クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

ユーゴの悲劇(1)

2009年02月23日 | 欧州・中東関連
          ユーゴスラビアの悲劇
                                        [1]ユーゴと言う国                   
 ユーゴは、そもそも、スラブ民族の一派である南スラブの諸民族が纏まって出来た国で、それぞれの民族の歴史的、文化的背景が異なり、第二次大戦後に獲得した社会主義も、ソ連とは異なる独自のものである。その複雑な構成については、『一つの国家(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)、二つの文字(ラテン文字とキリル文字)、三つの宗教 (ギリシャ正教・カトリック・イスラム教)、四つの言語(セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語)、五つの民族(セルビア人[ボスニアはセルビア人]、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人)、六つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア、セルビア [コソボとボイボディナは、セルビアの自治州])、七つの国境と言うことからもモザイク国家であることは明白である。

歴史を手繰って見ると、この地がスラブ人の居住区になったのは遠く六世紀の頃らしい。そして南スラブ人の部族は次第に封建国家を造っていく。七世紀にはスロベニア地方に公国、九世紀にクロアチア王国、十世紀にセルビア、十一世紀にモンテネグロに公国、十二世紀ボスニア王国、十三世紀セルビア王国が出来、彼等の封建制度は13~14世紀に最盛期を迎える。しかし14世紀の終わりにはトルコの南スラブ侵略が始まり、1389年、あの有名な『コソボの戦い』でセルビア・ボスニア連合軍がトルコに大敗し、15世紀にはセルビア・ボスニア・モンテネグロは、トルコの支配下になり、残りのスロベニア・クロアチアはオーストリア・ハプスブルク家の支配するところとなる。
18世紀になると、彼等は民族解放運動を展開し、1877年からのロシア=トルコ戦争でトルコが破れると、セルビア・モンテネグロが解放される。しかし1908年にオーストリアが、ドイツを味方にしてボスニアを併合してしまったので、セルビヤはロシア・仏・英の協力で激しく抗議し、欧州に戦争の危機をもたらす。
1912年、第一次バルカン戦争が起こり、バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリヤ・ギリシャ)はトルコをバルカン半島から駆逐する。しかしセルビアの急成長はブルガリアとの抗争となり、第二次バルカン戦争でセルビアがブルガリアを破る。そしてこのセルビアの拡張は、セルビア王国の下での南スラブ諸国統一願望となり、同じ南スラブを自国の版図にいれようとするオーストリアと決定的な対決状態になる。
そして、これらの緊張が、1914年、サラエボでのセルビア民族主義者によるオーストリア皇太子の暗殺により、第一次世界大戦の幕を切って落としてしまうのである。
この第一次世界大戦で、ドイツに組みしたオーストリアが解体すると、ユーゴは1921年に立憲君主国を建設するが、国内は内紛が絶えず、国王暗殺事件も起きている。
第二次大戦では、仏の敗北を見た政府は枢軸側に傾き、1941年、『日・独・伊三国同盟』にも参画する。これに怒った民衆は、新政府を樹立し、独・伊との協定を破棄して、ソ連と友好不可侵条約を結ぶ。
1941年 4月、ヒットラーは宣戦布告なしにベオグラードを爆撃し、独・伊連合はユーゴに電撃侵攻する。王国政府はロンドンに亡命し、ユーゴは、たった十日間で降伏するが、抵抗運動による武装蜂起が起り、ファッシズムの打倒に大いに貢献し、ソ連軍との協力で
1945年 3月に臨時政府設立、 5月全土を開放、11月人民共和国連邦を設立している。現在のユーゴ社会主義連邦共和国への国名変更は1963年である。
         
この記録には、登場人物がやたらと多いし、名前も似たようなものがあって分りにくい。したがってグループ別に列挙して置く。

①セルビア関係者
 S・ミロシェビッチ…セルビア共産主義同盟党首、のちにセルビア大統領
 I・スタンボリッチ…セルビア幹部会議長、最高指導者
 R・カラヂッチ  …ボスニア内、セルビア人勢力代表
 R・ムラヂッチ  …ボスニア内、セルビア軍・強硬派指揮官
 V・シェシェリ  …ボスニア内、セルビア人民兵指揮官・『セルビア急進党』党首
 M・ショレビッチ …コソボ内、セルビア民族主義者
 B・ヨービッチ  …ミロシェビッチの側近
 A・バシリェビッチ…セルビア特殊工作班責任者
 N・コリエビッチ……ボスニア内、セルビア人共和国首脳
 B・プラブシッチ……ボスニア内、セルビア人共和国副議長             M・マルコビッチ……S・ミロシェビッチの妻                  ②ユーゴ連邦関係者
 R・ディズダレビッチ………ユーゴ連邦幹部会議長・与党セルビア社会党々首
 V・トウプルコフスキー……ユーゴ連邦党幹部
 M・クヤーニァッツ…………ボスニア派遣ユーゴ連邦軍司令官
 B・コスティッチ……………ユーゴ連邦幹部会副議長
 M・アクセンティエビッチ…ユーゴ連邦軍幹部
 B・マムラ……………………ユーゴ連邦国防相                   D・チョーシッヂ……………新ユーゴ大統領                      ドラシュコビッチ………ユーゴ連邦元副首相・最大野党・ルビア再生運動党首   M・トライコビッチ…………野党・セルビア抵抗運動党首             ③ボスニア関係者
 A・イゼトペーゴビッチ…ボスニア大統領
 H・シライヂッチ…………ボスニア外相、のちボスニア首相
 M・クライシュニッツ……ボスニア議会議長
 S・ハルロビッチ…………ボスニア政府軍最高司令官
 J・ディビヤック…………ボスニア政府軍将軍
 B・ガーニッチ……………ボスニア幹部会員
 H・ラホビッチ……………ボスニア軍情報部長
 N・オリッチ………………スレブレニカ・イスラム教徒勢力司令官         ④ユーゴ連邦その他共和国関係                           F・ツジマン…………………クロアチア共和国大統領
 M・ブラトビッチ……………臨時党大会議長、のちモンテネグロ共和国大統領   
 A・ブラシ……………………コソボ共産主義者同盟党首
 M・クーチャン………………スロベニア幹部会議長
 I・ラーチャン………………クロアチア代議員団長
 S・メーシッチ………………クロアチア議会議長
 M・ボバン……………………クロアチア人勢力代表

⑤国連関係者
 D・オーエン……………………ユーゴ和平会議共同議長
 D・キャリントン………………ユーゴ和平会議議長
 L・マッケンジー………………国連保護軍司令官
 P・モリヨン……………………国連保護軍副司令官
 J・メンディルーゼ……………国連難民局職員
 L・ホリングワース……………国連救援担当官
 D・アリア………………………国連非同盟ブロックリーダー
 D・ハネイ………………………国連英国大使
 M・ローズ………………………国連保護司令官
 M・ウイリアムズ………………国連特別顧問
 S・タルーア……………………国連PKO担当官
 明石康……………………………国連特別代表
⑥その他
 D・ミテビッチ………………ベオグラードテレビ副社長
 F・ザブル……………………スロベニア『ムラディナ誌』編集者
 J・ヤンシャ…………………『ムラディナ誌』防衛担当記者
 A・パシッチ…………………ズボルニク市長
 A・レイク……………………米国大統領補佐官
 W・クリストファー…………米国国務長官
 C・レッドマン………………米国ボスニア問題特使
 P・ガルブレイス……………駐クロアチア米国大使
 K・ミツォタキス……………ギリシャ首相
 D・ハード……………………英国外相
 V・ヂェルキン………………ロシア特使
 R・ハンター…………………米国NATO大使
 E・ウィーゼル………………ホロコースト生き残り作家
 A・ポハラ……………………イスラム教徒ジャーナリスト

[2]民族主義の台頭

①コソボの大博打                                1988年11月19日、セルビア共和国の首都ベオグラードで、その極端な民族主義政策が今日のユーゴ紛争を招いたとして、現在、国際的な非難を浴びている当時のセルビア共産主義者同盟党首S・ミロシェビッチは『我々は勝つ。国の内外で勢力を伸ばしつつあるセルビアの敵に言ってやろう。我々は恐れては居ない。戦うのは望むところだ。我々は全ての敵に勝ってみせる』と演説をし、民衆の民族主義を煽った。ユーゴの紛争が起き、世界中がセルビアの民族主義を非難した時である。
1980年、社会主義国家ユーゴ連邦の建国の父、チトーが亡くなる。彼は35年間の長きに亘り、ユーゴ連邦の六つの共和国を絶大な指導力で纏めてきた。彼はユーゴの中に民族主義的な兆候が見られるとそれを断固排除し、『諸民族の友愛と団結』をスローガンとした。それから七年の後、チトーの後継者たちは未だユーゴの統一を保っていたが、セルビア共和国では最高指導者スタンボリッチの右腕としてミロショビッチが頭角を現わしていた。ユーゴの悲劇は、その彼がスタンボリッチに反旗を翻したときから始まっている。
スタンボリッチはそれまで他人が仕掛けたワナは旨く切り抜けてきた事に自信を持っていたが、彼は自分が仕掛けたワナに嵌まってしまったのである。
ユーゴ内戦の火種は、セルビア共和国の中でも最も貧しいコソボ自治州にあった。彼自身がコソボに行けば良かったのであるが、1987年 4月20日、彼は自分の代わりにミロシェビッチをコソボに派遣してしまった。当時のコソボでは少数派のセルビア人が多数派のアルバニア人に対して反感を強めていたので、スタンボリッチはそれを押さえるために最も信頼する同志を現地に送り込んだ積もりであった。コソボのセルビア民族主義者M・ショレビッチに言わせれば、ミロシェビッチがコソボへ来たのは地元の党幹部と会談するためであリ、彼等のようなセルビア民族主義者の声を聴くためではなかった。しかし、コソボのセルビア人を前にして『他民族への憎悪から生まれた排他的なナショナリズムは時代遅れのものである。コソボのセルビア人はチトーの時代から堪えて来た。党も問題の存在には気付き改善の余地はあると思っている』と言う党のお決まりの言葉を並べ立てるばかりのミロシェビッチに対して、『党は何してる?』と言うセルビア人からの不満が飛ぶ。
ここでショレビッチは、ある策略を巡らし、日を改めて対話集会をする提案をして、その場を収める。こうしてセルビア民族主義者との対話を承知する事で、ミロシェビッチは、チトーの築いて来た路線から足を踏み外したのである。               民族主義者にとってコソボは歴史の全てがあるセルビアの心臓部である。1389年にセルビア人はコソボの平原で、オスマン帝国と戦い、大敗を喫している。イスラム教徒による支配の発端となったこの戦いは、セルビア人に癒し難い怨念を残した。それから600 年の後セルビアのTV局によってその遺恨の戦いが再現された。その撮影に駆り出されたエキストラの大部分は現在この地に住むアルバニア人であった。コソボの戦いの後、イスラム教への改宗を拒むセルビア人は、この地を去り、その後釜にイスラム教を受け入れるアルバニア人が入って来たのである。アルバニア人が、少数派となったセルビア人を迫害していると言うのがセルビア側の言い分である。
ミロシェビッチの側近のヨービッチによると、ミロシェビッチはコソボのセルビア人迫害に始めて目を向けた最初の政治家と言うことになっている。コソボ問題を利用しようと考えたミロシェビッチは、最も信頼できる者逹を集めた。彼等は今こそコソボのセルビア人を助けるべきであると煽る。彼がコソボで何かを企んでいるらしいと言う情報は、地元の党幹部のところに届いた。この時、コソボ共産主義者同盟党首のブラシは、ミロシェビッチの部下が、セルビア人勢力の幹部のところにやってきて何やら指示を出していたのを目撃し、それが汚い仕事を専門に引き受ける男であったので、何かが起きると思っていた。1987年 4月24日、ミロシェビッチが、コソボのセルビア人勢力と話し合うことになったいた問題の金曜日、ブラシはアルバニア人として同行する。会場は騒然とし話し合いが始まるとセルビア人たちは、アルバニア人たちが自分たちを追い出そうとしていると訴える。ブラシは、ミロシェビッチに対してこんな話は嘘だと何度も言ったが、効果は無かった。セルビア人の訴えが続くと会場の拍手は益々大きくなっていく。
会場の外ではセルビア人と警官隊が乱闘騒ぎを起していた。全てはミロシェビッチの計画通りに運んでいたのである。セルビア人たちは予めトラックに積んで用意してあった石を警官目掛けて投げ付けたのである。この状況を見てからショレビッチは、会場の中のミロシェビッチに対して『外の警官隊がセルビア人を散々な目に遭わせている』と通告する。ミロシェビッチは会場の外に出て、一生一代の大博打をうつ。『同志諸君、聴こうではないか?』と言ってセルビア人の説明を求め、彼等は、いかにアルバニア人と警官隊に迫害されたかを訴える。そしてミロシェビッチの『もう二度とあなた方を撲らせない』と言う一言によって、なにもかもが変わってしまう。
その夜のセルビアのTVは、コソボ問題でセルビア人支持を打ち出した彼を英雄のように祭り上げた。ミロシェビッチは当初の目的を達して満足であった。ここではセルビア人側が警官隊に石を投げたのが乱闘の始まりと言う事実は覆隠されてしまった。そしてここに『ミロシェビッチ神話』が誕生したのである。彼がコソボで勝手な行動をとった後、最高指導者のスタンボリッチは、彼と話し合いの場を設ける。しかし彼は間違ったことはしていないと言い張る。彼の言い分は『コソボ自治区でアルバニア人がやりたい放題のことをできるのは、そこが実質的に一つの共和国のような存在だったからである。コソボ議会の権限で、あそこではナチスの様な政策が実施されている』であり、彼の取り巻きは戦う事こそ最大の防御であると主張し、スタンボリッチの様な旧態依然たる指導者には退いてもらうしかないという側近のヨービッチの意見を入れて自分が最高指導者になれるように手を回す。セルビアの共産主義同盟中央委員会でミロシェビッチは、一気に攻勢に出て、代議員の支持をかき集める。コソボのアルバニア人代議員にまで頼み回ったと言われる。
そしてスタンボリッチが、コソボの改革を妨げようとしているとして、取り巻きに攻撃的アジ演説をさせ、党紀違反、独裁者と罵らせ、事態の急変に動揺している代議員を巻き込んで、急遽裁決に持ち込み、スタンボリッチを政治的に葬ってしまった。スタンボリッチは自分への支持票がたったの八票であるのを見て、全てを悟った。
ミロシェビッチは、ユーゴの支配権を得るためにセルビア民族を駆り出したのである。彼は火に油を注ぐようなことをしたので、セルビア人はこれを宣戦布告と見做し、最早問題はコソボだけに止まら無かった。                         600 年前にコソボの戦いで死んだラザール公の遺骨がセルビア中を行進して回り、セルビア人はかっての栄光を取り戻したいと言う思いを新たにする。かってはセルビアがユーゴを支配していた。しかし第二次大戦後、チトーはセルビアの突出を押さえるために、ボイボティナとコソボと言う二つの自治州を設ける。この二つの自治州は西のスロベニア、クロアチアと共にセルビアに対抗してくる。
ミロシェビッチは、先ずボイボディナ自治州にターゲットを絞る。コソボから大量のセルビア民族主義者が自治州に送り込まれ、食事と飲み物が振る舞われる。彼等は旧態依然たる官僚主義に対する革命と言う名目で、大群衆デモを演出し、仕上げには、ミロシェビッチが『ボイボディナの人々の不満が正当なものなら、自治州の党幹部は総辞職すべきであり、人民の意思は尊重すべきである』と声明文を読上げた。
この自治州の責任者たちは、かってのスタンボリッチと同じ様に『私は裏切り者ではないが、私の政策が認められないなら、辞任する』と言って無念の退陣を余儀なくされてしまう。
次ぎの標的はモンテネグロ共和国である。ここでも全く同じ手法で政権は辞任に追い込まれ、ミロシェビッチの息の掛った者が政権の座に付き『旧政府は我々の怒りの声を無視してきた。人民が政府を決定するのである。それこそが本来の姿である』なる声明で自らを正当化する。
1987年の初頭までに、ミロシェビッチはユーゴの半分までに支配権を浸透させた。しかしその範囲に入ったコソボでは、人口の85%を占めるアルバニア人が、1989年 2月に反撃に出る。労働者は抗議のゼネストに突入し、『ブラシを指導部に戻せ』と要求する。ブラシは、元コソボ共産主義者同盟党首である。ブラシは『私を支持するなら、アルバニア人もセルビア人も団結してくれ』と訴える。ミロシェビッチは、ブラシが運動の扇動者と決め付けて誰かが報いを受けることになると、何度も脅しを掛ける。しかしこれは単なるこけおどしには終わらなかった。ミロシェビッチを支援するため、又もやコソボのセルビア人が、ベオグラードの議事堂前に結集する。
ユーゴ幹部会議長のディズダレビッチの説明では、ミロシェビッチは、コソボでのストを組織したものは厳重に処罰すべきと強硬に主張したと言う。スロベニア幹部会議長のクーチャンもミロシェビッチが『セルビア人は自分たちの利益のために行動するつもりだ。それが憲法違反であろうと構わない』と言うのを聞いて危機感を募らせ、今度はスロベニアが標的になるかも知れないと感じて、会議を途中で退席して、そのまま帰国し、その夜、自国民に向けて演説を行う。1989年 2月27日の事である。『スト参加者が守ろうとしているのは、コソボのアルバニア人の権利だけではない。全ての共和国の権利を守ろうとしているのである』と言うセルビア人にとっては、扇動的なものであった。セルビアはこの発言を反逆としてとらえ、セルビアのテレビ局は一斉にスロベニアを非難し、クーチャンは大胆にもコソボやスロベニアの分離独立を擁護したと報道する。

翌日の夕方、休暇を与えられたコソボのセルビア人労働者が、再び大挙してベオグラードに押しかけ、議事堂前の広場を大群衆で埋める。群衆はミロシェビッチの名を呼ぶ大合唱となり、ここで彼はカリスマ的存在に成った。ミロシェビッチはユーゴ連邦の幹部会議長のディズダレビッチに対して、セルビア人の要求を飲むか?自分でこの群衆を静めるか?と言う最後通牒を突き付ける。しかし議長はデモを指揮しているのはミロシェビッチであるからそんな事は自分でやれと突き放し、人々に極端な民族主義の危険性を訴え、ユーゴ建国の精神に立ち返る団結と友愛を説いた。しかし彼の言葉は群衆には通用し無かった。そして遂に連邦幹部会は、コソボに連邦軍を展開する権限をミロシェビッチに与えてしまうのである。ミロシェビッチは議事堂前の群衆に対して『どんな力を以ってしてもセルビア人を押し止めることは出来ない。勝利の日まで闘おう』と言い、勝利宣言とする。
ブラシを逮捕しろという大衆の声もあったが、彼は聞こえない振りをして『良く聞こえなかったが、大衆の要望には最大限応えよう、ユーゴに背いたものは逮捕し処罰する』と答えている。
1989年 2月29日、非常措置が発動され、コソボの自治州議会は自治州の権限を縮小する憲法の改正をせざるを得なかった。アルバニア人の支持を集めていたブラシは、逮捕されるか?消されるか?とても無事では済まないと覚悟したが、結局、反革命罪で逮捕される。この逮捕への抗議行動はことごとく粉砕される。
ミロシェビッチによれば、彼等がセルビアの改革で打ち出した事は全て完全な合法的手段によるもので、しかるべき手順を踏んでいると説明する。

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