クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

ユーゴの悲劇(2)

2009年02月23日 | 欧州・中東関連
②スロベニアの抵抗
セルビアという巨人の独走に抵抗したのは、北部のスロベニアという小共和国である。
当時のスロベニアは、古い共産主義路線から脱却し、言論の自由を謳歌する国であった。若者向けの雑誌『ムラディナ』は、セルビアを嘲笑するような論調を展開して居た。この雑誌の編集責任者ザブルは、ユーゴでタブー視されていることを片端から取上げた。勿論党を非難する記事も積極的に掲載していた。彼はどこまでやれるか試していたのである。スロベニアの検察当局は、雑誌ムラディナの記事には違法性はないと考えて居た。しかしここへもセルビアの手が伸びてくる。ユーゴの国防相マムラは、スロベニアでの軍事演習を利用してクーチャンに『スロベニアの報道機関を取り締まれ、出来ないとは言わせないぞ』と圧力を掛けるがクーチャンは動かなかった。しかしムラディナへの攻撃が始まる。ある休日に、防衛関係を担当する記者ヤンシャが、ザブルの自宅を尋ね、ユーゴ共産党の秘密の会議録を渡す。それには『雑誌ムラディナの背後にはCIAがいる。スロベニアはユーゴの存続を脅かす反革命主義者を匿っている』と書かれていた。このまま行けば非常事態になり、軍が動くと判断したザブルは逆手を取ってこの秘密文書を雑誌に掲載する。これは明らかにユーゴの法律に抵触する行為であった。しかしスロベニアの指導者たちは連邦軍の圧力に屈し、秘密警察が担当記者のヤンシャを逮捕する。彼の持っていた書類の中には、軍の機密文書も混じっていた。事件との関わりを恐れたクーチャンは収拾を連邦軍に委ねてしまい、事件は拘置所の一室へと移る。取り調べたのはバシリェビッチ特殊工作班責任者である。この調べの中でヤンシャは、これは文書が記者の手に入るように仕組まれたワナであると言っている。秘密警察は彼をセルビアに逆らうと、どうなるか?の見せしめにしようとしたが、それが裏目に出て終う。それはこの出来事がユーゴの民衆の軍への反感を増大させることになってしまったからであり、やがてヤンシャは釈放される。結局クーチャンも、ムラディナ側に就くようになり彼等は対セルビアの共犯者に成った。このクーチャンの反逆はユーゴを根底から揺るがすことになる。彼はスロベニアの政治情勢を理由にして、連邦から離れようとし『政権に止まるにはスロベニア国内の声を無視するわけにはいかない』と言いつつ、連邦から離れることができるように憲法を改正すると発表する。これに対してセルビアは、連邦離脱を阻止するためにあらゆる手段を講ずると宣言し、ミロシェビッチは、クーチャンに『お前の首都に民族主義者を送り込んで集会をやらせ、お前が裏切り者であると叫ばせる』と脅迫する。
そして三度、コソボのセルビア人が駆り出される。彼等は真実を明らかにする集会のためと称して列車でスロベニアに押しかけようとした。しかし、コソボから地理的に離れたスロベニアに心強い味方が現れる。彼等の行く手の途中にあるクロアチア共和国が彼等の領内通過を拒否したのである。そして地元のセルビア人のみが参加したデモは、スロベニアの警察が十分対応できる規模であった。こうしてミロシェビッチは、スロベニア人を押さえる手段を別に考えなくてはならなかった。
それには1990年 1月20日のユーゴ共産主義者同盟の臨時党大会が選ばれた。友愛と団結を称える歌に聞き入る代議員たちは、この大会がスロベニアを封じ込める為のものであることを知って居た。クーチャンの頼みの綱は、ユーゴ第二の面積を持つクロアチア共和国であった。スロベニアは党大会での作戦を逐一クロアチアのラーチャン代議員団長に伝えて来ていた。ミロシェビッチは自分が取り立てたモンテネグロ共和国の最高指導者ブラトビッチを大会議長にして対抗する。スロベニアは膨大な量の改革案を提出するが、ミロシェビッチの作戦の実行者である議長は、提案のことごとくを審議もなしに否決に持込んでしまった。セルビア側の有無を言わせぬやり方には他の共和国も衝撃を受ける。クロアチアのラーチャンは、ただ否決するだけではなく、審議する事が必要であると訴えるが、議長は一々審議していては、何か月掛かっても終わらないと言う有様であった。こうしてスロベニア側は追い詰められるが、そこで退場すればスロベニアがユーゴの混乱を招いたと非難されることは分かり切っていた。しかしクーチャンはもう一度否決したら退場すると宣告する。最後の裁決に掛かろうとしたとき、指名もされないスロベニアの代議員が突然壇上に上る。『党のこんな傾向を容認できない。この状況では同盟を脱退せざるを得ない』と彼が発言した瞬間、スロベニアの代議員は一斉に退場し、議長席辺りに居た幹部も一緒に出ていく。
ミロシェビッチはスロベニアなしでも大会を続行できることを示そうとしたが、全ては
クロアチアの代議員の態度に掛かっていた。しかし、結局クロアチアも退場した。   ミロシェビッチは、この事件を指して『ユーゴの危機はクロアチアの責任である』と言っている。

[3]地獄の門
①ボスニアの運命
イスラム教徒が人口の四割を占める『ボスニア=ヘルツェゴビナ』、ここの最高指導者はセルビア共和国の台頭に脅威を感じていた。1990年、イゼトペーゴビッチ大統領は『セルビア主導のユーゴ連邦には残留しない。ボスニアを大セルビアの一部にはさせない』と表明した。しかしボスニアの人口の三割に当たるセルビア人たちは、当然ユーゴ連邦内にとどまることを望んでいた。セルビア人たちのリーダーのカラヂッチは、イスラム教徒の大統領に『ボスニアは地獄に引きずり込まれ、イスラム教徒は絶滅するかもしれない』と、事もあろうに議会で不吉な警告をする。これに対する大統領は、地獄の門が開いた事を感じたと述懐する。大統領は『今のカラヂッチの発言を聞けば、我々が連邦内に残れない理由が分るであろう』と言い返すのが精一杯であった。
1992年 3月、既に連邦は崩壊し、スロベニアとクロアチアは独立してしまっていた。しかしボスニアではイスラム教徒 44%、セルビア人 31%、クロアチア人 17%と言う民族構成のため、独立を巡り国論が二分していた。
ボスニアが運命を選ばなければならない時がきた。セルビア人の殆どは連邦に止まる事を願って居たが、イスラム教徒とクロアチア人は独立を望んだのである。
1992年 2月29日~3 月 1日の独立を問う国民投票によって大統領はイスラム教徒とクロアチア人から圧倒的な賛成票を取付けようとしていた。投票間近かで民族間の緊張の高まった日に、あるセルビア人の結婚式で事件が起きる。花婿の父親がイスラム教徒の男に殺害されたのである。これを機にセルビア人の民兵たちは首都サラエボの至る所にバリケードを作り、『サラエボのセルビア人は政府に要求する。ボスニア独立の国際承認を求めるのは中止すべきである』との声明を出した。まずい事にサラエボの警察も大統領率いる特殊部隊もセルビア人を圧倒する武力を持っていなかったので、首都の通りは殆どセルビア人民兵の手におちてしまった。政府軍が町の中心部を死守している間に、セルビア側は残りの町の大半を制圧し、高台には重火器まで配備してしまう。せまり来る戦争の影に市民たちは、その回避を指導者たちに懇願する。                     1992年 3月 3日のテレビ・ニュースは『この事態の責任は大統領とカラヂッチにあり、民衆はこの二人の会談を望んでいる』と伝え、二人はサラエボの連邦軍指令部で会談することに応ずる。
二人の会談は非難の応酬となり、クヤーニァッツ連邦軍司令官が仲裁に入る事もあった。一時間後、二人はともかく戦争の危機を回避する方法を見出だす。それは共同のパトロール隊が市民を守り、その任務に当たるのは、連邦軍とボスニア警察とするものであった。しかし、これでボスニアのセルビア人指導者カラヂッチが、おとなしく引下がったのではなかった。彼は自分たちの後ろ盾であるミロシェビッチが、クロアチア大統領ツジマンとボスニア分割の密約を交わしている事を知っていた。ツジマンは『ボスニアの三つの民族が一つの連邦を作れるならば、どの民族も幸せであるが、若しそれが不可能であれば、ボスニアは分割されるべきである』と言うが、彼自身は、ボスニアの南西部を勢力下に置くことで、クロアチアのセルビア人勢力を背後から封じ込めたいと言う狙いがあった。
彼はボスニア内のクロアチア勢とカラヂッチのセルビア勢力を、密かにザブレグに招き、数回に亘る交渉を行なわせた。彼等が合意したものは、ボスニア南東部のネレトバ川を境として、東部をセルビア、西部をクロアチア勢力圏とすると言うものである。
しかし、クロアチア議会議長のメーシッチによると、ボスニアのイスラム教徒の意向は全く無視された。カラヂッチはこの秘密交渉の内容をミロシェビッチに報告し、セルビア人がボスニアの大部分を乗っ取る作戦は順調に進んだ。
ボスニアの独立承認を目前にしてミロシェビッチには、至急手を打たなくてはならない問題があった。この頃、ボスニアには、連邦軍が配備されていたので、若し独立が承認されれば、その連邦軍は侵略者と見做される恐れがあった。その非難を避けるために、ヨービッチとミロシェビッチが相談をして奇策を思い付いた。それはボスニア出身の連邦軍将兵のみを故郷のボスニア駐留としたのである。この策によってカラヂッチは、十分な訓練も受け、装備も万全な兵士 80.000 人を手に入れた。
民族主義的グループのリーダーは過激な武装集団を率いていた。ボスニア内セルビア人民兵指揮官のシェシェリもその一人である。彼はミロシェビッチや連邦軍から派兵を要請される。こうした過激な民兵組織が最初に送り込まれたのは、ボスニア北東部の戦略拠点 『ビェーリナ』である。連邦軍から武器を供給された民兵たちはたったの三日間でこの町を占領しイスラム教徒住民のほとんどを殺害・追放し、政治活動家たちを強制連行する。事態を憂慮した大統領イゼトベーゴビッチは『この恐ろしい光景を繰り返させはしない。その為にボスニアの全市民に、イスラム教徒だけではなく、セルビア人にも、クロアチア人にも協力を求める』と声明を発表して、ボスニアの警察と民兵に国の防衛を要請する。1992年 4月 5日、何千人もの市民達がサラエボで民族共存を訴える平和デモに繰り出し、議事堂を占拠する。やがて群衆はボスニアを分割しようとしているカラヂッチに非難の矛先を向ける。カラヂッチの本部が設置されていたホリデー・イン・ホテルに向かって、人々が押し寄せ始めた。カラヂッチは直ちに警護の軍に連絡して、ホテルの最上階から狙撃兵にデモ隊への発砲を命ずる。サラエボの中心地から警察が出動し犯人は逮捕されるが、この間に、カラヂッチは逃れ、サラエボを見下ろす丘に陣を張り、市中に対して迫撃砲での攻撃を開始する。
この攻撃開始と共にセルビア人のボスニア議会議長クライシュニッツは、大統領に会見を申し入れる。用件はサラエボの分割に関しての取引であった。彼は『我々セルビア人は前から首都サラエボの分割を計画していた。町の分割は避けられない』と迫ったが、大統領はこれを拒否する。
セルビア側は、首都征服の前にボスニア東部を制圧する必要があったが、そこにはイスラム教徒が多数派を占める地域が含まれていた。セルビア人達は、セルビア人が多数派を占める地域の制圧の後、それにとり掛る。ゴラジュデ、フォチャ、スレブレニク、ズボルニク等で、地元のセルビア人達がイスラム教徒の市長たちに降伏を迫り、悲劇が始まろうとしていた。                                   ズボルニク警察は、武器を控えるように命じられる。イスラム教徒の市長バシッチは、こうした事態を全く予期していなかった。彼はズボルニクで戦闘が始まるなんて、どちらの側からも有り得ない、我々は共存できる筈であるといっていたが、その時は既に町は連邦軍の戦車に包囲されていたのである。この出動を命じたのはミロシェビッチである。ボスニアのセルビア人勢力シェシェリも要請によって民兵を派遣している。最強の部隊を送り込んだのはセルビア本国である。それはレッド・ベレーと呼ばれる特種部隊でセルビアの情報局に所属するコンバット部隊であった。シェシェリはその作戦会議で殺害すべきズボルニクのイスラム教指導者の名前を読み上げる。セルビア側の攻撃が開始されるとイスラム教の守備隊は、その日のうちに町から撃退されて終う。
1992年 4月 9日、この日、一人の国連職員がズボルニクの手前で車を止められる。国連難民局のメンディルーゼである。ボスニア・セルビアの国境では、ズホルニクから逃れようとするイスラム教徒を捜し出すために、憲兵隊が厳しい検問を始めていた。セルビアの民兵たちは、国連職員が到着した時には、残っている敵を打ち殺している最中であり、その遺体は女性も子供もトラックに無造作にほうり込まれ処分されていた。行方不明者 2.000人、何人がその場で打ち殺され、何人が収容所で殺害されたのか分らない。生き残ったイスラム系住民は全て町から追い払われる。ここズボルニクの 49.000 人のイスラム教徒がその姿を消そうとしていた。五世紀にわたるイスラム教徒の生活と文化がこの地から抹殺されるのである。これが『民族浄化』である。
セルビア人たちは、こんな非人道的行為を繰り返しながらボスニア領土の四分の三を奪っていったのである。                               民族浄化の計画は大方ベオグラードで立てられた。ミロシェビッチは、組織的大虐殺とか彼自身が計画したなどとは、論外のデマであると言い張っている。
ボスニア外相シライジッチは、ボスニアの悲劇は状況を考えれば、大統領も軍事介入を頼むしか道はないとして、国際社会に要請するが、国際社会が、1992年 4月23日にボスニアに送り込んだのは、軍隊では無く、ユーゴ和平会議のキャリントン議長であった。彼は大統領にボスニアを民族毎の州に分割する案を提示する。キャリントンの証言によると『セルビア勢力は圧倒的に優位にたっていた。彼等はミロシェビッチから援助を受けていた』と言う。彼は大統領に『どんな相手に立ち向かっているのか?あなたには分っていない。セルビア勢は何千台の戦車と何百機の飛行機、数千台の重火器、山のような弾薬を持っている。どうやっても抵抗は不可能である』と言うが、大統領は『我々に選択の余地はない若し降伏すれば皆殺しになるだけである』と苦境を訴えた。
1992年 5月 2日、戦闘が激化する中で首都サラエボはセルビアの大規模な攻撃にさらされる。セルビア人の破壊活動家たちは、サラエボの中央郵便局を爆破、更に大統領官邸や、ボスニア政府軍の指令部を始め、町の殆どの電話回線を使用不可能としてしまう。セルビア軍は連邦軍の戦車と戦闘機の援護を受け、三方向からサラエボの中心部に迫っていた。多民族国家を支持する市民たちが続々と首都の防衛に立ち上がる。軍人もギャングのような者も、中にはセルビア人も混じっていた。ボスニア政府軍将軍ディビアックの話によれば、セルビア勢が町の中心へ通ずる橋を渡ったとき、遂に最悪の瞬間が来たと思ったという。なぜなら、そこから大統領官邸までは50㍍しかなかったからである。                                               しかしサラエボの狭い通りが防衛側の強みとなり、ボスニア軍は対戦車砲でセルビア機甲師団の侵入を防いだ。更にボスニア軍は形勢を逆転させ、連邦軍指令部に迫った。連邦軍司令官のクカーニヤッツは、その時の事を『あれは死ぬか?生きるか?の戦いであった。我々連邦軍の兵力は総勢二百人ほどであった。一方ボスニア軍は何千人もいた』と回想する。連邦軍指令部は完全に包囲され、戦闘は膠着状態になる。このすきに、イゼトペーゴッチ大統領は召喚されていたEC和平会議に出席するためリスボンに出発する。その帰途に飛行機がローマに立寄ったとき、パイロットはサラエボ空港に着陸許可を問い合わせるが、閉鎖中との返事であった。閉鎖された空港から大統領が出るのには国連の保護が必要である。既に国連保護軍のマッケンジー司令官は部下をその任務のために空港に送り出していた。しかし定刻になっても飛行機は姿を見せず、飛び立ったか?どうかの連絡もつかなかった。
やむをえず国連部隊は空港から立ち去る。サラエボ空港で大統領の出迎えに現れたのは
連邦軍であり、大統領は簡単に拘束されて終う。
連邦幹部会副議長のコスチッチは、思いがけない幸運に大いに喜んだが、連邦軍が大統領を捕虜にしたと言う言い方をすると、問題なので、大統領の身の安全のために保護をしていると言うことにした。
逮捕された大統領は一刻も早くこの事を幹部に知らせようとチャンスを窺った。丁度そのとき子供たちの団体が、サラエボ空港から避難しようとしていた。子供を心配したある母親が僅かに繋がる回線を使って空港に電話を掛けてきた。大統領はその電話を利用して官邸とテレビ局への連絡を依頼した。この母親は直にテレビ局に電話するが、連邦側は大統領を空港から支配地域に移していた。しかしテレビ局のスタッフが行き先を突き止める。1992年 5月 2日のサラエボ・テレビニュースは、番組中に大統領とのやり取りを中継したのである。そのとき大統領は連邦軍の捕虜となっていることを告げる。サラエボ中が驚愕して成り行きを見守った。このとき大統領は自分が殺害される事を想定して、幹部のガーニッチを大統領代行に任命する。連邦軍は大統領の身柄と引き換えに、サラエボで包囲されている連邦軍の安全なる撤退を条件とした。
ガーニッチは国連司令部で連邦軍と具体的な交渉を始める。彼は民主的に選出された大統領を拘束する軍隊等世界の何処にもないとして大統領の解放が先であると主張するが国連のマッケンジーの仲介で、クヤーニアッツと数人の部下の解放で同意した。
しかしマッケンジーが大統領の救出に向かうとクャーニアッツは、連邦軍兵士全員の解放を要求する。マッケンジーは断ったが、大統領の依頼でその条件を認めた。
マッケンジーの国連の車に先導されて連邦軍の撤退部隊が進むが、道の両側から復讐心に燃えるボスニア政府軍が取囲んでいた。そしてボスニア市民や兵士が撤退軍の隊列を分断して終う。銃撃も始まる状況にボスニアのディビアック将軍が制止するが、収まらない。実は合意は、クヤーニアッツと数人の部下の解放であり、全員に付いてはこれからの交渉であったから、ボスニア政府軍司令部は、全員を認めた大統領に反乱する形になった。
漸くディビアック将軍が現場の指揮官を宥めて治まりをつけ、大統領はボスニア支配地域に戻るが、難を逃れたクヤーニアッツは本格的な首都攻略に乗り出すことになる。
1992年 5月22日、ボスニアはスロベニア、クロアチアと共に国連に加盟するが、米国国務長官ベイカーは『米国の軍事力を一方だけに使うことは有り得ない。わが国は世界の警察ではない』と言明し、領土の奪還に手を貸してくれる国は無かった。
この頃、ボスニア内のセルビア人指導者のカラヂッチは、セルビア人部隊の結成を宣言して強硬派のムラヂッチをその指揮官に任命する。ムラヂッチは部下に大統領官邸と議事堂砲撃を指示する。彼の指示は、『やめろと言われるまで断続的に撃て、イスラム教徒の気が変になるまで彼等の居住区を狙え』であった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿