない物語と、登場人物がいて、彼らが息づいていること、演劇という表現媒体の最大のメリットは「生きている人が目の前で別の生きている世界を作り出すこと」だと思っている。難しい言い方で申し訳ないが、そういうことだ。とにかくそこには「もうひとつ別の世界がある」。観客はそれを「存在している」と思い込む。思い込むためには、俳優が全力で自分と共演者を騙さないといけない。その作業には観客の脳みそがあってのことだ。観客の脳みそを通過して、それは「存在する」。そういう今生きている観客と今生きている俳優の共同作業こそが演劇だと言ってもいいと思う。主演の須賀健太君がカーテンコールで言う「ハイキューの世界を生きれるのはみなさんが劇場に足を運んでくれるからです」という言葉はまさにそのことを示唆しているのだと思っている。お金を払ってくれることも嬉しいけど(興業としてはそれがないと立ちゆかない)、観客のみんなが能みそをフル稼働して想像してくれることで、僕らは演劇を演劇たらしめていけてるのだ。
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1020

2016-11-23 | Weblog
sundayの10周年イベントとダンスボックスの20周年イベントが土日連続で。前者ではオリジナルの短編「モノローグダイアローグ」をその場で書いてみんなで読んだ。また2時間以上も過去の作品の思い出トークに花を咲かせた。後者は6時間半越えの夏フェスのような怒濤のダンスダンスダンスで、関西の主要なコンテ系のダンサーはだいたい集まっていたんじゃないだろうか。20年という歳月の重みと、db独自の”軽み”が、2種類の密度の違う液体を混ぜたドレッシングみたいに反発と調和を繰り返しながら美しい模様を描いていた。
盆と正月、という言い回しがあるけど、まさにそんな二日間だった。
たまにしっかりと過去を見つめるのは良いことだ。ひとりで見つめるのも良いし、こうしてみんなでわいわい見つめるのも良い。前だけ向いて走っていると傲慢な人間になってしまう。見たいものしか見なくなってしまう。でも過去には見たくないものも汚れたものも混じっている。それをなしにはできないんだぜ。
ああしかしツアーが長いと、身体がだめになっていく。物理的には、前だけ向いて走りたい。
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タッチ

2016-11-16 | Weblog
新幹線の中で何をするか?だいたい音楽を聴いて本を読んで外の景色を眺め、そして眠る。この繰り返し。一時期は仕事をしようとパソコンを開いていたのだけど、なんだか貧乏性のような気がしてきて最近はやめている。もうひとつの理由はどうやら僕はキーボードのたたき方(タッチ)がうるさいらしいのだ。うるさいらしいというのは自分では正直気づかないのだけど、何度も人に注意されたから相当うるさいのだろう。”親のかたき”のようにMacBookをたたいている。気が散ってしょうがない。一時期、デザイナーの事務所、矢印の名前で机を借りていたときも、ほんとウォーリーさんもう少し優しくたたいてください、それとも何かあったんですか?と何度も聞かれた。
不器用。この一言につきるのだけど、僕は指先に関して、不機嫌な動きをすることが多い。ジャガイモの皮むきとか、爪切りとか、ボンドで何かをつけるとか、それら一帯全部苦手だ。
なのに無駄に指が長く、小さい頃は「ピアニストになれるね」などとおだてられ、その気になってピアノを練習した時期もあるのだけど、むべなるかな、黒鍵と白鍵を暴力的に殴りつけるだけで音というものが生まれた試しは一度もなかった。いつかリベンジしてみたいのだけど。
だからか、手先が器用な人を見ると、それだけ尊敬してしまう。針の穴に糸を見事に通す瞬間なんてブラボーと声があがる。生まれ変わるなら手先が器用な人間に生まれ変わりたい。ジャングルのテナガザルとかでもいいけど。
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どのルートで

2016-11-11 | Weblog
東京でタクシーに乗ると必ず「どのルートで行かれますか?」と尋ねられる。
おそらく、東京はいくつもの道があるので、もし少しでも遠回りになってしまって、あとで文句を言われたらかなわん、という保険として言ってるのだろうが、こちとら東京の道に詳しくないし、道路事情にだって疎いのだから、プロであるあなたの最良の裁量に任せたいと僕は思うのだけど。
でも「道わかんないんです」等と言おうものなら、「こいつ田舎もんだな。よし遠回りしてやろう」という運転手がいるのかもしれないなーという考えが一瞬頭をよぎり、知ったかぶりをしてしまう。
結果「いまだと、あれですよね、あの、ほら、あのルートが、ね」などとごにょごにょ言うことになる。ああ、面倒だ。
でもやっぱり、おかしいと思う。僕が観客に「次の芝居はどんな演出がいいですかね?」と聞くようなもので。そんな馬鹿なことないでしょ。
一方で、お客さんが望むことを一生懸命調べて、それを創り上げようとする作り手(?)もいなくもないわけで。それがプロフェッショナルだ、みたいな風潮もあったりして。なんだかおかしな時代だなと思う。
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まとまりのない雑文

2016-11-10 | Weblog
またまた(何度となく)放置していたブログを開いてみたらカビが生えていたので、外の風にあてるためにもこうして文章を書いてみる。今月は移動が多いのもあるし、山と山の間の避暑地的時期なので、とりとめもない思考をつらつらとタイピングしてみるのも悪くない。というわけでいつまで続くかわからないけど、ブログを再開してみる。なにもない文章なのでお目汚しだと思っていただければ。

さてこうして改まって何かを書こうと思うけど、別になにも浮かばない。浮かばないので、アメリカ大統領選挙のことでも書いてみる。が、正直、ほとんど興味はない。彼の国のトップが女性になろうが差別主義者になろうが、僕は僕の人生を粛々と執行していくしかなく、そのことで一喜一憂していては身体が持たない。そう言えば大阪に住んでいた頃(とはいっても今も大阪には頻繁にいるけども、大阪に住民票があった頃)維新の人たちが、特にあの悪名高い橋下さんが知事になったころ、僕らの周りの人たちはみな葬式のような顔をしていた。何人かの利益誘導を計る人たち以外(つまりそこには演劇人はひとりもいない)、橋下さんが知事になったら「大阪は終わる」と言っていた。引っ越す、と言ってた人たちもたくさんいた。
しかし実際に引っ越した人は少なくとも僕の周りにはいなかったし、大阪は当たり前だけど「終わってはいない」。橋下さんはどっかに去っていったが、去り際には、あのヒステリック気味に騒いでた人たちも、「少し言い過ぎたかな」などと少し反省していたりしてた。
大阪とアメリカでは規模が違うと言うかもしれないが、なにか共通することはあるような気がしている。
たとえばよっぽどの経済的安定期以外(そんな時代、バブル以外知らないけど)政治家に大衆が求めるものは「マッチョイズム」なんだと思う。良く言えば「力強いリーダー」。悪く言えば「暴力的な人」だ。マッチョイズムというと、男性の特権に思えるかもしれないけど、悲しいかな、今の時代、社会にコミットしようとすれば多くの女性にだってそれは求められる。ヒラリーさんだって例外ではない。でそのときに、より強いマッチョイズムを鼓舞する人に我々は魅了されるのだと思う。アニマルプラネットでも、そういうの見たことある。

僕にとって、10代の頃、アメリカがすべてだった。アメリカからやってくるものが輝いてた。アメリカの音楽、映画、小説、アート(特にニューヨークで生まれるもの)それらを手にすれば自分も輝いて見えると錯覚してた。それはあの星条旗のデザインのようなポップさがあった。軽さと刷新があった。newest is best。それはマッチョイズムとは対極にあるようだ。
僕の世代はベトナム戦争も安保闘争も全部終わって、そこには灰のようなものが積もっていた。それを払って出てきたのはアメリカンドリームという概念だった(それはおそらくメディアと代理店の仕業だけど)。お金があれば手に入る物が続々と輸入されてきた(精神的・物理的両方で)。でそれは完全にコンプレックスになった。10代のその体験は、とても大きくて、払拭するのに20年近くかかった。アメリカのカルチャーは今も好きだけど。

10代の最後の年にひとりでアメリカに実際に行ったこと、それから20年かけて世界中のいろんな国にも実際に行ったこと、そうしてようやくコンプレックスは払拭できた(それもまた錯覚かもしれないけど)。
とはいえ、マッチョイズムに対しては、昔から直観的に「鳥肌が立つ」。おそらく自分の中のアメリカ賛美と、おじいちゃんから聞かされた太平洋戦争の話、が、引き裂かれた自我のように存在するからか。もしくは昔いじめられてた経験があるからか。もしくは演劇界にはびこる男性社会やマッチョな演出家たちをイヤってほど見てきたからか。

今回の選挙の結果をどう判断していいのかはわからないけど、闇雲に葬式みたいな顔はしないでおこうと思う。思うのだけど、ああいう為政者は、そうやって人を暗い気持ちにさせることで人心を掌握する方法を使っているんじゃないかとすら思うのだ。ヒステリックになればなるほど、泥沼に足を取られていっている可能性だってある。結果を結果として、自分の身近な世界がそういう「マッチョイズム」で覆われないようにだけは気をつけようと思う。

(ここだけの話、演劇界にはいまだにそういうの多いんだよなー)
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柴田君との思い出もまたいつか書こう

2016-06-18 | Weblog
演劇集団円「透明な血」、ロミちゃん主演、ヨース毛がチェロの生弾きで、土砂降りの水盤芝居。最後、大量の水が振り注ぐ音が万雷の拍手に聞こえて、それこそ雷に打たれたように拍手をした。ある音が別の音に聞こえる、そういう舞台だった。先週は「murder for two」でキッチュさんこと松尾さんとV6の坂本昌行さんの二人芝居。舞台上にはピアノがあって、それをふたりで交互に(時には連弾で)弾いて、何人もの登場人物を演じ分けて、一見すると幼稚園のお遊戯のような無垢な演劇。その水面下ではものすごいスピードで足が動いてるんだけど、それを感じさせない技術もすごいし、目論見も素晴らしかった。クーツェのみんなの舞台をこうして見に行けるのは(行きたいと思うのは)やっぱりどこか終わってない感じがしているのかもしれない。その半月ほど前は潤さんとりかちゃんが出てる劇団道学先生「丸茂芸能社の落日」も観劇。とても丁寧はストレートプレイで僕が行ったことのない街の僕の知らない人たちが出てくる演劇もしくはそういう作り物なのに、いやそこには僕はいたと思えた。他にもクーツェの時の人たちのそれぞれの活躍(トクマルさんの新譜はまさかの明和電機とのコラボも素晴らしかった)をなんだか遠くから双眼鏡で覗いているような気分で眺めている。
そういえば美術の柴田君がクーツェの舞台美術賞でなんか立派な賞を取った(伊藤熹朔賞)。目出度いかな、3回もお祝いをして2回もスピーチをしてしまった。こうして歴史の1頁に残してくれてありがとう。柴田君との思い出もまたいつか書こう。
それと、ごうた君結婚おめでとう!
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胃下垂も病弱も幻想だった

2016-06-17 | Weblog
10年以上前、あるとき、メディアに、メタボリックという言葉が突然出てきた。それまでそんな言葉なかった。ただの肥満ではなく、メタボリックだ。格好いい感じなのが逆にかっこ悪い響き。暴走族を珍走団と呼ぶことで撲滅しようとしている感じ(とはちょっと違うか)。であるときからメタボリックはメタボと省略され始め、市民権を完全に得た。
そのころ僕は30代になりたてで、まさか将来自分がメタボと呼ばれるものになるなんて思ってもいなかった。20代、かなりの大食漢で、誰かの「木下は食べても太らないね、きっと胃下垂なんだね」という言葉を鵜呑みにして、そうだ俺は胃下垂なんだから食べても大丈夫、そう思い込んでいた。家系的にも太っている人はいないし、どちらかといえば「痩せて病弱に見られる」ことの方が多かった。実際に病弱だった子供時代の名残もあった。
でも胃下垂も病弱も幻想だったのだ。ていうか、自分を鑑みていなかった。鏡を見ることもなかったし、着れなくなっていく服を服の縮みのせいにしていた。けして乾燥機のせいではなかったのだ。自分が大きくなっていってたのだ。
ここ数年は「たばこをやめたせい」という誰に向かって言っている言い訳なのかよくわからない切り札をよく使ってた。いや、もうほんと、わかってたんです。
でこの間仕事が一段落してちょっと調べてみようと思ってそういうところに行った。検査結果は見事に「肥満」を指していた。
3年前の健康診断はまだ「予備軍」だった。いまや完全に「メタボ」だ。予備でも何でもない。これはいかん。11月に知り合いの結婚式がある。そのときまでに昔のスーツを着られるようになろう作戦。というわけで、本腰入れたダイエットをはじめてみることにした・・・。(今のところ一進一退っす)
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誰にでも愛を振りまくことの難しさ

2016-06-16 | Weblog
日々むかつくことがないことはないけど、なんとなく、そういうものをやり過ごす方法も覚えたり、でも自分の存在というか、この機転の利かない鈍感な自分に一番いらっとすることの方が多い。おそらく、腹が立つ、という感情は、「誰かの行動」と「自分の行動」のふたつがセットになって起こるものだ。相手だけでもないし、自分だけでもない。ある種の共同作業として、怒りという感情はできあがる。そう考えれば結婚式のケーキ入刀的なものだと思えば悪くないことなのかも。少なくとも孤独な人間にはできない。(でも)イヤだけど。
いまいち話が通じない人がいる。きっとむこうもこっちにそう思っている。それは基本的な立ち位置の違いが大きいし、それに伴い、聴き方と話し方にバイアスがかかっていることが多い。立ち位置をなくすこと、自分事にする、根気よく、相手に愛を持って。これらがそろえば聖人君子なんだけど。誰にでも愛を振りまくことの難しさ。
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