はにゃんの『ふとした永遠』(up; 2004年05月29日08時45分45秒)を引用してみる。
「ふと思った。
僕は、『永遠を願っている自分』を書き表しているだけで
『永遠』を表現することは
全く出来ていないのだと。」
ここで強い調子で繰り返されている「永遠」とは、「僕」が願いはするものの、「表現」できない何かのことだ。これだけの定義なら、「永遠」のかわりに愛でもカノジョでも、芋でも蛸でも入ってしまいそうだが、作者はそれ以上には語らず、文を閉じている。
特殊なジャーゴンでもない、19990年代に急に流行りだした言葉でもないんだから、「永遠」の定義なんて必要ないと考えているんだろう。それでも単語の意味がわかりにくい(頭の悪い)人がいれば、辞書を引いてくれ。
言葉の意味をゴチャゴチャと説明していないこの文は、見かけとは反対に意味過剰だ。もっと正確にいえば、既成された一意の厳格な意味が前面に飛び出し、文の空間をおおいつくし、はにゃんの書くという行為はそこに完全に寄りかかってしまっている。「永遠」が、「ジュースの味」みたいにさまざまな意味と色合いをもっているなら、『ふとした永遠』という文自体が存立基盤をうしなってしまうんだ。
信号の青は「進め」、赤は「止まれ」、黄色は「注意しろ」を、厳格に一意的に意味する。横断歩道や地下鉄、出口、禁煙を示すマークを例にとるまでもなく、この世界は過剰な意味に覆われている。世界の中で円滑な社会生活を営みたいなら、、むしろおれたちは、既成された過剰な意味を意識しないで過ごそうとする。はにゃんの文が既成の意味にあふれ、寄りかかっているとしても、意識する読み手はあまり多くはないだろう。そして、この文章構成の態度は、また読者の態度は、きわめて合理的で近代的だと付け加えておく。
問題は、こうした文のタイプを採用している作者自身にあるんじゃないか。彼こそ既成の過剰な意味に囚われている。そして、「『永遠』を表現することは/全く出来ていないのだ」と嘆いてみせても、打開するために何か行為を行うわけでもなく、ただそれを指摘するだけで、文を閉じてしまう。
おれは作者を批判しているんじゃない。
読んでいるだけだ、聞いているだけだ。
格言を、いくつか取り上げてみます。
1.虎穴に入らずんば虎子を得ず。
この格言の特徴のひとつは、虎のハウジングについての知識を前提にしていることだ。虎って木の上や動物園にしか住んでいないと思っているものには、この格言は無力だ。
<虎=ほら穴に住む>という一意的な、厳格な意味に寄りかからなければ、言葉は存立基盤を失ってしまう。
2.良薬は口に苦し。
この格言も、「良薬って、マツ○ヨで売ってる目薬かよ?」って者には理解できないし、苦い/甘いの違いぐらいは知っておく必要がある。
3.目くそ鼻くそを笑う。
あんまり馬鹿な解説をつづけるつもりはないが、ここでひとりの大道芸人を想像してみたい。ひとびとの前で、彼は格言を読み上げる。言葉を口にするたび、ポンポンと手を打ち鳴らし、体をくるっと回転させたりする。もちろん、強調したい部分でそうするのだ。
3の場合、強調は「目くそ」と「鼻くそ」の二箇所の置かれるだろうね。ひとだかりに阻まれて言葉が聞き取りにくかった者でも、「目くそ!」、「鼻くそ!」、あとゴニャゴニャだけが聞こえれば、なんとか意味は勝手に形成できなくもない。「笑う」が聞こえなかったとしても、すくなくとも、「同じだ」ていどの言葉を想像できればいい。
1では、「虎穴!」と「虎子!」だね。「虎の穴に虎の子」、ここまで言葉のリストラを実行しても、なんとか意味はわからないでもない。では2なら、強調する場所はどこ? 「薬」、「口」と考える人もいるんだろうが、おれは「良」と「苦い」の二つだと思う。「良いは苦い」としても、格言はあまり変わらない。
こうして、ごくごく短い格言は二箇所の強調をもっているのが普通だし、そのほかのものは二拍子のバリエーションと考えられるものが多い。
同一性(○とは△のことだ)、比較(○より△が優れている)、還元(○とは△のことでしかない)などを文章構成の骨格にしているためだ。
では、はにゃんの『ふとした永遠』に戻ってみよう。
「ふと思った。/僕は、『永遠を願っている自分』を書き表しているだけで/『永遠』を表現することは/全く出来ていないのだと。」
ここでは永遠に刹那(?)が対置されている。そして、この2箇所で大道芸人はポンポンと手を打つはずだ。
以上でおれは、はにゃんの文にどうして古さを感じるときがあるのか、はにゃんの甲殻とは何で、それとどう戦えばいいか、何をすればいいのか、について考えてみた。ついでに、彼の文が格言に近づくシーンを切り取ったかもしれない。
『ふとした永遠』(はにゃん作)
はにゃんからの第一報
はにゃんからの第二報
はにゃんとの対話(3)
はにゃんとの対話(2)
はにゃんとの対話(1)
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「ふと思った。
僕は、『永遠を願っている自分』を書き表しているだけで
『永遠』を表現することは
全く出来ていないのだと。」
ここで強い調子で繰り返されている「永遠」とは、「僕」が願いはするものの、「表現」できない何かのことだ。これだけの定義なら、「永遠」のかわりに愛でもカノジョでも、芋でも蛸でも入ってしまいそうだが、作者はそれ以上には語らず、文を閉じている。
特殊なジャーゴンでもない、19990年代に急に流行りだした言葉でもないんだから、「永遠」の定義なんて必要ないと考えているんだろう。それでも単語の意味がわかりにくい(頭の悪い)人がいれば、辞書を引いてくれ。
言葉の意味をゴチャゴチャと説明していないこの文は、見かけとは反対に意味過剰だ。もっと正確にいえば、既成された一意の厳格な意味が前面に飛び出し、文の空間をおおいつくし、はにゃんの書くという行為はそこに完全に寄りかかってしまっている。「永遠」が、「ジュースの味」みたいにさまざまな意味と色合いをもっているなら、『ふとした永遠』という文自体が存立基盤をうしなってしまうんだ。
信号の青は「進め」、赤は「止まれ」、黄色は「注意しろ」を、厳格に一意的に意味する。横断歩道や地下鉄、出口、禁煙を示すマークを例にとるまでもなく、この世界は過剰な意味に覆われている。世界の中で円滑な社会生活を営みたいなら、、むしろおれたちは、既成された過剰な意味を意識しないで過ごそうとする。はにゃんの文が既成の意味にあふれ、寄りかかっているとしても、意識する読み手はあまり多くはないだろう。そして、この文章構成の態度は、また読者の態度は、きわめて合理的で近代的だと付け加えておく。
問題は、こうした文のタイプを採用している作者自身にあるんじゃないか。彼こそ既成の過剰な意味に囚われている。そして、「『永遠』を表現することは/全く出来ていないのだ」と嘆いてみせても、打開するために何か行為を行うわけでもなく、ただそれを指摘するだけで、文を閉じてしまう。
おれは作者を批判しているんじゃない。
読んでいるだけだ、聞いているだけだ。
格言を、いくつか取り上げてみます。
1.虎穴に入らずんば虎子を得ず。
この格言の特徴のひとつは、虎のハウジングについての知識を前提にしていることだ。虎って木の上や動物園にしか住んでいないと思っているものには、この格言は無力だ。
<虎=ほら穴に住む>という一意的な、厳格な意味に寄りかからなければ、言葉は存立基盤を失ってしまう。
2.良薬は口に苦し。
この格言も、「良薬って、マツ○ヨで売ってる目薬かよ?」って者には理解できないし、苦い/甘いの違いぐらいは知っておく必要がある。
3.目くそ鼻くそを笑う。
あんまり馬鹿な解説をつづけるつもりはないが、ここでひとりの大道芸人を想像してみたい。ひとびとの前で、彼は格言を読み上げる。言葉を口にするたび、ポンポンと手を打ち鳴らし、体をくるっと回転させたりする。もちろん、強調したい部分でそうするのだ。
3の場合、強調は「目くそ」と「鼻くそ」の二箇所の置かれるだろうね。ひとだかりに阻まれて言葉が聞き取りにくかった者でも、「目くそ!」、「鼻くそ!」、あとゴニャゴニャだけが聞こえれば、なんとか意味は勝手に形成できなくもない。「笑う」が聞こえなかったとしても、すくなくとも、「同じだ」ていどの言葉を想像できればいい。
1では、「虎穴!」と「虎子!」だね。「虎の穴に虎の子」、ここまで言葉のリストラを実行しても、なんとか意味はわからないでもない。では2なら、強調する場所はどこ? 「薬」、「口」と考える人もいるんだろうが、おれは「良」と「苦い」の二つだと思う。「良いは苦い」としても、格言はあまり変わらない。
こうして、ごくごく短い格言は二箇所の強調をもっているのが普通だし、そのほかのものは二拍子のバリエーションと考えられるものが多い。
同一性(○とは△のことだ)、比較(○より△が優れている)、還元(○とは△のことでしかない)などを文章構成の骨格にしているためだ。
では、はにゃんの『ふとした永遠』に戻ってみよう。
「ふと思った。/僕は、『永遠を願っている自分』を書き表しているだけで/『永遠』を表現することは/全く出来ていないのだと。」
ここでは永遠に刹那(?)が対置されている。そして、この2箇所で大道芸人はポンポンと手を打つはずだ。
以上でおれは、はにゃんの文にどうして古さを感じるときがあるのか、はにゃんの甲殻とは何で、それとどう戦えばいいか、何をすればいいのか、について考えてみた。ついでに、彼の文が格言に近づくシーンを切り取ったかもしれない。
はにゃんからの第一報
はにゃんからの第二報
はにゃんとの対話(3)
はにゃんとの対話(2)
はにゃんとの対話(1)
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読書量が人並み以下だからだ。
そして語彙が不足している。
その事が、僕の書き記す文体に何か影響しているのかもしれない。
もう少し、考えてみます。