純正無執着は有・無,持・不持,拾・棄のいずれにも固執せず,そしてそのこと自体についても無頓着ですべての流れに身を委任する.
けち(吝嗇)は欲の一形体であるがそれを包めて~を持ちたい、ありたい、したい。有向線分の向きを変えて~をしたくない、ありたくない、もちたくない。矢の進路がどちらであろうと欲であり、その強さと値打ちに優劣はない。大仙にあらずとも並仙や幽人達は世俗の向きと逆なだけである。
不平、不満、ついでに妬みも加えてこれらは大よその人間が簡単に入手できるし、受け入れを拒絶したり捨てたりは至難である。そのようにきわめて馴染み深く離れがたい感情作用でありながら何故か品性下劣として扱い、負の側面が強く禁忌や否定語彙の印象が強い。世上の表向きはさておいて、これらは皆正義の個別表明で且つ不可欠要件であり燃料としている事実を否定できず、蔑む道理はない。
連帯(感)は否応なしに共通の境涯や運命を所有するかそれを感じるかによって発生する他者への想像力を基盤とするが、仮に同様・近似の運命を持つとしてもそれを自覚して生きない限り想像力は発動せず連帯もありえない。但し、「運命」なる範囲を極小から極大まで伸張すればその範囲に収まらぬ運命枠外者は存在しない。
人は執着を捨てきれずにその結果多くの苦と少なからぬ悦びとを持ちうる。元来収拾のつかぬものに対してそれを求めるけれどもこの大なる執心は生中にとどまらずその後にも及ぶ。遺書をしたためて所有物の処分を誰かに託す目的はそれらへの強烈な証左である。そんなものによって内界の静謐と安穏を得られるのであればそれもよく、結構なことである。人の喜悦は執着自体を目的として獲得している場合が多い。