今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下の2014年度の活動のことなど。もろもろ。

劇場の声

2016-05-25 | Weblog
真夜中に執筆。冷蔵庫で氷が勝手に作られるのだけど、そのできあがる音に(がらがらってやつに)びくっとする。
本来は大阪のシアターブラバのお別れ会に駆けつけたっかたのだけど。ゆかちゃんからの報告でロビーではクーツェの「エブリシングイズシンフォニー」が流れていたそうで。
最初はTPDの「1×0」で、その次が「麦ふみクーツェ」で、「ハイキュー!!」は初演と再演で二回。もっともっとシアターブラバで演劇を作りたかった。何度も何度も通ううちにいろんな声が聞こえてくる、風景が見えてくる。劇場はそれ自体が大きな樹のようで、まるで彫刻家がそこに秘められたものを掘り出すように僕もシアターブラバでしか作れないものをもっと作りたかった。それが叶わないのは本当に残念だ。
今までにいくつもの劇場で公演を打ってきたか覚えていないけど、名は体を現す、というか、劇場自体がブラボーという声で一番包まれているのは紛れもなくシアターブラバだと思う。それと大阪城の麓というのが良い。なんていうか城下町の小屋って感じがして。そういえば楽屋の外の猫たちはどうなっちゃうのだろうか。
最後の日は客席には猫がたくさんいて、彼らのためのショーが行われているような気がする。
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原作もの

2016-05-24 | Weblog
ハイキュー!!もワンピースも、クーツェも友達もやぶのなかも、原作ものという意味ではどれも同じだ。この世界になかったものを作家が生み出した。それをORIGINALと呼ぶ。僕はそのORIGINALを使わさせてもらって、舞台のORIGINALにしないといけない。この作業は原作が漫画でも小説でも戯曲で詩でも絵画でも、基本的には大きな道筋は変わらない。まずORIGINALのどこが好きなのか、を見極める。それからゆっくりとその好きな部分を崩さないように隣のテーブルに移動する。プリンのようなものを手ですくって運んでいるイメージだ。これが一番重要だ。ここで失敗するとこのあとなにをやっても上手くいかない。そして移動させたあとは、丁寧にかつ大胆に舞台用の形に成形する。舞台だからこそ可能なこと、そして関わってくれたキャストスタッフだからこそ面白いもの、を発見し、演出する。
作家の人がゼロから生み出したものを、舞台では(もしかしたら映画とかも一緒かもね)たくさんの人がひっぱったりちぎったり色を塗ったりする、そのときに、みんなが勝手にやってしまうとそれこそ「ひどいもの」になってしまう。そこを指揮するのが演出家の仕事の一つだ。そういう意味では僕がクリエイトすることよりも、みんなに楽しく自由に遊んでもらうことが重要で、そういう公園の管理者の役なのかもしれない。
そして終わった後に、キャストスタッフが、ORIGINALを好きになっていれば成功だ。それも僕が全然予想もしていなかった部分を好きになっていればなお良い。
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世界ふれあい街歩き

2016-05-20 | Weblog
「世界ふれあい街歩き」という番組を知っていますか?
NHKで長い間やっている(とはいえ最近はBSに移ってしまった)旅番組だ。まずこの旅番組のユニークなところは、一切有名な場所に行かないこと。るるぶや地球の歩き方には一切載らない、誰も知らない街の、誰も知らない路地や市場、団地、丘、川沿い、公園、などへとカメラは進む。そこには生活者しかいない。なんでもない風景だ。そこをじっくりと進む。そしてレポーターもガイドもいない。ただステディカムで撮影した風景が延々と続くのだ。「世界ふれあい街歩き」というタイトル通り、カメラマンが街を歩いている、その風景が延々と続くのだ。そこに唯一の声としてナレーターが入ってくる。そのナレーターは旅人役だ。目の前に現れる「普通の風景」を、ただ解説する。心の中の声のように。それがまた面白いのだ。途中出会った人と会話をすることもある。(もちろん実際に会話しているのは現地の撮影班なんだけど)あたかもナレーターの人が旅をして会話をしているようになる。モノローグとダイアローグの連続。それってまさに一人旅。で、そのナレーターをしているのが、錚々たる俳優陣なのだ。浅野和之、市原悦子、西村雅彦、萩原聖人、林隆三、薬師丸ひろ子、矢崎滋、八嶋智人、貫地谷しほり、戸田恵子、富田靖子、永作博美、中嶋朋子などなど。毎回、今日の声は誰だろう、と期待する。人それぞれのアプローチがあって勉強にもなる。おそらく俳優さんがやることで成功している面はあると思う。まるで自分(視聴者が)ひとりで歩いているような錯覚に陥るのはその巧みな技によるところが大きいと思う。

正直、追っている、というほど見ている訳ではないのだけど、暇なときはネットで転がっているものをぼんやり眺める。一人旅がしたいなーと思いながら、その欲望を満たす。たまに素人が作った巧妙に似せた「世界ふれあい街歩き」がその動画に紛れているときがあって、それもまたそれで面白い。おそらく熱狂的なファンがいるのだろう。

僕にとって最近の喜びは「世界ふれあい街歩き」か「ウォーキングデッド」を見ることだ。歩いてるのが旅人か死体か、の違いだけで本質は似ているのかもしれない。
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トイレットペーパー

2016-05-18 | Weblog
急にトイレの中で、トイレットペーパーがこの形になったのはいつからなのだろう、と思い、さくっとネットで調べたら

(1) 1879年、イギリスでロールタイプのミシン目入りトイレットペーパーが登場するが、一般には受け入れられなかった。
(2) 1877年、アメリカのAlbany Perforated Wrapping(A.P.W)ペーパーカンパニーが薬屋で販売した。(薬用トイレットペーパー)
(3) 1879年(1880年)、スコット・ペーパー社が製紙工場から大きなロール状のペーパーを購入し、カスタム設計して小さいロールのトイレットペーパーを考えた。

といろいろな説があるそうで、まあでもだいたい150年ほど前からだということ。それまではこういう形ではなかったってことだ。150年前。わりと最近だと言っていいのか、随分むかしなのか、全然わからない。
トイレットペーパーはこの(ロール状の)形からなにかべつのものに今後変化するのだろうか?変化してもおかしくはないけど、変化するためにはなにか大きな革命がいりそうだ。
ブラックスワンのタレブさんが言ってたけど、「実は今日の世界は過去の人々が生きた世界と大差なく、彼らが思い描いた、または思い描きたかった未来よりも、ずっと彼らが生きてる時代に近い」。
確かに、そうだよね。今目の前にあるもののほとんどは(コーヒーカップ、椅子、時計、本、電気スタンドなど)は、トイレットペーパーも含めて、それほど大きな進化もしないで今までもこれからも未来へと続いていくのだと思う。イノベーションと言うけれど、別にちょっとした不便はそれもまたそれとして道具のたしなみにくらいに思っていいのだろうな。
同時に何度も言うけど、技術というのは「それを使っていることを意識させないものこそが最高」である。これ見よがしに新しいモノはおそらくすぐに消えてなくなるのだと思う。
演劇の世界だって、同じことは言えるかもしれない。
何の話がしたかったかわからなくなってけど、トイレットペーパーって良くできてるなーということだ。それを使っていることを意識させないことの最たる例だね。
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生で

2016-05-17 | Weblog
以下は随分前に書いてそのまま放置していた文章。なので時間がおかしいけど掲載しておく。

・・・
知り合いの紹介で、タップとバンド(ギターデュオとパーカッション)のセッションを見に行った。恵比寿と渋谷の間にあるこじゃれたカフェの奥に小さなステージがあって僕らはビールを(外国のビールだった)飲みながらそのライブを楽しんだ。音楽を演奏している人もタップの人も、瞬間瞬間に現れる音を子供のように楽しみ驚きながら作り出していた。そこには青空のような純粋さがあって、見ているこっちもニコニコしてしまう。野暮ったい空間だったけど、音楽とその演奏者はそういうものとは関係なく瑞々しくそしてプリミティブだった。
大阪は本町 HOPKENへ、山口君の年賀状展での、宮内優里さんのライブに行った。昨年の「やぶのなか」で音楽を作ってもらった、それ以来の再会だった。宮内さんはライブ中、ずっと下を向いている。まるでひよこのオスメスを選り分けているような格好だ。僕らは宮内さんの部屋に勝手に上がり込んで、そこで音をつむぐ(まるで鶴の恩返しのあのシーンのよう)彼を目撃してしまう。音楽ってこうやって生まれているんだ、と、なんだか不思議な高揚感が持ち上がる。
年末、風邪で倒れて寝ていたのだけど、カウントダウンジャパンに誘われふらふらと行った。どのアーティストも熱量が半端なく(水カン、ウルフルズ、スペアザ、DJダイノジ、バンプなど)、音のシャワーで熱は下がった。特にエレカシの宮本さんの歌声は、とてもパーソナルで毛布のように優しかった。生声ってすげえって思った。
今年は音楽のライブになるべく行きたいと思っている(ちょっとした抱負)。

・・・
と書いたのが1月で、あれ以来まったく行けていない。新年の抱負って絶対に叶わない(なんとかの法則)。だとしても、生で、音楽を聴くのって、体のために必要だと思う。もちろんどんなものでもってわけではないけど。

・・・
と書いたあとに思い出したけど、マドンナの伝説の2時間押しの埼玉スーパーアリーナーに行ってた。いろいろとすごかった。全部が全部ひとつになっている演出はなんだか大河ドラマのようだった。それに歴史上の人物感あるよね、マドンナって。つい拝んじゃいました。
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いたみ

2016-05-15 | Weblog
ブログの更新がきまぐれになりすぎている。少し落ち着いたのでまたきまぐれではあるけど書き始めてみよう。頭の整理というか日記的なものとして。
「Honganji」からの東京ワンピースタワー第2弾、そして「ハイキュー!!」の再演、からの静岡ストレンジシードというのがこの半年の大まかな行事だったのだけど、その間に二回病院に行った。ひとつは「Honganji」の名古屋中に、指のささくれから黴菌が入って腫れてきて、で、二回目は静岡にいる最中に背中に痛みを感じて、これは粉瘤という病気、どっちもすぐに治ったのだけど(原因はどっちも疲れのせいだって)、なかなかに痛い施術を受けた。生活していて「痛い」という感覚はあまり受けない。病院で注射麻酔を打ってもらったり、指先に針を刺されたり、そういう病んでいる中で痛みを感じるとき、逆説的に「生きてる」と感じる。確かに「痛い」とか「悲しい」とか「苦しい」といったネガティブと思われている状態のときこそ、なにか得も言われぬ「生」を感じるときが多い。それで言うと人は死ぬ瞬間にこそ一番生きていることになるのかもしれない。
じゃあ生きてるということを痛烈に感じさせる表現は、痛み、を感じさせるモノなのかもしれない。
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Honganji

2016-01-09 | Weblog
「ハイキュー!!」の千秋楽の翌日から「Honganji」の稽古は始まった。なんでこういう舞台の仕事が僕に来たのかはわからないけど、(僕の座右の銘は「来るものは拒まず去るものは追わず」)、とても豪勢なキャストが集まった。おせち料理のようだ。絢爛で華美、いわゆる芸能界の空気が流れているが、実際演劇の稽古場はどんな場合もさして変わらない。地味で人間臭く、そして見た目よりも中身が勝負になる。人を騙す職業の人は自分を騙してはいけない(これも座右の銘。僕は座右の銘が多いのだ)。
ただまあ今までの僕に課せられていたタイプの演劇ではないので(毎回そうではあるのだけど)、毎日試行錯誤の連続。
2016年の新春第一弾。とにかく賑々しく楽しく威勢のいい舞台にしたいと思う。
ぜひ、福袋感覚で見に来てください。値段以上ですよ。

http://www.stars-honganji.jp
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秋の続き

2016-01-05 | Weblog
「ハイキュー!!」を舞台にするって、最初聞いたときは、うーん、どうなんだろう?と自分自身もちょっと思った。実際、というか、案の定というか、舞台化が発表されるや、いろんなところで賛否両論、いやたぶん否定的な意見の方が多かったんじゃないかな、が巻き起こった。正直、自分としては、プレッシャーがなかった訳じゃない。でもタイミング(「麦ふみクーツェ」というここ数年取り組んでいた大きな舞台が終わったあとだった、同じくジャンプでの人気漫画の「ワンピース」を舞台にしたあとだった、なにかまったく今までやったことのないものをしたかった、などなどのタイミング)が良かったのもあって、あまり「肩に力を入れずに」集中できた。プロデューサーの人たちやスタッフサイドも、かなり僕の好きなようにスタッフィング(理想のメンバーをそろえてもらった)させてもらい、ノイズも入らないようにしてくれた。原作ものってやはり版権のことがあるから、どんな場合でもまずそこがクリアにならないとなかなかうまくいかない。その点、「ハイキュー!!」は原作の古舘さんも、集英社の担当のHさんも、そしてネルケさんも、「きっと大丈夫ですよ(やってやりましょう)」という何よりも嬉しい御旗を掲げて邁進してくれた。
おかげで相当のびのびと演出できたし、稽古場はずっと楽しかった。若い役者たちが部活のようにわいわいしていて、男ばっかってのも気楽だった理由の一つかもしれない。まあ、げんこつの一つや二つ飛び出ても怒られないだろうという気楽さというか(いや、そんなことしないですけど)。
主演の須賀健太&木村達成との出会いも大きかった。ふたりはほんとにハイキューの日向と影山で(このふたりもオーディションを受けに来てくれた)、そのでこぼこさ、演劇に対する姿勢、どっちが正しいとかじゃなく、ああ、こうして高めあっていくことのおもしろさ、それには感動すらしたし、もしも可能なら、二人も含めて、出演者全員のこれからと一緒にこの演劇も成長していけたらいいなあと思っている。
僕が言うのもおこがましいけど、この舞台「ハイキュー!!」はいろんな意味でチャレンジ精神にあふれていると思う。絶対にあきらめないし、絶対に分裂しない。そして「ハイキュー!!」という新しい演劇のスタイルを模索する集団なんです、彼らは。そういう意味では新しい劇団のようでもあるのだ。
まだ見られていない人、再演も決まりましたので、ぜひ。→http://www.engeki-haikyu.com

(たぶん)明日は今取り組んでいる、そしてもうすぐ本番の「Honganji」の宣伝も兼ねた話を書きます。
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夏の終わりから秋から冬にかけて

2016-01-04 | Weblog
ブログの中では去年の夏から先が止まってしまっている。備忘録として演出した作品のことを書いておく。

「ヘンゼルとグレーテル」。関西二期会との二回目の仕事。オペラ、オペラ、オペラ! 今回のヘングレはドイツオペラで、誰もが知ってるお菓子の魔女の話。貧しい兄妹が母親に怒られて森の中に食べ物を探しに行くと、お菓子の家にたどり着く(それまでに眠りの精と露の精も出てきて道に迷う)。お腹がすいたふたりはお菓子の家を食べ始めると、そこに魔女が現れて・・・。昨年来日してたティムバートン展の中で、バートンの若い頃に作った映像作品の中でもこのお菓子の家をモチーフにしてたのを見たばかり(もちろんグロテスクでユーモアのあるものだった)。そのくらい、ありとあらゆるところでコラージュ、再生、反復されているグリム童話だ。ファンシーだけどバイオレンス、楽しいけど残酷。ドイツの森の中の暗鬱とした雰囲気が見事に表現されている。そういえば昔「7人のこびと」を演劇化したことあるけど、あれに似たテイストになった。で、たくさんの子供たちも参加させて、ピアノ一本の歌もので見せる。舞台セットには無数の枕を用意して、その中でゴロゴロ転げ回りながら歌ってもらった。オペラの良さは、うーん、まだわからない。わからないから、何度もやってみたい。あくまでも楽器の一つとしてのオペラ歌手、ではない何かを見つけたい。
「多摩1キロフェス2015」。3年目で(おそらくいったんこれで終わるのだけど)随分とがんばれるところまで来たなーと感慨深い。多くのアーティスト、スタッフ、そして参加者(そこでは観客もまた出演者だったりする)のみなさんのおかげだ。今年は森山さん・ひびのさん・川瀬さんのLIVE BONE@水上の千年前のような空間(そこだけ切り取られて)、ままごとの初日の奇跡の雨、クーツェ楽団の街との親和性、スイッチ総研はテーマパークだった、おおはたさん栗コーダーさんは青空がやっぱ似合ったし、おみそはんのアイスは最高で、子供距人は名作が誕生し、環ROY×gonzoのときの普通に警備員に止められてるあの瞬間、鳥公園の公園と歌、MMが百貨店の中で起こしたわくわく、言い出したらきりがないけど、どれも見たことない、それらはどこからかやってきてどこかへ去っていくフェスティバル。まるで嵐のように。他にもたくさん言いたいことはあるし、特にかるがも隊のみんなと出会えたこととか、その感謝とか。夢のような二日間でした。で最後はやっぱりDE DEさんとホナガさんに任せて良かったダンスパーティ。またやりたいなー。

明日はハイパープロジェクション演劇「ハイキュー!!」のことを書く(予定)。
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2015下半期の備忘録

2016-01-03 | Weblog
これって誰が買うの?シリーズのひとつに「福袋」がある(他にはバイアグラとかタイヤのホイールとか)。もちろん「福袋」を買っている行列もニュースで見たことあるし、それなりに需要があるんだろうなとは思うけど、まあはっきり言って「馬鹿じゃないか」と思っていた。だって中身もわからずに買うなんて、いらないものが入ってたり、ましてやサイズの違うものとか、持ってるのと同じものとか入ってる場合もあるだろう。そんなのお金出して買うなんてどうかしてる。
しかし2年ほど前に、実家に帰ったときに姪っ子やらおじいちゃんおばあちゃんやらと正月のショッピングモールに行って、なぜか「福袋」を買うことになった。
まあみんなでわけましょう、的なノリだったので、僕も参加した。これが案外、楽しかった。お金は出しているのだけど、プレゼント交換的な、そういうわくわくした気持ちになった。なんか正月くらいいいじゃないか。欲しいものが入ってなかろうが、必要のない買い物になろうが、これは余興なのだ。そういうお金の金額以外の喜びとか楽しみとかが、そこにはあるんだなあと思った。
それからというもの「福袋」を買い求める人々を見ても、共感できるようになった。
でも知人にそう言うと「1万円の福袋買うってことはそれ相応のものが入ってるからで、値段以下だったらめっちゃ腹立つ」と言われた。そういう福袋バイヤーもいるってことですね。

大人になるということは、いろいろな理解できない物事でもいつか理解できるようになるということなんだろうな。もしくは必要性への目覚め。(苦い味のものが食べられるようになるのと同じで)(いつかバイアグラもタイヤのホイールも必要になるのだろうか)

タイトルの「2015下半期の備忘録」は明日にでもアップする。
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福袋を買う人の話

2016-01-02 | Weblog
去年の今日も、同じようなことを言っていた。なので心の中にとどめておく。
(ダイエットとか学びの時間とか)
2015年について振り返る。たぶん仕事もプライベートも充実していたと思う。今思えば長い厄年を過ぎたのかもしれない。
同時にいろんなことに「感傷的にならないように」している自分もいるような気がする。
「感傷的にならない」ことで、ブレーキをかけている。なんのためのブレーキなのか?
わからない。

集団芸、とか、チームワーク、とかに興味を持ち始めたのは30代のはじめだ。それまでも劇団はやっていたけど、どこか頭の片隅には「自分の作品のため」というのがあったと思う。でも30代になって、周りと自分を見渡したときに、自分にできるのは「僕たちの作品」を作ることなんじゃないかと思った。
実際にチームのポテンシャルを最大限発揮できたときは、ひとりでなにかを成したときの何十倍も嬉しい。みんなでハイタッチをすることで喜びは倍増する。
で、そのときに思ったのは、すごい選手ばかりいるチームよりも、どこか「だめな人が揃った」チームの方がよい成果を残せることが多いということだ。
(まるでハイキュー!!だ)
どうしてそうなるのか?
それは・・・よくわからないけど、多分、引っ張り上げる力、が僕らのような仕事においては割と重要な要素になっているんじゃないだろうか?引っ張り上げる力がお互いを高め合う結果になる。(まるで合気道だ)

ただチームでやる、ということはいろいろな他人の人生を引き受けたり関わったり邪魔したり、好むと好まざるとにかかわらず、ひとりではないゆえの様々なドラマを生み出すことになる。それは作品を作ることとは関係ないレベルででも起こるし、それ自体が作品になったりもする。だから全部を引き受ける覚悟がいると思っている。いいことだけを選ぶなんてできないのだ。

その時に感傷的にならざるえないことはたくさん出てくる。手からこぼれ落ちる砂を眺めるような呆然とした気分や、身を引き裂かれるような絶望とか。その重さは様々だ。それも含めて楽しいと言える自分がいた。

で、10年以上そういう場所にいて、そろそろまた別の方法も試したいと思い始めているのかもしれない。それが「感傷的にならない」という気持ちを生んでいるのかもしれない。(そもそもが人よりは随分と冷血な人間だということは自覚した上で)

ともかく、2016年は自分なりのチームプレイを模索し始めたいなあと思う。個人としての作品も大事だけど。実際、自分のカンパニー(sundayとオリジナルテンポ)は今年予定はない。来年とか再来年に何をするのか、どういうチャレンジができるのか考える1年にしないとな。「誰かに求められてする仕事」も大事だけど、「誰に頼まれもせずに勝手にやる」こともとても大事だ。そして「結果を残すこと」も大事だけど、「結果にならないこと」にもたくさんの大事なことが詰まっているのだ。

タイトルの「福袋を買う人の話」はまた今度。

そして、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
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今年の夏を振り返るシリーズ

2015-10-05 | Weblog
キューバと日本は国交が結ばれていないから、直接はいることはできない。赤羽橋のキューバ大使館でツーリストカードをゲットして、カナダの航空会社でトロントを経由してハバナに入る。
実際にハバナは、今まで行ったどの街とも違っていた。建物はぼろぼろで、まるで戦後の復興中といった様子だけど、いたるところにピカピカのアメ車が走っていて人々は陽気に踊っている。貧しいのだろうけど、乞食や物乞い、子供たちのお土産売りもぽん引きもいない。ホテルはお湯もなかなか出ないし、インターネットはまったくアクセスできない(これに関してはあとでわかるのだけど、ものすごい高いのだ)。インフラということで言えば発展途上国なのだろうけど、アジアのそれとは全く違って、国民性として「これでずっときたのだからこれでいいでしょ」ていう大らかな達観、もしくは矜持があるような気がする。それは大国には屈しないというゲバラ的スピリットなのかもしれない。一回の旅行ではそこまではわからない。ともかくハバナを毎日のように散歩して、ビールとモヒートを交互に飲み、音楽を聴いたり踊ったりしたりして過ごした。この形の楽園はもしかしたら消えていってしまうのかもしれない。
楽しい思い出だけではない。おそらく楽園の熱にあたって、ボーとしてたのだろう。ちょっとした詐欺にあった。やはり当たり前だけどそういう人はいるのだ。カップルで声をかけてきて、ライブに誘われ、のこのこついていったらぼったくりの店でおそらく店ぐるみなんだろう、1杯2000円くらいのモヒートを飲まされた(それ自体はたいした額じゃないんだけど・・)。ライブもやってたし、それはそれで素晴らしい演奏だったのだけど、すぐに席を立って外に飛び出した。自分のガードが下がっていたことを激しく悔やんだ。いい人そうに感じたことと、実際はそうでなかったことのギャップにしばらくぼんやり考えたが、もう一度ガードをあげるための良い勉強になった。
そんなこともありつつだけど、ハバナはうろうろするにはちょうど良い大きさで、裏通りなんかに入っても自分がどこにいるかよくわかる。いしいさんが言ってたように、裏通りなんかで座っているとクラクションのリズムに適当な相づちのような歌が割り込んできて、不思議なグルーヴができあがり、そして霧のように消えていく。そのあとには犬と猫がいるだけだ。なにかそうやって今思い出して見ると架空の街感が半端なく本当に行ってきたのかどうか怪しくなってきた。足下の砂のざらっとした感触だけは残っている。
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今年の夏を振り返るシリーズ

2015-10-04 | Weblog
今年の夏は振り返るほど何かがあったわけではないけど、それでもそれなりに遊んだし不思議なこともいくつかあったし、出会いとか別れとかもあった。

よく、忙しいんでしょ、と言われる。僕としては忙しいアピールはしていないつもりなので(していたら申し訳ない)、きっとなにか得体の知れない「忙しいおじさん」を背中に背負っているのだと思う。「忙しいおじさん」は当人には見えないし、重さもないから気づかない。けど自分以外のみんなには見えていて、それで忙しそうですね、と言われるのだと思う。「忙しいおじさん」は、実際に忙しいかどうかとは全く関係なく、呪いのように背中に乗ってくるのだ。まるでスタンドのようだ。で、そのスタンドを引っぺがすためには、1,実際に忙しくする。2.バカンスに出かける。3.ぼんやりした人間になる。などなどいろいろ試しているが、実際に功を奏しているかどうかはわからない。

とりあえず2番のバカンスというか、休みをがっつりとって今年はキューバに行ってきた。今まで行ったことのない場所で、どことも違う国に行ってみたかった。
アメリカと国交回復する前にその姿を見るべきだよ、と作家のいしいしんじさんに「麦ふみクーツェ」の打ち上げでオススメされたのもある。確かに今やマクドナルドもスターバックスもない国なんてキューバと北朝鮮くらいなんじゃないか。いしいさんはさらに付け加えて「あの国は町中で突然音楽がはじまる。工事をしている人たちがトンカチとドリルで演奏を始める。まさにクーツェの世界なんだ」と。僕にとってクーツェではじまった長い旅の終わりをキューバにしてみるのはとても良いような気がしたし、そもそも南の島が呼んでいた。
(→続く)
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土と水、手と足、熊谷さんと高木さん

2015-08-13 | Weblog
1ヶ月以上前だけど、渋谷のWWWで行われた熊谷和徳×高木正勝のライブがあまりにもすばらしくて、文章にしたいと思いながらも、なかなか書けなかった。そこで起こったことは一回性のもので、言葉にすることでその一回性が汚されるような気がする。そうはいっても、書きたいという欲求を満たすことになんの抵抗を感じる必要があるのだろうかと思ったり。

最初、熊谷さんが暗い舞台上に現れ、ぽんとタップ板の上に飛び乗る。ぽんとふわりと飛んだように見えたけど、着地の瞬間、スピーカーからは爆音が出た。それは人独りの足音とは思えない、なにか遠い空高くから落ちてきた、隕石の落下、大いなる夜明け、人類の目覚め、そういう衝撃が空間に轟き、それが開演の合図となった。
高木さんはピアノだけに専念。映像も違う人。音楽を作る人、映像を作る人、アートを作る人、いろいろな作る人が高木さんの中にはいるけど、最近ではおそらく山の中での生活も含めて生活を作る人という側面もあるが、今回は、「そこにあるものを音楽のような何かに変換して見せる人」としての高木さんがいた。
おそらく即興性の高さがそうなっているのだと思うけど、ふたりはお互いに泥遊びをするようにセッションを始めた。

ともかく衝撃だったのは、2曲目だったと思うけど、ピアノがぐにゃぐにゃ溶け出したことだ。最初手品かと思った。高木さんの手の下には黒と白の波が現れ、それをすくいとるように、指を動かしていた。水面と指の境はすぐになくなった。もちろん音もピアノの音には聞こえなかった。こんな楽器僕は知らない。
その隣では、生まれたばかりの水を、土に撒くように、熊谷さんの呪術的な足踏みが続いた。それは踊りでも演奏でもなく、まるで農耕のようだった。生きるための仕事。
そして曲が進むにつれ、高木さんの足が踊りだし、熊谷さんの手が歌いだす。それは農耕仕事をしている人たちが熱中する中で見つけた余技というか、ある種の労働歌だ。自然を喜び、共同で生活するみなを鼓舞する。嬉しい、て気持ちが充満する。タップとピアノ。そんなことは途中で一切消えてしまう。ふたりの自然から生まれた四肢を持つ生物が、持てるエネルギーと感謝を神に捧げているだけの時間になる。僕たち観客はそこで一緒になる。ほんとの一体感とはこういう呪術的な(マジカルな)ことを言うのだ。静かに森の中で繰り広げられるお祭りのように。
ライブの曲調展開としては河の流れを進み、僕らはボートにのって、最後には海に出る。そこにはカモメが飛んでいて、僕らの旅を祝福している。
そこには実は物語もしっかりあったのだ。僕らはあまりのエネルギーに即興性を強く感じすぎたけど、二人は決してどこか遠い場所で勝手なことをしていたわけではなく、いままさに、生まれてきているもの、でもそれは言葉にならないものを、僕たちの前に差し出してくれてた。まるで巫女のように。

あ、あの時生まれた水は渋谷の地下を流れる川だったのかもしれない。そして仙台とか、京都の方にまでたどり着いたのだ。
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雑文2

2015-08-11 | Weblog
演劇を道具にしていいのかどうか、は悩むところである
真正面からそのことを宣言することに抵抗がないわけではない
道具というのは「自分の都合」でどっちにもいくし
もしくは「扱いをミスると」大きな事故を招くから

むかし、演劇を始めた頃、
音楽はいいなあ、世界中の人と言葉を使わなくても交わることができて
スポーツはいいなあ、ルールさえわかれば誰とでも遊ぶことができて
ダンスはいいなあ、とにかく直感的に感動できて
なんて思ってたけど、いや待てよ、と、演劇だって十分にその可能性はあるんじゃないか
たとえば知らない人同士が
目を交わす
暑いですねーなんて言ってみる
気まずい間が流れた後に、結果1年後にその人と再び偶然会ったりして
そういう演劇的なこと
もしくはもっと単純に
空を眺めて雲の形を喜ぶように
子供達の真似っこゲームのように
演技をしているあらゆる場面
旅に出た時のひとりの緊張感とか・・・・きりがないくらい

あたりまえの日常に一番おおく潜んでいるのが演劇だ
それを道具にしないのはもったいない
演劇って言葉の持つ恥ずかしさは結局のところ
誰もうまく道具化できていないからだ、と思ったりした
もう20年くらい前の話だ

それにはもちろん多くの先人たちが「演劇は道具だ!」と言ってくれたからで、僕なんかはそのレールを歩ませてもらっているだけ

できるうるなら演劇を道具として、過ちを犯さずに、おごらずに
丁寧に扱いながら、真摯に
いろんな人と出会いコミュニケーションをとり、
短い人生を少しでも豊かなモノにできると良い
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