暑い日がいつのまにか台風の季節になった。
以前は、せいぜい熱帯低気圧しか来なかった北海道も、最近は台風が来るという。事実、いまの9号も北海道に上陸しそうな勢いだ。こういうのも気候変動のせいだろうか・・・。
それはそうと、仕事があるので最後まで見られなかったが、今朝の閉会式で今回のリオ五輪も終了した。
今回の大会は、総じて日本も随分メダルラッシュだったが、とくにバトミントン女子と陸上男子400mリレーは、画期的だったね。これも長年の育成の成果だろうか。
と、ついでにいうなら、なぜか理由はわからないが、世間が注目するほどには、いつも愛ちゃんとシンクロにはイマイチ感情移入ができない。いや、立派だとはおもうけど、なんか興味の向かないなにかがある。変だね。
それと、話題になったもののなかでは、この両選手が微笑ましく印象的だった。
朝鮮半島の北と南の選手。一緒に写真を撮っているのが話題になった。
社会とは関係なく、無垢な感じがよかったのだろう。世界の大人たちもこうあればいいのにね。
だが、それにもまして、今回もやっぱり「負けた選手」こそ印象的だった。
レスリングの吉田しかり、柔道女子の多田しかり、トライアスロンの女性しかり、常人にはわからないギリギリのところで勝負した結果の、押さえきれない涙がその感情の底をさらけだしている。露(あらわ)、なのだ。
そもそも「負ける」、とはどういうことだろう。いつの時代も「勝者」は絶賛され、モテハヤされる。今回なら何度も放映されたり、ゲストに呼ばれたりする。そりゃまあそうだ。勝ったんだから。
でも負けるということ、敗者になるということは、勝者の裏側、敗者がいたから勝者が生まれたように、実は一対の構造なのである。
決勝で敗れて床に伏せる吉田。いつまでも起き上がれなかった。
これを故山口昌男先生は、「中心と周縁」以来ずっと気にしていたのではなかったか。
世界の神話においても、村落や社会においても、中心と周縁、その外来者と共同体、異端と正統、美と醜、生と死、光と影は、それぞれの核心の反映をいだいている。バリなんてのはその典型のうちのひとつではなかったか。
いや、そんな難しい話しをするつもりはない。
「正」と「負」があるように、排除や差別があるように、正しく、勝ったものだけが世界をつくってきたのではなく、負けて排除されたものたちの「闇」が別の世界をつくって拮抗してきたからこそ、「深みのある調和」があるということ。こういう話しはダランならわかってくれるだろう。
そういえば、バブル崩壊とほぼ同時に「敗者の精神史」という本も出されていた。
簡単にいえば、数えきれないくらいの人物を調べ上げ、近代から昭和のなかの挫折を探り出した本である。おもえば、そう、僕らの先祖も明治官軍の敗者だった。
柔道には「敗者復活」という形式がある。ヨーロッパ系の競技にはない概念だ。チェスと将棋に比較にもあるように、死者も復活して化身する。日本には、死者=敗者を祀る伝統がある。敗者に一分の情けとも実力者の復権とも完全敗者にはしない仕組みともとれるのが、それである。遺恨を残さない半平等主義にもつながる考え方であろうか。
今回の柔道でも銅メダルをとった選手のほとんどが、これだった。
朝日新聞朝刊一面より。
それともうひとつ。男子100キロ超級決勝で王者リネールに敗れた原沢久喜の「顔」が見事だった。相手が「道」の精神をもっていたかどうかはこの際関係ない。一定のルールの元に負けは負けだ。
しかし、この顔、よく言われるように本当に「菩薩顔」だった。
菩薩を見たことのある人なんていない。ここで「菩薩」を云々しても始まらない。「菩薩顔」というのはイメージの問題だ。
ただこの場合の「菩薩顔」は、心理を読まれまいとする西洋のポーカーフェイスとは違う。むしろ「無心」と「得心」の表情だ。穏やかで、それでいて静かな気力に満ちている。が、感情は読み取れない。
今回は、試合中も終始そうだった。だから全然負ける気がしなかった。
「銀」は取ったがそれはそれニッポン柔道だし、これも、「負けた」ことに対するときの精神の現れであろう。顔には内面が現れる。それがきっと彼の「平常心」の露なのだ。
この顔をみていると、柔道金メダルの精神はどちらに現れていると見えるだろう。
かつて安部公房が、人のもっともニュートラルな表情とは「微笑」ではないかと書いていたことがあった。だから「モナリザの微笑」とは神秘なのかもしれない、ということだ。
当時はそうかもしれないとおもっていたが、いまとなってはそうでもない、かもしれない、とおもう。
この「菩薩顔」を見ておもうのだ。(は/254)
以前は、せいぜい熱帯低気圧しか来なかった北海道も、最近は台風が来るという。事実、いまの9号も北海道に上陸しそうな勢いだ。こういうのも気候変動のせいだろうか・・・。
それはそうと、仕事があるので最後まで見られなかったが、今朝の閉会式で今回のリオ五輪も終了した。
今回の大会は、総じて日本も随分メダルラッシュだったが、とくにバトミントン女子と陸上男子400mリレーは、画期的だったね。これも長年の育成の成果だろうか。
と、ついでにいうなら、なぜか理由はわからないが、世間が注目するほどには、いつも愛ちゃんとシンクロにはイマイチ感情移入ができない。いや、立派だとはおもうけど、なんか興味の向かないなにかがある。変だね。
それと、話題になったもののなかでは、この両選手が微笑ましく印象的だった。
朝鮮半島の北と南の選手。一緒に写真を撮っているのが話題になった。
社会とは関係なく、無垢な感じがよかったのだろう。世界の大人たちもこうあればいいのにね。
だが、それにもまして、今回もやっぱり「負けた選手」こそ印象的だった。
レスリングの吉田しかり、柔道女子の多田しかり、トライアスロンの女性しかり、常人にはわからないギリギリのところで勝負した結果の、押さえきれない涙がその感情の底をさらけだしている。露(あらわ)、なのだ。
そもそも「負ける」、とはどういうことだろう。いつの時代も「勝者」は絶賛され、モテハヤされる。今回なら何度も放映されたり、ゲストに呼ばれたりする。そりゃまあそうだ。勝ったんだから。
でも負けるということ、敗者になるということは、勝者の裏側、敗者がいたから勝者が生まれたように、実は一対の構造なのである。
決勝で敗れて床に伏せる吉田。いつまでも起き上がれなかった。
これを故山口昌男先生は、「中心と周縁」以来ずっと気にしていたのではなかったか。
世界の神話においても、村落や社会においても、中心と周縁、その外来者と共同体、異端と正統、美と醜、生と死、光と影は、それぞれの核心の反映をいだいている。バリなんてのはその典型のうちのひとつではなかったか。
いや、そんな難しい話しをするつもりはない。
「正」と「負」があるように、排除や差別があるように、正しく、勝ったものだけが世界をつくってきたのではなく、負けて排除されたものたちの「闇」が別の世界をつくって拮抗してきたからこそ、「深みのある調和」があるということ。こういう話しはダランならわかってくれるだろう。
そういえば、バブル崩壊とほぼ同時に「敗者の精神史」という本も出されていた。
簡単にいえば、数えきれないくらいの人物を調べ上げ、近代から昭和のなかの挫折を探り出した本である。おもえば、そう、僕らの先祖も明治官軍の敗者だった。
柔道には「敗者復活」という形式がある。ヨーロッパ系の競技にはない概念だ。チェスと将棋に比較にもあるように、死者も復活して化身する。日本には、死者=敗者を祀る伝統がある。敗者に一分の情けとも実力者の復権とも完全敗者にはしない仕組みともとれるのが、それである。遺恨を残さない半平等主義にもつながる考え方であろうか。
今回の柔道でも銅メダルをとった選手のほとんどが、これだった。
朝日新聞朝刊一面より。
それともうひとつ。男子100キロ超級決勝で王者リネールに敗れた原沢久喜の「顔」が見事だった。相手が「道」の精神をもっていたかどうかはこの際関係ない。一定のルールの元に負けは負けだ。
しかし、この顔、よく言われるように本当に「菩薩顔」だった。
菩薩を見たことのある人なんていない。ここで「菩薩」を云々しても始まらない。「菩薩顔」というのはイメージの問題だ。
ただこの場合の「菩薩顔」は、心理を読まれまいとする西洋のポーカーフェイスとは違う。むしろ「無心」と「得心」の表情だ。穏やかで、それでいて静かな気力に満ちている。が、感情は読み取れない。
今回は、試合中も終始そうだった。だから全然負ける気がしなかった。
「銀」は取ったがそれはそれニッポン柔道だし、これも、「負けた」ことに対するときの精神の現れであろう。顔には内面が現れる。それがきっと彼の「平常心」の露なのだ。
この顔をみていると、柔道金メダルの精神はどちらに現れていると見えるだろう。
かつて安部公房が、人のもっともニュートラルな表情とは「微笑」ではないかと書いていたことがあった。だから「モナリザの微笑」とは神秘なのかもしれない、ということだ。
当時はそうかもしれないとおもっていたが、いまとなってはそうでもない、かもしれない、とおもう。
この「菩薩顔」を見ておもうのだ。(は/254)