玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■地域差別の民俗学的諸問題(2)

2016年03月31日 | 現代社会
NHKのBSでときどき放映している「京都人の密かな愉しみ」が密かに愉しみだ。
エンディングの「京都慕情」がなかなかいい。
かみさんに言わせると、いままで聴いたなかでかなりの上位に入るレコーディングだという。う~ん、そうかもね。

 あの人の姿 懐しい 黄昏の 河原町
 恋は 恋は 弱い女を どうして 泣かせるの
 苦しめないで ああ 責めないで 別れのつらさ 知りながら
 あの人の言葉 想い出す 夕焼けの高瀬川

 遠い日の愛の 残り火が 燃えてる 嵐山
 すべて すべて あなたのことが どうして 消せないの
 苦しめないで ああ 責めないで 別れのつらさ 知りながら
 遠い日は 二度と帰らない 夕やみの東山

 苦しめないで ああ 責めないで 別れのつらさ 知りながら
 遠い日は 二度と帰らない 夕やみの桂川

この歌、ちょっと調べたところ、実は作詞作曲は意外なことに、かのベンチャーズであった。対訳は林春生となっている。


「京都人の密かな愉しみ」(NHK HPより)。

話を戻すと、この番組の主人公は、常磐貴子扮する老舗和菓子屋の若女将だが、この人、絵に描いたような年中行事と洛中人の付合いのなかで京都の伝統を守って暮らしている。
ま、家のなかに祠もあるし、お供えもする。生活は「七十二候」を目安として暮らしている。1年を四季に分け、さらにそれを二十四節気(節句や土用を含む)に分け、さらに各節気を3つにわけたのが「七十二候」である。

なんだか、バリの家祠やウク暦の暮らしとどこか似てないか・・・。
それはともかく、彼女は伝統のなかにも生きているし、現代にも生きている。そこには密かな秘密があったり、隣に住む外国人から見た目線があったり、途中で挿入される京都人の現代模様を描いたオムニバスショートや老舗茶屋出の料理研究家大原千鶴さんのミニ京料理教室などもある複合ドラマ仕立てが、なかなか面白い。ある意味、勉強になる。

先日の放映では、ゲスト出演のシャーロット・ケイト・フォックス(マッサンのエリー役)が、お隣の奥さんにと道でばったり会って、こんなことをいうシーンがあって、そのモノローグが絶妙だった(うろ覚えなので言い回しや語尾はいい加減だけど)。
 奥「こんにちは。えろ~寒むおすなぁ」
 S「(こういうとき京都人は何か返さないといけない・・・)はあ、今朝はぁ比叡の山にも白いもんが見えてとりました」
 奥「あら~、えらい上手に京言葉しゃべりはりますなぁ」
 S「(よそ者は中途半端な京都弁はやめときな、という意味だな)そないなことありまへんけど、おおきに」
 奥「ところでどちらまで?」
 S「(何の興味もないのに・・・こういうときは詳しく云わないのが礼儀だ)はあ、ちょっとそこいらまで・・・」
 奥「ほな、気ィつけていきなはれや」
 S「おおきに」
要するに、全部裏返しで読むと京都なのだ。有名な「ぶぶ漬け、どうどす?」伝説が蘇る。
やっぱり京都はややこしい。そう、京都人は、敢えて理解してもらおうとはおもっていない。だからわからん人にはほっておいてほしいのだ。


で、ま、長くなったけど、京都の話。先日の井上さんの話に戻ろう。
あるとき井上さんが祇園の料理屋に入ったら、そのカウンターに、堂々袈裟姿のお坊さんが何人か並んで座っていて、その間にそれぞれプロっぽい女性が座っていたのを見たことがあるそうだ。
ビジュアルだけなら「姫・坊主・姫・坊主・・・」、まるで坊主めくりを連想する並びだ。坊主の隣にはなりたくないものだが。
そう、祇園は日本を代表する歓楽街、茶屋町、かつては太秦の映画スターや洛中の旦那衆によって支えられたその場所も、いまでは「坊主」に支えられているという。しかも、京都では袈裟姿が常識で、別段悪ぶれてもいないそうだ。ま、坊主もジモティだからね、気兼ねがない。



そういう坊主にいつだかある解釈を話してあげたそうだ。つまり、こう。
お釈迦様というのは、シャカ族の王子で、宮殿ではハーレム状態。つくずくそれが嫌になって修行の旅に出て、ついに悟りをひらいた、というストーリー。
これを聞いた坊主は、「やっぱりなぁ、いまはお釈迦さまの悟りの過程をなぞっている真っ最中や。早ようこれを開けて修行したいんけど、なかなか抜け出せへいもんですなぁ」的なことを言っていたそうだ。
そう、京都の坊主は、仏教という原理とは関係ないところで生きている。仏教学なんかを学んでいる学生はそこらへんがわかってないそうだ。
もちろんほとんどのお坊さんはまじめにお坊さんしている。が、京都という場所は、いかに僧といえど、それだけでは勤まらない経済や社会の現実が存在しているのだ。それだけ責任ある現世はたいへんということだろう。

で、そんな坊主の豪快を支えているのは、参拝料と非課税のシステムだ。他にも、雑誌が写真などの撮影や掲載をするときは、一律3万円と暗黙の相場があるそうだが、そもそも寺に肖像権はないから本来は払う必要のない金だ。だけど、これを無視すれば二度と付き合ってはもらえないから、雑誌社も結局これを支払うことになる。
これは「志納金」といって処理するから税金はかからない。つまり「こころざし」で納めるお金、ということだ。


旅HPより。

そもそも拝観料だって、額面上は「お布施」として扱われるので非課税だが、本来お布施なら気持ちで払うわけだから「大人500円」とか書くのはおかしいだろうという。まったくその通り。やっぱり「坊主丸儲け」だ。
そこに京都市が古都税とか考えて課税しようとしたことがあったが、結局、寺側のストライキで街全体が立ち行かなくなってしまい挫折。観光立国の時代、寺の力はますます強くなっていったそうだ。
寺話はもっと面白いことがたくさんあるけど、ま、ここは「カッツ・アイ!」(わからない人ごめんなさい)。


「LIFE」(NHK HPより)。


そもそもそういう京都の上質イメージとか「上からスタンス」をつくったのは、東京のメディアのせいが大きいという。実態以上に膨らませたイメージはバブルのようだ。なんで大阪出張した社長が京都で夕食を食べたがるのか意味がわからないという。
要は、ありがたがり過ぎ、ということだ。

その京都を唯一バカにするのは「大阪人」だという。
大阪では、高槻辺りに住む人には「あんたら、もうほとんど京都やんか。大阪ちゃうわ。いっそのこと、京都になってしもうたらどうや」と揶揄するらしい。
要するに京都を見くびったりあなどったりするのは、その内心とは別に、京都-神戸連合に冷やかされつづけられる「大阪人」だけなのかもしれないね。
「そや、そや、大阪はええで」と言いそうな何人かの具体的な顔が浮かんでくる自分が怖い。

かくいう井上さん、最後は、応仁の乱まで遡って、嵯峨天皇から後醍醐天皇まで、嵯峨の地は副都心だったという物言いもすごい。やっぱり京都人にとって「先の戦争」というと「応仁の乱」なんだろうか・・・。
そうやってひねた言い回しの井上さんは、やっぱりこちらからみたら立派な京都人だ。
東京の建築史家にも藤森さんのようなユニークな視点や活動をしている先生もいるけれど、独特ではあるが、井上さんのように、クスッと笑いながらひねくれた見方を楽しんでいるような人はいない。


「真如堂縁起絵巻」部分。応仁の乱を描いたものとされている。


でも、毎頁で笑いをとるこの書き方は、ある意味余裕のあるインテレクチュアルの知的な遊戯のようでもある。どうでもいいことを大げさな論理で持ち上げたり、シャレの利いたトンチでかわしたり、まさに知識人のゲームの様相だ。
だがそれでいて、深読みして全体を見渡すと知性的で立派な文化論になっていたり、背景の思想や倫理観はしっかり貫かれていたりするから面白い。やっぱり京大系は一筋縄ではいかない人たちだ。

そしてこの本は、最後の「あとがき」に、まるで大逆転の推理小説よろしく、小さな仕掛けがしてあった。不覚にもついついそれに乗ってしまい、笑いっ放しだった最後の最後でおもわず胸が熱くなってしまった。
これは、「あとがき」から読んだ人にはわならない。最初からずっと読み進めていった者だからこそ伝わる些細で象徴的な落とし穴なのだ。しまった、とおもったときはもう術中にハマっている。
う~ん、今回は、いや、今回も、負けました。(は/223)


井上章一さん。
なんかいつも余裕のある含みがあって、そのユニークさは、立派な京都人だとおもうけど・・・(京都新聞文化会議HPより)。



■地域差別の民俗学的諸問題(1)

2016年03月29日 | 現代社会
建築史家の井上章一さんはユニークな人だ。これまでにも何冊か建築関係の著作は読んだが、いつもその独自性のある視点に好奇心がそそられてきた。
近著の「京都ぎらい」という本がまた面白い。エッセーのような読みやすいタッチの新書なので、あっという間に読めるタイプの本だが、やっぱり視点が絶妙だった。
最初は、京都出身の井上さんが「京都ぎらい」とは如何に、とおもって読んでみたら、実際の京都の中はそう単純ではないらしい。なるほど、そうなっていたのか・・・。
我々のようなよそ者にはわからない見えないボーダーが張り巡らされているんだね。



井上さんは京都生まれといっても嵯峨の出身で、いまは宇治に住んでいるらしいが、実は京都の人というのは洛中、つまり京都の中心市街地の育ちかそうでないかで随分と差別があるらしい。
京都で「差別」というともっと深刻な社会的歴史的問題のことを想像しがちだが、ここではそういう本物とは別のところに存在するもっと軽くて深い人間関係の区別のことだ。つまりは洛中育ちの人は、洛外育ちの人を暗に京都人とは認めず、「田舎者」ということことで伝統的に下に見るイケズな性格だということのようだ。
ということは、井上さんは東京では京都人に見えるが、京都では京都人とは認められない立場にある、ということになる。


嵯峨野の竹林。旅行Siteより。


渡月橋の桜。もうすぐこんな感じか。旅行Siteより。

だから、東京で「京都からいらっしゃいました井上さんです」と紹介されるときはいつも内心「京都から来ましたけど、厳密にいえば京都ではなくて・・・」となるが、その説明もいちいちややこしいので、「はい、京都から来ました」ということで通しているという。

この本はそんなイケズにされた体験談をもとにそのことをことさら暴いている。もちろん笑えるように書いているが、本人がいったいどこまで真剣に書いているのかはわからない。でもきっと、若い頃からの昔年のおもいがあるんだろう。
そこはそれ、知識人の軽妙な恨みつらみと屈辱と落ち込みを、ジョークなのか本気なのかわからない悪態ぶりで1頁に1度は笑えるように仕上げているのだ。こういう見方は穂村弘にも勝るとも劣らない。

たとえば、昨日の「民博」。これをつくって初代館長をやった民族学者の故梅棹忠夫先生は、西陣の人で、つまり洛中の人。井上さんが以前尋ねていってお話した際、「先生も嵯峨あたりのことは田舎やと見下したはりましたか?」と聞いたら、即答で「そら、そうや。あのへんはことばづかいがおもろかった。ぼくらが中学ぐらいの時には、まねしてよう笑いおうたもんや。じかにからこうたりもしたな。そら、しゃあないで。」と言ってはったそうだ。
そういうせいなのか、民博には全国の方言で「桃太郎」が吹き込まれていて、方言の比較ができる装置があるそうだが、なかには「京都府京都市」というボタンがあって、京都弁で「桃太郎」が聴けるそうだ。そこにはけっして嵯峨の訛りはない。



この本には他にも京都人のこんなエピソードが挿入されていた。
ある飲み会で隣に座った女性が、30を超える頃からだんだんいい縁談がなくなってきたと嘆いているという。
 女「とうとう山科の男から話がくるようなってしもうた。堪忍してほしいわ。」
 井「山科の何があかんのですか?」
 女「そやかて、山科なんか行ったら、東山が西の方に見えてしまうやないの。」
だそうだ。
これには笑った。


東山。洛中から見れば当然東にあるかれ東山なのだろう。旅行Siteより。

とか、悪役プロレスラーの某が、ショーの前口上でマイクを持ち、京都出身の自分がやっと凱旋帰京してきました、的なことを言った途端、「お前、宇治やろ!京都出身言うな」という野次が飛び交って盛り上がったという。
そうなのだ、やっぱり京都人は、京都人の「中華思想」があって、その根っこは深い、ということ。
ここでいう「中華思想」とは、自分たちこそ世界の中心(華の中心)であり、四方八方、その他はみんな「蛮人」だと考える思想のことだ。古代から中国はそういう考え方があったが、ま、京都も同じか?


そんな話なら僕にもある。
以前、お茶の話を聞きたいといって、日本お茶関係のなんだか協会のエラそうな京都人が事務所に尋ねてきて、一時間ほどお話をしたことがある。
ダランの大学の学長の紹介で、現代の茶文化を聞きたいという主旨だった。

さんざん話した帰り際、「そうや、さっき淹れてもうお茶、おいしゅうおましたなぁ。お煎茶を焼き締めの茶碗でいただいたのは初めてでしたわぁ。うちら、ああいうお茶碗でしたら番茶しかもろうたことおまへんから、さすがは有名デザイン事務所、新しいことがたくさんあって勉強になりまたわぁ、はあ、参考にさしてもらいますぅ。ありがとさんでした。」みたいなことを言って帰っていったことがある。
しまった。たしかに煎茶は普通、磁器系だ。こちらの若者が無作法だった。ま、もともと作法やマナーなんてないけれど。かくゆう当然のごとく、関東のデザイナーはバカにされたわけである。

でもね、初めて来た事務所で、仮にそうおもったとしても、それは言わないでしょう、普通。これが京都人の一見褒める風にしながらその真逆を遠回しにいうという例のイケズなのか、とそのときおもったものである。
というか、やっぱ京都が一番、東京は本当は下るもの、という感じが見透かされる。
いまなら「お宅は京都はどこの生まれ?」と訊いてやるところだった。もし洛外ならしめたもんだ。



まったく、応仁の乱以降、京都人という人種は、あからさまに結論を言ったり、直接的に蔑んむことは言わないのが礼儀なんだそうだが、それでも遠回しにものを言うのも普通だという。
平安京1200年、もしかしたらそれを伝統文化というのかもしれないけれど、同じように、外からはわからない蓄積されたひねくれた歴史の堆積もそこにはあるのだね、きっと。
一見華やかな京都に生きるのもたいへんだ。(は/222)


■民博見学のひととき

2016年03月28日 | 上演後記
先月、神戸の帰りに所用がありダランと民博、つまり「国立民族学博物館」に寄った。
お恥ずかしながら、民博は実は初めてだった。一度は来たかったが、わざわざ行かないといけない場所にあるのもあるけれど、なんといっても大阪だしね。思い立って行こう、という場所でもない。

で、その民博から見た「太陽の塔」が後ろを向いていたのが妙に印象的だった。また「後ろ」か・・・尻尾はなかったけど。
この塔は、高速や新幹線なんかでもいつも正面からしか見てなかったので、妙に新鮮というか、ああ、考えてみれば、たしかにこういう風景もあるはずだ、と感じ入った記憶がある。
こういう何でも裏から見ようとする性格は直さなければと常々おもうけれど、気になるものはしょうがない。開き直ってもそれこそしょうがないが・・・。




ともあれ民博は、その太陽の塔がシンボルだった70年万博ゆかりでできた民族学と文化人類学のための博物館である。
なにせ、世界の文物があれだけ集まったナショナル・イベントというのは近代の日本では稀な出来事。詳しい経緯は知らないけれど、ちょうどいい機会ということだったんだろう。
もちろんそれ以前にも民族学的には博物資料館のようなものへの希求はあっただろうし、この万博の文化的成否には賛否あったものの、とりあえずはその成果を踏襲しようと世界の民族を展示・研究する施設ができたということと推察される。

で、この施設、ダランの話では、現在では、総合研究大学院大学の研究科も併設されていて、実は単に博物館というより、ま、どちらかというと研究機関が博物館を持っているといった方が近いのかもしれない。
それに、企画展示なども行われていて、今回行ったときには、たまたま次回「異酋列像」の巡回展をやるという告知があった。しまった、また会期に合わなかった。異酋列像はいったいいつ観られるんだろう・・・。





で、あまり時間もなかったけど、ま、とりあえずざっと世界の楽器や音楽のコーナーを先に一回り。浜松の楽器博物館とはまたひと味違う展示や工夫もされていて面白かった。
その他の展示もさっと観て、当然、バリのコーナーも観た。



実際、ワヤンのコーナーがあり、そこにはなんと、以前、ダランと一緒にバリに行ったときに参加した「サプ・レゲール」の写真が展示してあった。もちろん、解説も含め、写真はダランが提供したものである。
バリでは、いわゆる太陰暦系の「サカ暦」と普段の日常で使用されている「ウク暦」が併用されている。もっと厳密にいえば西洋の太陽暦も国際標準で知られているので、現代では三つの暦を使いこなしている?ということになる。複雑だ。
で、「ウク暦」は一年が30週210日で一巡するようになっていて、寺院のオダランや通過儀礼の日時を決定しているものであることはよく知られた話。ちなみに有名な「ニュピ」は「サカ暦」の歳時ですが。



なんだかこのブログだと釈迦に説法な感じもするが・・・、ま、そのなかの一周に「ウク・ワヤン」という週があって、通常は27週目の週を指すと聞いたが、そのときに生まれた子供を悪霊が食べにくるとされていているため、バリの人たちは、できるだけその週に子供が生まれないようにするという。
なんだか丙午のような話というと失礼だが。それでももし生まれてしまった場合は、祓いの儀礼が必要とされていて、それが「サプ・レゲール」というバリ独特の儀礼なのだ。
また、週は日曜から始まるので、「ウク・ワヤン」の週のなかでも土曜が最も強力というか、最凶とされているとダランから聞いた。
こんな研究をしているのは、日本広しといえどもダランだけだろう。それを希代の研究者というべきか物好きというべきかはみなさんにお任せする。

で、この「サプ・レゲール」、これまでは、そういう誕生の子供がいる家単位で行われるのが普通だそうだが、合同で、しかもこれほど盛大に行われることはなかったのだそうだ。これも時代の変化なのか、新しい儀礼のかたちなのか・・・。
なんだか「みんなで渡れば怖くない」的だが、霊力も結集するわけだし、平等な儀礼効果にもなるのかもしれない。
ともあれ、「ああ、あのときの・・・」、と少し懐かしくもあり、ある種感慨深いものがあった。このときの録音はいまも保管している。2010年9月初旬のことだった。
その次にバリに行ったのは、2013年の3月、早いもので、ちょうど3年前になる。そろそろまた行かないとね。


そうこうしていると、民博ではこんなものも見つけた。


ハングルのタイプライター。初めて見た。


「訳あり」ということで半額セールになっていた本を購入。
ダランも編著に関わっているとおもわれる。



中にこんなページがあった。
ダランと始めたアンクルンの初期の頃の写真とおもわれる。写っているのは誰?


いろいろあるね。
でも、全部観て回るには時間が足りなすぎた。数冊の本だけは買ったけれど、ミュージアムグッズや書籍コーナーだけでもたっぷり一時間はほしい。企画展まで観たら、少なくとも半日はかかりそうだ。
今度、一度、一日ゆっくり観れるようこのためだけに改めて来てみたいとおもう次第である。(は/221)


ちなみに、今回買ったカタログ類。他にもいろいろあって興味ひかれる限りだ。


■バリカタ

2016年03月24日 | 
「バリカタ」、といってもバリ島とは関係ない。「博多らーめん」のギョーカイ用語のこと。
ギョーカイだからといって、「カタバリ」などと言ってしまったら、バリのカエルになってしまうのでご用心(わからない人はすみません)。

いや、要するに、たまたま昼時に渋谷にいたので、ダランご推薦という博多ラーメンの店に行ってみたというお話。
替玉2玉まで無料の文字がダランの目を引いたらしい。社会的地位にかかわらず、相変わらずセコイ。
でも、店内は活気があって、ラーメンもおいしかったですよ。


ダランがたまに行くという渋谷の店。

いまどきはご存知の向きも多いとおもうが、「博多ラーメン」の特徴は、白いとんこつスープとストレートの極細面、高菜と紅ショウガの無料トッピング、そして何といっても「替玉」制度だろう。
替玉とは、ラーメンの麺だけ食べ、スープは残しておいて、そこにもう一玉の茹麺を追加して入れることをいう。要は「おかわり麺」のこと。
普通、替玉は100円程度で追加できるが、この店は、それが二玉まで無料ということだ。ということで、ダランはいつも替玉するそうだ。一玉だけ、らしいが。


「替玉」は自分で入れる。らーめん紹介Siteより。

これ、店によっては、スープも追加できるところもあって、つまり、追スープをしてくれるところもあったりする。まあ、お腹がすいていれば少しの追加料金で何杯分でも食べられるというわけである。
「通」は、スープの残し方や替玉を頼むタイミング、紅ショウガは替玉から、などさまざまな流儀があると聞いたことがある。で、何気なくそっと見ていると、たしかにそれ風のことをみんなやっている。
こういう暗黙のルールは、何度も通わないとなかなか堂に入ったことにはならないね。ダランの流儀はいかに。


こうした本格的博多ラーメンを初めて食べたのはいつだったかもう忘れてしまったけれど、たしか80年代の福岡だったとおもう。
当時はバブルという時代でもあり、明け方まで中州で飲んで、タクシー飛ばして名物「長浜ラーメン」を食べに行く、というコースが定番だった。もちろんそこでもビールは飲む・・・、バカなことやってたね。

当時でさえ、その博多ラーメンの発祥には、中州説とか久留米説とか諸説あったが、有名なのは、戦後、満州引き揚げ組の津田茂という人がはじめた屋台説である。いろいろ研究を重ねた末に生まれた「白湯豚骨スープ」が評判を呼び、「赤のれん」という店を開いたそうで、この店は博多でも老舗として知られている。
津田は頑固だったそうだが、唯一のれん分けを許されたという店が六本木にある。これが東京で初めての「豚骨らーめん」の店、だという。僕もたまに行く。


六本木の「赤のれん」のらーめん。
僕はいつも高菜をトッピングするが、この店はこうやって別の皿で出てくる。


そこへいくと、「長浜」の場合は、いわゆる近くの卸売市場の関係者が通う屋台ラーメン群がその起源であることがわかっている。いまでは、同じ博多ラーメンでも、「長浜」といえば独自の地位を認められているといえよう。渋谷や新宿にも店があるね。粗野な感じが屋台の雰囲気を出している。
ラーメンというのは、どうして屋台がうまく感じるのかわからないけど、そもそも吹きさらしのところに暖かいスープと麺が美味しくさせるのかもしれないね。
とくに博多ラーメン系は、麺も軽妙だし、味付けもシンプルなのでスルッといく。だから、そう、いわゆるシメにはちょうどいいのかもしれない。

で、もうひとつの特徴は、麺のゆで加減を細かく指定できるところだろう。
普通の店なら、せいぜい柔らかめと普通と固めくらいが相場だが、博多のとんこつ系は、独特の呼び方があって、最低でも5段階、いままで見たなかで一番細かかったのは、8段階に分かれていた。六本木近くの店だけど。
それは、以下の通り。

 ・ばりやわ(超柔らかめ)・・・一応、メニューにはあるが頼んだ人を見たことがない。
 ・やわめん(柔らかめ)・・・「「やおめん」と表記している店もある。これもほぼ頼む人はいない。
 ・普通・・・初心者向け?
 ・カタメン(硬め)・・・無難にいくならこれかな。なぜか柔らか系はひらがなで、硬系はカタカナなのが面白い。
 ・バリカタ(硬めより硬め)・・・馴れてくればこれくらい?
 ・ハリガネ(バリよりさらに硬め)・・・これで10秒くらいの湯通しの世界だという。
 ・粉オトシ(針金よりもっと硬め)・・・たぶん5秒程度の茹で時間だ。
 ・湯気通シ(説明不用)・・・たぶんもう茹でたつもりだけの状態だろう。これも頼んだ人を見たことがないけれど、一応メニューに挙げておくだけのものだろうか。というか「生麺」、ということでしょ、そもそも大丈夫なのか。


ネットにあった類似例。らーめん紹介Siteより。

要するに、ここではいかに硬茹でを食べるかが「通」の証のようなもの、のようだ。
だからって、本当に美味しいかどうかは実験したことがないので不明。
落語のネタじゃないけど、きっと一度は柔らかめを食べてみたかった、という「通」も本当はいるのではないだろうか・・・と部外者としてはついおもってしまう。
でもまあ、麺が細いということもあって、替玉を注文してから出てくるまでがあっという間でテンポが損なわれないという流れが絶妙なのだ。

そうやって、食べ物にはそれぞれ歴史や流儀がある。それを「食文化」と呼ぶには大げさかもしれないけど、ダランはきっとその流儀、「替玉」のお得感と、単に「バリカタ」のバリに引っかかったんとちゃうか?
ま、いずれにしてもそろそろ健康を考えて、ラーメンはほどほどにしましょうね。とくに、「替玉」は控えましょう。(は/220)



おまけ。ちなみに吉祥寺にはこんな名前の店もある。入ったことないけど。
我々だとすぐ反応してしまうけれど、けっして中でバリスを踊る男性がいるわけではない。
念のため申し上げておきますが、「バリ男」の「バリ」は「バリ島」の「バリ」ではない。あしからず。



■SNSはやらない

2016年03月23日 | 現代社会


昨日のアップルの新作発表の場は、ある意味、たいした目玉もなく盛り上がりに欠けていた、が、ある意味痛快でもあった。
それは、最初に登場した現CEOティム・クックのプレゼンテーションの何割かが、対FBIのいわゆるセキュリティーロック解除に関するものだったからである。
これは、いわゆるテロリストが持っていたiphoneのロック解除をFBIに依頼されたことに端を発している。
問題は、極悪のテロリスト対策に対し、超法規的に情報開示を手伝えというFBIに、アップルは拒否しつづけた挙げ句、最終的にどういう態度を示すか、という高度情報通信社会の個人情報とセキュリティの問題でもあったのだ。

ティムは「ユーザーのデータ、ユーザーのプライバシー、ユーザーのセキュリティを守るのは我々の責任だ。この責任を放棄することはない」と堂々宣言した。


昨日のティム・クックCEO。
この問題だけでなく、今後、アップルセンターの電源はすべて再生可能エネルギーにするそうだ。NetNewsより。


いや~、まったくその通り。テロリストには困ったものだとはおもうけれど、テロリストを「悪」と決めつけるのはいったい誰か、という問題もある。価値観や行動原理が異なる人に対し、どういう評価をすれば相対化せずに判断できるのか、ということになる。一方的な価値観だけで断定していいものかどうかも疑わしい。
それに、これを許せば、当局が「悪」と判断した人間には一切権利は認められない、ということにもなりかねない。
FBIは情報や権限を安直に考えず、もっと自らのできる捜査をしたら?ということだ。

そもそも、スマートフォンはアップルが開発した便利な現代ギアではある。いまではアップルの70%の売上がこれだそうで、これもアップルにとっては本来問題あるとおもうけど・・・。
ともあれ、それを使ってできることのひとつにあるのが、メールやSNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)というやつだ。
Facebook(フェイスブック)やTwitter(ツイッター)やLINE(ライン)など、個人発信の電子通信メディア。これらの登場によって、世の中の情報交換は大きく変わったといわれている。
こういうのでつながっていれば、ワーグナーが好きな人も友だちができたかもしれないね。



たしかにかつては不特定多数が情報を得る場合、マスメディアなどの一方的発信をそれぞれが受け取る方法が一般的だったが、これが大きく変わったきっかけのひとつは、インドネシア、アチェ州の津波のときだったそうだ。それはプロではなく、まったくの個人が撮影した映像が、世界に流れたからである。
以降も、ことあるごとに個人が撮影した映像等が世界のメディアに流れるようになっていった。
つまり、情報や映像の発信源がプロではなく、まったくの一般人という社会的メディアが生まれていったということである。
これが、いわゆる「アラブの春」を招いたし、いまではISなどにも多用する事態となった。


いわゆる「アラブの春」といわれたアルジェリアに端を発する民主革命は、SNSで広まった民衆の団結から広がっていった。


僕自身は、いろいろお誘いや教示は受けるものの、いまだに「SNS」はやっていない。
理由は、単純にfacebookはザッカーバーグの動機が気に入らないことと、CIAのスノーデンの暴露でも明らかになったが、NSAはあらゆる個人情報を収集していたことが明るみに出たりして、信用ができないからだ。
「エシュロン」は映画や小説の世界ではなく現実だった。

LINEは実は日本企業の顔をした韓国企業で、韓国国家情報院にすべて筒抜けということで一時問題になった。一般の場合、別段韓国の人に聞かれてまずい話はしていないだろうが、それでも気色悪いし、国家的情報戦略に踊らされている感じが馴染めない。
Twitterも利用価値はあまり感じない。「夫の知らない 妻のつぶやき 世界の人が聞いている」という川柳もあった。
ま、伝えたいことや言いたいことを短くいう言語的試みは意味がまったくないわけではないけれど。
「ブログ更新ナウ」だ。


マーク・ザッカーバーグ。ハーバードの学生だった彼とエドアルド・サベインによってフェイスブックは誕生した。


元CIA職員だったエドワード・スノーデン。彼の勇気ある告発で、世界は動き出した。


これが「エシュロン・レーダー」とされている。

まあともかく、こういうメディアは、いろいろ情報を出して活動を広げようとする人にはある程度有効かもしれないが、現代の電子メディア技術はまだまだ未成熟な上、いろんなものを担保する以前に、進化速度も早い。つまり、いいか悪いかもわからないうちに、とりあえず便利で取り立てた害がないなら広めて儲けようとする、いわゆるITビジネスという商業活動に乗っかっているわけである。
それに、遅かれ早かれ、国家レベルで管理体制が進むことは否めない。

80年代以降、そういう危惧の映画や小説なら山ほどあった。そういう「ディストピア」な未来の可能性が現実的に見えてこなくもない。
そんな、大げさな、というかもしれないけれど、facebookだけで世界の登録者が10億人を超えているというし、こうした個人発信の情報やそもそもの登録情報がいつ誰の手に渡るかもわからない時代に、いま差しかかっている。そういう人々に利用される、かもしれない実験上にあると考えるなら、まさにいまのSNSがそれだといえまいか。
そう、便利に利用しているようで、実は利用されるかもしれない実験の途上にいると考えたらどうだろう。
もし資本主義が進んでいって、大資本や国家が好き勝手にそれを利用できるようになったら、個人の権利なんてないも同然になる。その「蟻の一穴」がいまと考えるべきなのだ。


ジョージ・オーウェルの「1984年」を焼き直した映画「未来世紀ブラジル」。
そういえば、ここでも拷問室は「101号室」だったかね・・・?


けど、いまでも毎日のように多くの友人や仕事関係の人、ガムラン関係の人などから、そういう頑固なのはよくない。時代に取り残されるよ、とか言われてしまう。
時代に遅れるなんて大きなお世話だ。古い人間だとおもわれようが、あっしはあっしの道があるってもんでござんす。
おふくろはネットも携帯もやってないけれど、いつも友人に囲まれて立派に生きている。通信はいつも電話、ナマの声が安心するそうだ。ニュアンスも伝わるしね。
そうだ、用があるなら電話してこい!

時代はどんどん相互で早く便利になるかもしれないけれど、電子メールやブログだけで十分問題ない。
この際、人間が信用できる道を、もう少しゆっくり歩いてみたら?
やっぱりSNSはやらない。(は/219)


■孤独のワーグナー

2016年03月22日 | その他


今年も無事桜が咲いたそうで、春も近い。
先頃、ちょうどそんな桜の季節のネットニュースで、東大、京大、早稲田、慶応など日本を代表する大学の卒業式と入学式で、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタジンガー前奏曲」が演奏され続けてきたことがわかったそうだ。
記録が残っていない年代もあるが、少なくとも25年以上の恒例になっているということだった。きっとT君の入学式もそうだったに違いない。

で、何がニュースの柱かというと、ワーグナーの思想性にある、そうだ。
ワーグナーといえばヒトラーというイメージも付きまとうのも確かだが、それ以上に反ユダヤのテキストなども残されていて、そこがひっかかるらしい。つまり、そのワーグナーを日本の最高学府が記念すべき式典で違和感なく使われるのはいかがなものか、ということのようだ。
別にいいじゃん、とおもうけど、イスラエルではいまでもワーグナーは禁止だと聞く。はたしていまの日本、とくに学生たちがそれほど深刻に結びつけて考えることはしないとおもうが・・・。



ガムランだって、それを聴けば、いつでもバリにトランスポートできるように、ガラムを吸えば立ちどころに身体がバリを想い描くように、人間の記憶やイメージというのは音や匂いとは直結しやすい性質があるのも事実だろう。
耳は敏感だ。そもそも人間にとっては生まれて最初に発達する器官が「耳」だということもあるけれど、それくらい音楽というのは人々の感情や歴史と結びついた文化なんだと改めておもう。

そもそも日本のこれだってもともとは選曲にそんな思想性はなかっただろう。きっと明治の日本が西洋文化や音楽を仕入れてきたときの代表格がたまたまワーグナーだったのではないだろうか・・・、もちろん推測の域は出ないが、以来、日本のアカデミーは、それを取り入れてきたという程度のことではないだろうか。で、それが恒例となった。


で、この曲、実は僕もたまに聴く曲の一つだが、ま、ワーグナーの代表曲の一つだし、クラシック史に残る曲だろう。もちろん、レコード盤もCDも複数の演奏を持っている。
でもそれは、単に複数の旋律が交差しあうような優美で圧倒的な音楽的構成力と波のような音量の迫力だけでときどき聴きたくなる曲であって、ちょっとだけその世界観に浸りたいとおもったときに聴く程度だ。
申し訳ないがそれには特段思想的背景はない。

だいたいにしてワーグナーは、高校生の頃初めて自覚して聴いたくらいの奥手だった。
学生の頃も、初めてブーレーズの「指環」をTVで観たときは、当時だからわけもわからずという状態だったが、ともかく単純に「すげぇなぁ、この人」とおもったりもした程度。その後、「さまよえるオランダ人」や「ローエングリン」なども中継で観たりしていたくらい。
でもまあ、「楽劇」なんてのは、長大で高尚、若い貧乏学生が対象にするには少々大げさでご立派な感じだし、余程の趣味人じゃない限り、その世界は付き合えたものではない。

それに、たしかにヒトラーは大のワーグナー贔屓だったけれど、せっかくワーグナーのような才能や作品が、たかだかヒトラーのせいで歪められていいのかとおもっていたし、歴史や社会史的にいうなら、ルードヴィヒ二世と結びつけて話した方がよほど生産的(夢想的?退廃的?)だとおもうし、専門の人たちはどういうかわからないけど、音楽史的にいうなら、リストやブルックナーだけじゃなく、シェーンベルクや少々捻るならドビュッシーへの影響を考えるべきだろうとおもうけど・・・、つまり、ま、ワーグナー擁護の方だった。
ガムラン関係の音大出身者の人にはバカにされそうだけど、内緒で告白するなら、一度くらいは「バイロイト祭」にも行ってみたいものである・・・?

そういえばちょうど東京に住むようになった頃、コッポラの「地獄の黙示録」のなかでロバート・デュバル演じる将軍が、戦争なのに「ワルキューレの騎行」をかけながらヘリで飛行するシーンが迫力で、まねして車で高速走るときなんかはよく爆音でかけていたりもした。音源はシカゴ響、ショルティお得意の豪快な演奏だった。そういうときは「ニュルンベルクの~」もよくかかていた。
ついでもこういうときは僕らももちろんスピード違反状態だ。


早朝の海岸に、ワーグナーを爆音でかけたヘリが飛来する。
これは楽劇にも呼応するワンシーンだ。



一切の畏れや恐れというものを知らない大佐にとっては「朝かぐナパームの匂いは格別だ」そうだ。
単にサーフィンをしたいために、ナパーム攻撃をした。やっぱりベトナム戦争は歯車が狂っていた。



また、初めて一人暮らしした家の大家さんの息子さん(僕より10歳くらい上だった)が大のクラシックファンで、それはもう、ご多分にもれず、音響マニア。「オタク」というにはきちんとした紳士だったが、みなさんが想像する通り、暗い部屋に壁中レコード棚、いかにも高そうなオーディオで埋め尽くされている部屋だった。

当時は家賃をいつも手で持っていくという支払い方法だったので、月末には毎月おじゃまするという感じ。
でも行くと、いつも玄関先にその息子さんが出てきて(何の仕事してたんだろう?)、玄関脇にあるそのオーディオ部屋でいろんなレコードをかけてくれ、この作曲家のこの曲はここがいいとか、とくにこの年のこの演奏家の録音を超えるものがないとかいろいろ聞かされた挙げ句、最後はいつもワーグナーだった。

そういうとき、僕は「うんうん、はい」などといつも聞き役に徹していた。もちろん彼ほどの知識も好奇心もないということもあるけれど、悪いけど、乗られると面倒だとおもっていたりしたのだ。
でもたまにわずかな知っているエピソードなんかをチラッというと、もの凄く喜んで、うん、そう、知ってるそれ、そうなんだよね、とか言われて、また別のレコードになったりした。
そういうときはいつも、「しまった、やっぱり黙っとくんだった」と反省しきり。

で、「それでは来月もよろしくお願いします」といって辞去すようとすると、決まって言われるのが「今度ゆっくり遊びに来なよ」と慣用句のように言われるのがつねだった。たまに道端なんかでばったり会ったりするときも、それが口癖だった。「あ、はい、そのうち」とは応えるものの、悪いとはおもったが、その後一度も「ゆっくり」行くことはなかった。
なんで僕を誘うんだろう、単なる大家と店子の関係というだけなのに・・・とおもったが、そこにはおそらくきっと彼なりの事情があるのだ。
たぶんだけど、おそらく家も金も収入もある。けど、きっと友だちがいないのだ。だから、僕がたまの朝などにかけるクラシックをもれ聴いて、こいつなら話せそうだとおもったに違いない。

ついには、ある家賃を納めた帰り際、「あげるよ、これ」とか言われて、何枚かレコードをもらったことがある。
最後に「もう来月引っ越すので」と言って伺ったときは、「じゃ、これあげる」と言われて渡されたのが、カラヤン指揮ベルリンフィルのワーグナー「トリスタンとイゾルデ」全版だった。
円卓の騎士トリスタンと王妃イゾルデの悲恋の物語、よく言われるのは「愛の死」がテーマ、ワーグナーの最高傑作ともいわれている。
ただしこれ、実は書いた頃の本人の浮気の悲運をなぞったものである。もともとはお得意の古代叙事詩系がルーツなので、本来なら途中、「龍退治潭」が入っているべきといつか読んだことがある。
本当はそこが物語研究としては興味深いところだが、ワーグナーの恋愛劇には不用だったんだろう。


近年、映画にもなったが・・・もちろん観ていない。

ともかくまあ、買ったらいくらすんの、これ?って感じの分厚い箱付きのレコードだった。ライナーも本のようだ。こっちは万年の金欠でお返しもできないし、それはあまりに申し訳ないので一度は辞退したが、どうしてももらってほしそうにされていたので、思案の挙げ句、うれしそうに作り笑いをしてもらうことにした。
内心、どうせなら絶対買わないだろう「ニーベルンクの指環」全編とか「パルジファル」とかにしてほしかったが・・・ま、「トリイゾ」がきっと彼なりの到達点だったのかもしれない。

そう、名作だし、「通」はうっとしするほど好きなのかもしれないが、ワーグナーのなかでは派手な作品ではない。というか、どっちかというと侘び寂び系の深遠でしっとりした悲劇の様相だ。染み入るように聴かないと一般人は入っていけない。
結局、何度かは聴いたが、あるときさらに深刻なる金欠状態になったとき、いっそそれを売ってしまおうかともおもったこともあったが、良心の呵責でおもい留まり、幸いいまでも我が家にある。



リヒャルト・ワーグナー、結局いい人だったかどうかはわからない(たぶんあまりいい人だった気はしないけど)。それに本来普通なら壮大で崇高で高邁な音楽論の話にすべきなんだろう。
だが僕の場合は、ワーグナーがどんなに歴史上の偉大な人であっても、世界の民族も国家のアカデミーにも大きな影響を与える重要な人物であったにしても、世界の誰も気にしないようなそんな些細なというか、「一人の孤独な彼」のことをいまでもつい想い出してしまうのだ。(は/218)


■5人目の・・・

2016年03月15日 | その他
ビートルズといえば、「5人目のビートルズ」という言い方がよくある。
たいがいは、初期メンバーでベース担当だった「スチュ」、つまり「スチュアート・サトクリフ」のことだったり、リンゴの前にドラマーをやっていた「ピート・ベスト」、または名マネージャーだった「ブライアン・エプスタイン」のことをいうことが多い。
ま、多かれ少なかれ、バンドというのはそうやっていろんな人が関わりあったりして歴史をつくっていくわけだけど。


ブランアン・エプスタイン。
この人がマネージャーに名乗り出なかったら、ビートルズはどうなっていたか・・・。
まだ社会的認知のなかった60年代にゲイであることを認め、センセーショナルな種もまいたこともあるが、最終的に解散に至ったのも、きっと彼がいなくなってしまったことも遠因しているだろう。



関係ないけれど、我が「Gender Tunjuk」も4台のグンデルに対し5人が通常メンバーだ(正式にいうなら休部メンバーも入れると6人だけど)。いつも入れ替わりながら演奏やクテンコンをこなしている。
我々の場合、5人というのは、誰かが参加できないときの5人ではなく、5人でGender Tunjukなのだ。そうやって歴史はつくられていく。とか言っちゃって。


で、ま、話を戻すと、もともと優秀な画家の卵であったスチュは、ステージでもほぼ後ろを向いている写真が多い。これはポールに言わせれば、もともとミュージシャンには向いてなく、写真を撮られたりすると緊張して演奏をトチる可能性があるので、そういうときは後ろを向いているようにと助言したそうだ。
だからだろうか、最初のハンブルグ巡業(計三回の巡業に行っている)の際にクラウス・フォアマンに紹介されたカメラマン志望の女学生「アストリッド・キルヒャー」と恋に落ちそのまま婚約。二度目の巡業の際には早々脱退してしまった。
その後、ビートルズがメジャーデビューする直前、脳出血で急逝しているので、彼はビートルズの栄光をみることはなかった。ま、そういう悲運なというか、繊細な性格と運命だったんだろう。

ちなみに、初期ビートルズの代名詞であるマッシュルームカットは、アストリッドがスチュのために編み出したヘアスタイルである。
アストリッドはその後もいろいろビートルズとは関わりをもち、写真もたくさん残している優秀なアーティストだった。


スチュとアストリッド。
スチュはルックスも抜群で、もともとジョンの大親友。ポールはよくヤキモチを焼いたそうだ。


一方、ピートはいまも健在でその後もミュージシャンとして活動していった。しかし当時は、いかんせん、プロデューサーのジョージ・マーティンにダメだしをくらったドラマーだった。つまり、ビートルズをデビューさせたいならドラマーを換えろ、というわけである。メンバーにとってはなかなか厳しい選択だったことだろう。
そんなこんなで名誉と億万長者を逃したピートはいまでも悔しさを秘めている。

そこで無理矢理頼まれて加わったのが「リンゴ・スター」だったのである。
当時のリンゴは、リヴァプール一のバンドの押しも押されぬドラマーで、ジョンと同じ年であったが、少し早く生まれていたのもあってか、ビートルズは下に見られていた。ま、しょうがないから手伝ってやるかという感じである。
でも手伝ってよかったね、その後のああいう体験は普通ならできるもんじゃない。


ピート・ベスト。運命の分かれ道、彼もよくよく可哀想な境遇だ。


そんな経緯もあって、ともかく「ビートルズの5人目」は何人もいる。どこから見るかで違うだろうし、それにその5人目にビートルズは支えられてきたのだともいえる。
けれど、こと音楽的なことをいうなら、やっぱり「5人目のビートルズ」といえば「ジョージ・マーティン」だといつもおもうのである。

もともとは彼はクラシック系の出身で、EMIでもクラシック系の冗談音楽なんかをプロデュースしていた人物だが、最初にビートルズを見いだし、世に送り出したのは彼である。彼がオーディションしてくれなかったら、ビートルズは世に出たかどうかもわからない。
最初はビートルズのために他の人が書いた楽曲も用意していたらしいが、オリジナルにこだわるメンバーの強い希望で二枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を倍のアップテンポにさせ最初のチャート1位を生み出したのも彼である。


ビートルズ現役中のジョージ・マーティン。
彼らとの共同作業は、毎日が新しいことずくめだったと回想していた。
いろんな意味で、変化の大きな時代だったんだろう。


その後も「レット・イット・ビー」以外のビートルズのほぼ全部の選曲とアレンジとプロデュースを携わっていった。何曲かは自身のピアノでレコーディングにも加わったから、そういう意味では演奏者でもある。
ジョンやポールにピアノを教えたのも、コード進行や録音効果を教えたのも、メンバーの生み出すイメージを音にしてあげていったのも彼である。
「イエスタデイ」でストリングスを入れたのも、ポールの要望に応えて「ペニー・レイン」でピッコロ・トランペットを招いたのも、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」でオケをアレンジしたのも彼なのである。
そういう彼がプロデューサー兼アレンジャーだったからかはわからないけど、ビートルズの曲は古くならない、といつもおもう。

他にも、ポールが独立してから、007シリーズ「リヴ・アンド・レット・ダイ」の音楽を依頼されたときも、さすがに007ということで、ちょっとビビったポールは最後には結局マーティンに頼った。で、生まれたのがあの曲である。
ちょうど中学生の頃、ポールが音楽をやったというので早速その映画を観に行ったが、これ、もしかしたらジョージ・マーティン?とふとおもったのを鮮明に覚えている。当たっていたから覚えているのかもしれないけど。
他にも挙げたら切りがない。


そのジョージ・マーティンも先週亡くなった。享年90歳だったそうだ。
ジョンのときもジョージのときもショックだったが、かみさんからこの一報を聞いたときは、平生を装いつつ内心かなりショックだった。
それでというわけではないが、この日曜は久々にビートルズ三昧。CDを聴いたりDVDを観たりした。
ついでにジョージ・ハリソンの持っていなかったCD「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」(DVD付)も買ってしまった。映像はなかなかいいですよ。

ポールはすごいな、とおもう頃もあったし、やっぱりジョンだろう、とおもうときもあったし、でもやっぱリンゴのドラムスこそビートルズには絶妙だ、というときもあったが、だんだん年齢を重ねていくと、やっぱり「ジョージは深い」ということに気がついていく。

そういう意味で、ビートルズはまだまだ聴ききれていないのかもしれない・・・この際、もう少し、きちんと聴いてみよう。
そして、その影にはいつも「5人目のビートルズ」、ジョージ・マーティンがいたことを忍んで。(は/217)


晩年のジョージ・マーティン。いまではすでにヒストリーだ。


■新宿カレーにおもう

2016年03月14日 | 日常のお話


これを見て反応するのはダランくらいだろう。
実はこれ、京王が運営しているカレーチェーンで1食食べるともらえるサービス券である。トッピングのコロッケとかと換えるなら2枚から使えるが、10枚貯めるとカレー一杯が無料で提供される。
有効期限には3月末と9月末の二種類あって、半期単位の精算方法になっている。けれど、だいぶ猶予をもって配布されるので、通常約1年近い期限がある。
だいたいは、大学へ行く途中のお昼とか、土曜や日曜で午後から仕事に行くようなときのお昼、つまり、あまりゆっくりランチとかしていられないときなどにときどき食べる、という感じ。だが、なんだかんだ毎年無料のカレーを食べているので、結局は年に10回以上はここで食べていることになる。
そんなに食べてるかなぁ、とおもうけど、いつもあと二枚で十枚という頃になると、術中にはめられたとはおもいつつ、なぜか俄然行きたくなってしまう。

ま、近頃はこういうポイントやマイル商法が蔓延っている。いたるところの店舗がやっているので、カード制の場合溜まってしょうがないのと、安易に個人情報を提供するのは憚られるので、ほとんど登録はしない。
が、それでも、最低限、JALとJRのアトレや京王、タワレコやTカードやリブロ、その他にも洋服関係や薬局や飲食店などがあって、ほっておくとどんどん増える一方だ。
事務所のあるスタッフのを見せてもらったことがあるが、全部まとめると祐に5cm近くの厚さがあった。そんなの持ち歩くのか?といらぬ心配をしてしまう。
その点、この店の場合、毎度配布される薄~い紙切れだけだし、貯まってもそうやって全部使ってしまうので後腐れがない。


話を戻すと、この店、カレーの種類は、中辛、辛口、野菜、ビーフの5種類あって、カツやコロッケや野菜、あるいは季節限定など数種類のトッピングのほか、サラダなどが用意されていて、その組合せで頼む仕組みだ。
特段うまい、という部類のカレーではない。だけど、この店しかない「味」を持っている。
学生の頃、まだ馴れていないときは、年に1回も食べたかどうか怪しいところだが、だんだんその「味」に馴れてくると、ときどき思い出したように食べたくなる系のカレーなのだ。

きっと、そういう人も多いんだろう。店ではこのチェーンのカレーの缶詰やレトルトも売っている。その名は「新宿カレー」。だからこの店のカレーはもともとはきっと「新宿カレー」と言っていたのだろう。ダランのようにかつてはよく食べていたが、いまは遠方に住む人などには通販もある。


レトルトの「新宿カレー」。HPより。


で、このチェーン店、京王だけあって、沿線にすべからくある感じ。だから、吉祥寺や明大前、渋谷や新宿などで食べることが多い。
ところが、その慣れ親しんだ店がここ3~4年ほどの間に次々に改装されていった。

変わった点といえば、かつては、牛丼屋のようにカウンターで注文すると、奥から頼んだカレーを運んでくるという仕組みだったが、いまでは入口で食券を買い、その隣に進んでプレートとスプーンやフォークや紙ナプキンを取り、まるで学食のように並んで注文したカレーを受け取るという方法になったこと。
ま、いまでも新宿には立ち食い店もあるし、吉祥寺のように後払い制の店もあるけど、基本はこれに変わった。
テーブルへは自分でそれを運んで、食べ終わると返却口に自分で返すことになる。実際には、だいたいはスタッフが下げてくれたりするけれど。
あとは、オムカレー系や季節限定品やサラダなどのメニューが増えた点、ダランの好きな無料らっきょうが有料になってしまった点(福神漬けはいまも無料です)、インテリアがこぎれいになった点、などであるが、実は僕としては、注目点がもうひとつある。

それは、BGMがつねにビートルズになったということだ。もちろん有線だろうけれど、営業時間中は次から次へとずっとビートルズがかかっているのである。
ときどき行くお客ならまだしも、ある意味、毎日8時間そこで働くスタッフなどにとっては辛い面もあるかもしれないけどね。



最初、「なぜ、ビートルズ?」とおもっていたけれど、僕も嫌いではないのでその発想はわからなくもないが、よくリニューアル企画のなかでそれが通ったな、などと考えてもいた。
でも、そうおもって店内をみると、客層はバラバラ。男性が多目だが、10代から70代くらいまでほぼ均等にいる。そういう世代共通の音楽といえばビートルズは当たらずしもと遠からじ、という感じ。でもだからといって、それだけで企画は通らないだろう。

そこで思い出されるのは、ダランの好きな通販カレーでもある「新宿カレー」という名称だ。
そう、おそらくこのチェーンは、60年代頃、若者の空腹を充たす新しいタイプのファストフードとして、まず新宿に誕生したのではないだろうか。しかも、京王線。その発祥が新宿である可能性は多いにある。たぶん、その時代、新宿には若者や文化人たちに愛されたカレー文化があったのだ。
「書を捨てよ、町へ出よう」、「ここは広場ではない」新宿、学生運動で騒がしい新宿、そういう60年代の音楽こそビートルズだったのだ。もちろんフォークソングもあるが、それではいまどきのBGMが成り立たないだろう。
きっと、企画会議では、新しい店のスタイルは、いまこそそういうルーツに帰りましょう。このカレーを愛してくれたすべての利用者に好まれる音楽こそビートルズです、という話になったに違いない、と勝手に想像している。


新宿西口広場のフォークゲリラ集会。


坂倉準三先生設計の西口ロータリー。ベトナム反戦の人の群れ。
僕はまだ小学生だったけれど、当時は世界中が揺れた時代だった。



そんなことをおもいながら、しばしカレーを食べる手を止めて、ビートルズに聴き入ってしまう。
ああ、この曲聴いてた頃、あんなことあったな・・・、きっとそれぞれの世代が、それぞれの体験と重ねながらビートルズを聴いている。カレーを食べながら、それぞれがそれぞれの想い出と向き合っている「ほんの一瞬」があるのではないだろうか。
だから、その刹那、そこにはそれぞれの別の時空間が生まれているような気がしてくる。
やっぱり、音楽と体験的記憶は直結している。(は/216)


■人間とシッポの話

2016年03月12日 | その他
話をシッポに戻そう。
尻尾(シッポ)というなら、人間もかつては「猿」だったわけだから、尻尾の痕跡はある。それが「尾骨」、つまり「尾骶骨」というやつだ。
たぶん、進化論的には、人間は樹上から降りて地面で暮らし、直立二足歩行を選択したことによって、自ら危ない場所は避けるようになり、たぶんそのせいで、不用になった尻尾は退化した、というかもしかしたら進化したんだろう。


キツネザル。Websiteより。

よく手足を事故等で失くした人が、失くしたはずの手足が痒くなるという話を聞いたことがあるとおもう。それは、脳にその場所の感覚的記憶が残っていて、なにかの拍子に脳のその部分が刺激を受けたりするとそう感じることがあるらしい。
だから人間も、猿だった頃の古い記憶が脳のどこかに残っているはずだ。

この際一度、あなたもアルジュナみたいに瞑想するとか意識を集中して脳の中のあなたの「尻尾」を感じてみてはどう?・・・きっと、太古の感覚が蘇ってくる人もいるのでは? 
ほ~ら、そう、意識を集中して・・・そうそう、だんだん感じてきた、感じてきた。ブルブル揺らしてみるとか、そう、それが「尻尾」です。


メディテーションイメージ。Websiteより。


チャクラの図。Websiteより。


そのとき、もしかしたらこんな風になっているかもしれない(Websiteより)。


もしかしたらこんなかも(Websiteより)。


う~ん、なら、もし人間に本当に尻尾が残っていたらどうなるんだろう・・・?
世界にはいろんな奇人もいて、かつて、なんと尻尾のある少年の写真を見たことがある。
だけど、それ、なかなかエグイ。普通はあまり見ない方がいいだろうとおもうので今回のアップはやめときます。そもそもその写真、ロシア発中国経由のネット情報だから、いまとなっては真実かどうかも随分怪しい。
どこかの首相なら「匿名だから、実際どうなのかということは私には確かめようがないのでございます」と言うところだろうか。

ともあれ、もし尻尾があったら、と考えると、いくつも疑問が沸き起こる。
下着はどうなるんだろう。ズボンから尻尾を出すのか尻尾袋付きのズボンとかになるんだろうか?
女性ならスカートはいたりして、もし尻尾を振ったらめくり上がるではないか。
「あら~、お皿は尻尾で持つものよ」とか「お着物の尻尾は帯から出すのが正しいのよ」とかいって、レディのマナーや仕草もいまとは変わるかもしれない。
そうやって、きっと「尻尾ファッション」とかいうジャンルが確立し、寒いときは手袋じゃなくて、革や毛糸の「尻尾袋」が大流行とか、月間「尻尾美」とか「尻尾健康生活」みたいな雑誌ができるだんろうな・・・。なかにはリングとかジャラジャラする感じのものを着けちゃう若者とか、宝石とか埋め込むお金持ちとか出てきそうだ。
で、きっと尻尾が男前や美人のたとえになったり、もしかしたら「尻尾すり合うも他生の縁」とか言って結ばれるカップルもいるかもしれない。

かとおもえば、裁判所とかでも、虚偽の真相を「尻尾判定」とかいっちゃって、自白と同等に採用されたりするんだろうか。
逆に、ヤクザなら、なにか不義理をやらかしたら「尻尾をツメる」とかやらされるかもしれない。2cmづつツメれば何度かできるというわけだ。いやいや失礼。ブラックジョークです。


クモザル。器用に尻尾を使っている。尻尾は応用可能だ。(Websiteより)。

でも、街にもいろんなことがあっていまとは様変わりだろうな。
「あ~ら、お宅の息子さん立派なオシッポねぇ。」「いえ、娘です。」みたいな会話とか、
逃げようとして警察に尻尾を掴まれるドロボーとか、
疑惑の政治家がついに尻尾を出しましたとかパフォーマンスやって謝罪するとか、
尻尾専用高級エステとか、
台湾式尻尾マッサージとか、
「いま、私も試していますが、これ、とっても気持ちよくて手軽なストレッチ、毎日でもできそうです。いまならもう一台サービスでお付けします」とか言って通販している「尻尾ぶら下がり健康器具」とか、
病院でも、耳鼻咽喉科の隣は「尻尾科」とか、
「新陰流尻尾武術道場」とか、「尻尾相占い」とか・・・。
まあいいけど、なんだか、尻尾だけで2兆円産業とかできそうだ。


全然関係ないけど、先日の香港で見つけた看板。客寄せサービスはいいけど、詰めが甘い。

でも、尻尾があったりすると、きっと感情がすぐ見えてしまい、ポーカーや麻雀はできないだろうな。
 「あ、テンパったな、お前。」
 「えっ、そんなことないよ、なんで?」
 「だって、ほら、尻尾立ってるゾ。」
 「ええっ、ウソ?・・・あれっ??」
みたいなことがおこるに違いない。

尻尾は口ほどに物を言う。
やっぱり、尻尾はない方がよさそうだ。(は/215)


あんまいいい手じゃないな・・・。

■歩いて帰る

2016年03月11日 | 現代社会
今日は3月11日。あれからもう5年が経つ。復興が進んでいるとはいえないとそれぞれのニュースでは伝えている。難しい問題だ。
でも、5年が経った。
そこには、それぞれの5年。それぞれの当日があった。


WebNewsより。

僕の場合は、ちょうど出張から戻り、事務所にいたときだった。
かつて見たことのないような津波の映像がTVで流れ、各地の状況をリアルタイムで伝えていたのをどう受け止めていいかわからず、ただぼーっと眺めていた記憶がある。唖然とはこういうことをいうのだろう。
そのときはまだ原発のことにも頭は回っていないし、ここまで悲惨な状況になろうとは予測もできていなかった。

一方で、電車が止まっているというニュースを聞いた瞬間、スタッフがコンビニに走り、幸いまだ在庫は残っていたので、まず食料を確保し、他に飲物なども手に入れることができた。これで一旦は安心できる。
その後、別のスタッフが再び調達に行った際には、もう食料関係の棚は空だったそうである。瞬時の行動がいろいろ左右するのが危機的状況というものだ。

そうなのだ。以前、なんらかの事故があって新幹線が止まったときなどに乗り合わせたこともあったが、まず最初になくなったのは弁当だった記憶がある。そのときも、機転の利いたスタッフがいて、なんとか弁当は確保したものの、長時間止まっていると困ったことになる人もたくさんいたらしい。
ともかくこんなことでは、東京直下などいざというときに、コンビニはトイレくらいしか機能しないだろう。実際、何かあった場合の避難所も指定されているが、そのときは、どこへ逃げたらいいかすら知りもしなかった。

不測な事態のときこそ、その瞬間の判断がその後のいろんなことを左右する。正しい判断とは結果でしかない。一早い判断こそが分岐点なのだ。有事と無事との違いはそこにある。
そのための事前知識、そのための経験はきっと役に立つだろう。


Websiteより。当日はみんなこんな感じだった。


そんなこんなで、事務所は4時くらいには解散し、近くのスタッフなどはそれぞれ徒歩で帰路についたが、僕は一番遠いので、到底歩く気にはなれない。当時は散歩すらしてなかったので、長距離を歩くというビジョンも動機もイメージもなかったのである。
しょうがないから、電車が動くまで事務所でTVを見ながら不謹慎にも先ほどコンビニで買った食料で酒盛りをしていた。だってやれることもないからしょうがないと言い聞かせつつ・・・。幸い酒は事務所にたんまりあった。

そうこうしていると、10時を過ぎた頃だろうか、京王線が動き出したという情報をゲットしたが、それを確かめるのに時間がかかり、結局、事務所を出たのは、11時をまわっていた。
とりあえず、西麻布から渋谷まで歩いた。ちょうど国分寺から鷹の台くらいの距離だろうか・・・。
途中、六本木通りは数珠つなぎの大渋滞。いったいいつになったら動くんだろう、という感じで、バスなんかも10台以上追い抜いた気がする。
こうなったら乗っている人の方がたいへんだ。タクシーも何台も抜いたが、乗っている人は早く判断しないと料金だけが上がっていったことだろう。きっとわずか渋谷まで1万くらいかかるのではないかとおもうほどの渋滞だった。


Websiteより。ちょうどこんな感じだった。

渋谷に着いたら着いたで、例の大混乱。もう12時近いというのに、ロータリーはかつて見たこともないくらい有り得ないほどの人で埋め尽くされていたし、井の頭線の改札に行ったら、ここはここで大行列。
いろんな人が言っていたが、日本人はこういうとき従順というか、なんというか、大声出す人もケンカひとつおこらず、みんな大人しく整然と三列に並んでいる。
「ええ??いったいどこまで並んでいるだ・・・これに並んだら朝まで乗れないんじゃないか」とおもったほどである。
結局、その列は、井の頭線改札前からずっと連なり、JRをまたぎ、反対側のロータリーをぐるっと回るように繋がっていた。何百メーターあるのかわからない。トホホ、である。


Websiteより。当日の渋谷駅バスターミナル。

まあ、渋谷で飲み明かしてもよかったんだけど、この調子だとやっている店があったとしても、きっとどこも満杯だろうし、それを探すのも待つ気力もなかったので、何を焦ってもしかたがないという諦めにも似た状態で、とりあえず最後尾に並んだ。
吉祥寺に着いたのは、それでも2時過ぎくらいと意外と早かった。とおもうのは、そうゆう状況だからだろうか。

かつてこんなことは経験したことがなかった。ちょっと不謹慎だが、ある意味面白くもあり、ある意味、よい経験になった。それも、きっと身の安全だけは担保されていたからだろう。現地の人たちのように生きるか死ぬか、家族は元気か、という状態だったら、そんな呑気なことは言っていられない。僕らの苦労なんてたかが知れている。

あとで聞いた話だが、知り合いの一人は、六本木から千葉の先まで歩いたそうだ。当然、足も靴もボロボロになったという。12時間以上かかったらしい。人間、いざとなったら歩けるもんだね。
そうやって、人は程度の差こそあれ、それぞれの3.11を経験したのだ。それは大小では計れない忘れてはいけない危機的状況への貴重な警告と体験なのだとおもう。

かみさんとは、いざというときの待ち合わせ場所を決めている。電話が通じなくなることもあるからだ。
でももしそうなったら、いまならきっと、どんな状況だろうとどんな事態だろうと、瓦礫を乗り越えてどこまでも歩いて帰るだろう。そうやって、待っている人がいるというのは、最大の気力と意志の源なのだ。(は/214)