Cosmos

 徒然に委ねて自己と宇宙との対話メモ

阿修羅

2008年02月29日 | Weblog
 
 自己に限定すれば、人間が受ける不快の極みはその同類によって生じる。それは人間を除く如何なる発生源によるどんなに甚大な災害も遠く及ばない。人間からうけた不快を支払う(payment)にはそれぞれの者どもが用いた方法論を持って実践するのが当然の礼節でありケジメである。

闇 路

2008年02月27日 | Weblog
 もっともありたくなかった避けたかったものは、当人の許諾なしに生を押し付けられて以来の自己と、厄・禍の諸事を産む土台となるヒトである。かまうものか、これまで幾多の恥の山中を歩き通し、森や藪をこぎ潜りしぶとく生き延びている身で、今ごろに及び体裁をつくろっても何になろうか。こっちが愚痴に飽きて零しを止めるか、グチから疎まれ見切りをつけられるまでコボシつづけるとしよう。

忍 辱

2008年02月25日 | Weblog
 
 忍辱とは他が自を害しようとも、自は他へ害し返さず只管我慢する。これは頂くばかりで何一つとして返さない吝嗇・恩知らずとして蔑むのを社会通念としているのに反する。加害側の任意にさせておき、被害側は不服を言わず静かにうける。これは、生物の本然とも乖離した理念である。可能・不可能はともかく可としても、生物でありながら何故その本然から外れ背かなくてはならないのか。そのような所業にたいしてどこからも異議を挿まず、なすがままを放置しておけば、その行為をする者はそれを非とは認識できず、是と思い込む結果となり、忍辱者はその悪を是認・奨励する同罪者となる。面を揚げ声を挙げるのは権利性よりも義務である側面が強い。

環 境

2008年02月22日 | Weblog
 1 余分の金とヒマ(閑暇)の両方共ない。これは、勤労や勉学に真っ当なよい状況である。

 2 金はなくてヒマがある。これは、相当の苦痛を道連れにせざるを得ない。

 3 若干の金と拘束をうけない時間の双方がある。これは、小人として不善をなすのに好都合である。

   1と3を適度に按分した環境をつくりたい。

  

   

共感願望と顕示欲

2008年02月20日 | Weblog
 
 「自慢する人間は賢明な人間のあざけりの的」、云々を見かけた。この人物は、かなりの賢者であるらしいけれども、少々逆らいたくなった。まず、賢明でなくてもそれくらいは出来るだろうし、自慢の多寡と質によってうける方の気分もずいぶん違うだろう。自己が体験したたわいない事を十分にそれと知りながらも、知己や近しい人たちに聞いて欲しい欲望にかられて自制できず、相手のウンザリ・迷惑をも省みずに饒舌して激しい自己嫌悪に苦しむ場合がある。この程度ならほとんどの者が免れえない本然の愚かさとして目溢しねがいたい。これとは異質の強烈な真性自慢の方も、実のところは全員がその欲望を所有している。もし、そうでない者がいたら、飲食や排泄や呼吸もしないのと同様で、新種動物の発見に相当するだろう。知恵ある者は小ざかしいので自慢の仕方に長けている。その手合いは相手に気づかせない様に手練を使う。だが、完全に気づかれないのではしたいジマンが無に帰する。そこで暗黙の了解を取り付けなくてはならず当にdilemmaの事態である。さらに知恵をかき集めて、ほのかな痕跡を残そうとする。この自分も自慢したくて制止できないのに発動しないのは、実に腹立たしいけれどもそうする素材がないからである。

痩せ我慢

2008年02月18日 | Weblog
 
 悲観(主義)・楽観(主義)と呼称しているその中味を検証すると、前者は無策でなんの手管もつかわず事実を素直にうけとる直感に近似の感覚作用であるが、後者は事実を捻じ曲げ否定する想念のあそび(遊戯)である。そのヤセガマンは内実において少しも楽ではないだろう。たとえば、悪意をなぜ、どうして善意に取りえようか。もし、そんなことをすれば先方が意図した折角の行為を踏みにじり礼を欠く。忌憚なく言えば没義道である。

不 越

2008年02月16日 | Weblog
 いかなる厚かましい人物であろうと本人自身を超えた者はいない。錯覚機能を働かせ、過去の自分を超えられたと言い聞かせても、何時の自分も自分であり常に{今}の自分が張り付いているので、その時点時点において自身をこえられなければ過去と今(この厄介モノ)とを比較したところで無意味である。

旅の悦び

2008年02月10日 | Weblog
 いくらかの煩わしさを伴う出かける前段作業、まさに旅の真っ只中、戻ってからの残香と、これらの三つを総括して心地よければその旅は佳い旅である。同語反復するなら佳旅とは快旅である。振り返ってよい残香を何度でも懐かしめるものがあれば、同じところでなくても旅をかさねたくなる要因となる。

迷妄の遂道

2008年02月03日 | Weblog
 我が身に不快を呼びいれ、あるいは襲い自身を何時までもどこまでも苛むのは大方の場合、口惜しさと悔しさ、恥と辱による。これらに遭遇してもそれを容易に解消し治癒できればよく、さらに願わしいのは口惜や悔や恥や辱を生じさせぬ力を備えてさえいれば我が人生も現状までに忌まわしくはなかっただろうと思う。
 適宜対応能力が不足を超えて皆無ゆえに生み出す極酷の辛さである。これは有るべきものが無いからである。その不可欠な要素とは何か、過ぎれば悪をなし、あらざれば我が身のように惨憺の極みに投げ込む知恵である。