クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

日本の暗黒・平沢貞通の冤罪

2009年02月23日 | 日本関連
       日本の暗黒・平沢貞通の冤罪

敢えて『冤罪』と題する。冤罪と判って居たから刑の確定後、歴代の法務大臣は死刑の執行をする事は出来なかった。しかし、国は遂にその誤りを認めること無く、本人の死亡を以て全てに蓋をしようとしている。正しくこれは昭和日本の暗黒である。彼の無念さを忘れないようにここにその経緯を記録する。



1987年(昭和62年) 5月10日、八王子医療刑務所で一人の年老いた死刑囚が肺炎のため病死した。



逮捕以来、39年間も獄に捕らわれ続けた男・平沢貞通(サダミチ)であった。彼は無実を叫び18回に亘って再審の請求を行ったが、ついに生前その願いが果たせずに無念の獄死を遂げたのである。彼の死後、遺品は養子・平沢武彦氏の許に返還されたが、彼が獄中で使っていた絵の具・絵筆・パレットなどもある。貞通は逮捕前には、日本水彩画会の審査員を務め、文部省美術展の文展には無鑑査で出品するなどができた一流の画家であった。
56歳で逮捕された後も、狭い独房の薄暗い電灯の下で故郷の北海道の景色などを描き続けた。独房には『北洋の日の出』と言う一作が架けられていたが、釈放への希望の光を描いたのかもしれない。                              『名月の 光に清し 鉄格子』『鉄窓に 咲きたる花の 浄さかな』

帝銀事件で画家生命を絶たれた貞通、しかし死刑台を前にしても二千点余りの絵を描き続けた。絵を以って汚名を晴らす。どの様な冷酷な扱いを受けようとも、納得の行く絵を描き続けようと言う堅い信念が獄中39年の貞通の精神を支えていた。
2000年の夏、貞通の故郷・小樽の市立美術館で青春期と題する展覧会があり、その中に貞通の作品一点が展示された。北海道の美術館で彼の絵が展示されるのは、帝銀事件以来初めての事である。市立美術館の関係者は、北海道の美術史を語るとき、画家・平沢貞通は無くてはならない存在であると言う。それは『網子のとき』と題された1940年作の北国の漁民を描いた大作である。この絵に入って居る『大章』と言う署名は、当時師事していた横山大観から貰った『大日章』縮めて作った漢字である。

東京に生まれた平沢が小樽にやってきたのは、1909年(明治42年)旧制中学3年の時である。父親は憲兵隊長を退官した後、小樽で牛乳の製造販売をやっていた。小学生の頃から画才が抜きん出ていた彼は、旧制小樽中学(現・小樽潮陵高校)に転入すると直ぐ美術部に入って将来の画家を目指した。中学4年の時、東京小石川の水彩画研究所に加入、卒業後には早くも『日本水彩画会』の結成に発起人として参加して居る。
1914年の第一回二科展には、アイヌの女性を描いた作品『コンブ乾すアイヌ』を出品し、22歳にして初入選を果たし、中央画壇に華々しくデビューした。美術評論家の針生一郎は、平沢が若い頃の作品の中で社会に目を向けていたことに注目する。この絵もアイヌに課せられた過酷な労働に対する同情であると評価して居る。同時期の『うろつく不具者』でも社会の余計者みたいな存在を描いている。
                                        1922年(大正11年)に建てられた『酒造・北の誉れクラブ』の和光荘は、昭和天皇・皇后も泊まったことがあり、大正後期の小樽の活況を偲ばせる歴史的な建造物であるが、昔の面影を思わせる第一ホールの正面に、建築以来80年間飾られ続けている一枚の絵がある。『赤松と海』と題して北海道函館地方の赤松と海を描いた逸品で、作者は平沢である。平沢は1919年に第一回帝展に初入選後、16回連続で入選を続け中央画壇に確固たる地位を築いていった。

彼は家族と共に終戦を疎開先の北海道・洞爺湖の近くで迎えている。1947年(昭和22年)になると、日本水彩画会は創立35周年を迎え、記念行事として『皇太子殿下献上画展』を企画する。審査員でもあった平沢は、自らも出品すべく北海道で写生旅行を続けていた。そして完成したのが『春遠からじ』と題する大作である。彼はこの絵を持って帰京すべく、函館から青函連絡船『景福丸』に乗った。4月下旬のことである。当日の一等船室は満員であり、一人の紳士がソファーに寝かされ憤慨して居た。寝台を確保できて居た平沢は気の毒に思い、持参していたモカのコーヒーを取り出してボーイに熨れさせ紳士に飲ませた。その紳士は機嫌を直して喜び、平沢に一枚の名刺を差し出し名刺を交換した。名刺によるとその紳士は『厚生技官・医学博士・松井蔚(シゲル)』であった。この一枚の名刺のために平沢は地獄に落ちる運命を辿ることになる。



1948年 1月26日、事件は起きる。当時のニュース映画を再現すると『1 月26日午後、東京に凶悪な大量殺人・強盗事件が起こりました。東京豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員たちが東京都の衛生課員と称する男にチフスの予防薬だと言って青酸カリらしき毒薬を飲まされ、たちまち16人の行員は店内のあちこちに倒れて苦悶、内12名は間もなく死亡…』であった。


椎名町帝銀支店


人々は戦争の悪夢を思い出し驚愕・戦慄した。実は椎名町事件の3か月前、旧安田銀行荏原支店で同一犯と思われる未遂事件が起きていた。この荏原の事件で犯人は一枚の名刺を残して逃走して居る。その名刺こそ平沢が青函連絡船で出会った厚生技官・医学博士・松井蔚のものであった。しかし、当の松井には確実なアリバイがあったので、警視庁は松井と名刺を交換した者の捜査を開始した。やがて交換の相手で回収不能の物が22枚あることが判明、平沢が受けとったのもその中の一枚であった。
8 月21日、平沢(当時56歳)は小樽の実家で逮捕される。松井から受けとった名刺は、前年の8月に三河島で財布ごと掏られたと説明し、荒川署にはその時彼が提出した掏り被害届が保管されていたにも関わらず、警察ではそれらは黙殺された。この辺りで既に当時の警察が迷宮入り大事件が続き威信が落ちていたので、何としてでも平沢を犯人に仕立てて終うと言う決め打ちであったことが明白である。これよりずっと後年に起きた松本サリン事件では、河野義行氏が危うく犯人にされ掛かって、一年後にオームが地下鉄サリン事件を起こした事によって漸く冤罪を免れた事例があるが、警察の功名心に泣かされ人生を狂わせるのは何時も庶民である。                いずれの場合も警察当局の科学的知識の貧困さによって、犯行に使われた薬品の認定を決定的に間違える事から冤罪は始まって居る。河野氏の時などは、サリンと気付き個人で作れるものでないと警察が認識した頃は、被害者河野氏はズタズタに打ちのめされて居た。しかし河野氏と数少ない支援者が検察の横暴とマスコミの無知蒙昧な報道に決して屈しなかった事が救いであった。帝銀事件では警察の主張する青酸カリなら即座に反応するから、最初に飲んだ者が異状を呈するので16人全員に薬を飲ませる事は絶対に無理である。 犯人の使ったのは飲んでも数分は利いてこない無味無臭の特殊な毒薬である。これに該当する薬品は、戦時中に陸軍登戸研究所で開発した『青酸ニトニール』以外にはない。従ってこの事件には登戸研究所の者が必ず関与して居る筈である。しかし彼等が帝銀事件で取り調べられた形跡はない。何故なら当時米軍は登戸関係者・731 部隊関係者を全て、監視下に置き、その研究内容を軍事目的で吸収しようとし、中国などでの大量実験虐殺の事実にも戦犯として指名して居ない。この事件の条件に米軍占領下の日本と言うことがある。
                          当時の平沢は、既に北海道を引上げ東京中野区に新居を構えて、家族と暮らしながら絵の制作に没頭して居た。彼の主張によれば、事件の当日は自宅を出て、丸の内の船舶協会に勤める次女の婿を訪ねて居る。婿が『今夜は新年会で遅くなりますが、炭団が出来ておりますから家に寄って下さい』と言ったので、午後2 時 20 分頃辞去した。それから東京駅まで歩いて日暮里までの切符を買い、山手線内回りに乗って鶯谷で降り、東日暮里の婿の家に立ち寄り、次女に会った。炭団の入ったボストンバッグを貰って午後 3時半頃辞去した。丁度、帝銀事件が発生した時間である。この事実は次女が法廷でも証言したが家族の証言であるからと言って取り上げられなかった。これは何時も理解できないが、家族の証言は全く信用できない、参考にもしないとするのは日本の司法の悪しき慣習ではなかろうか?親族以外の証言なら信用に足ると言う保障がどこに有るのであろうか?通常、勤めていない者の行動証明は家族が多いのではないだろうか?司法は悪しき前例を作り、裁判官は前例に従う事が正しい事と言う、事なかれ主義の集団なのであろう。
彼にはもう一つ疑われる理由があった。事件直後、出処不明の大金を所持していたのに、公判の中でその出所を明かさなかったからである。彼は死刑が確定してから『恥ずかしながら春画を描いて得た金であった…』と告白して居る。時代を考えれは終戦直後の混乱期で芸術のみでは生活できず、裏の仕事に手を出していたのは考えられることであるが、一流を自認する彼のプライドがそれを明かすことを拒んだのであろう。
最近、養子の武彦氏のところに、小樽市内の素封家が平沢の描いた春画を持っていることが伝えられた。もしそうならば、出処不明だった金の出所の重要な手掛かりになるし、金欲しさに帝銀事件を起こしたと言う検察の主張する犯行動機さえ無くなるのである。それは12枚組の巻き物であり、署名こそ無かったが画風は平沢その物であった。
実際に終戦直後には大家と言われる人も春画を描いて居た例は多いらしい。財界人たちが芸者遊びの一つとして描かせた事もあったと言われる。武彦氏はこれを専門家の鑑定に出す事にしている。一時期、平沢の犯人説の一つに彼がテンペラ画の大家であり、そのテンペラ画の材料には青酸化合物が使われていると言うのがあり、我々も信じて居たが、テンプラ画材にはそのような事実は全く無い。風評とは全く魔物である。
逮捕二日後の 8月23日、東京に護送されて来た平沢は、その日から警視庁で取り調べを受ける。

逮捕

護送



彼は取り調べ三日目に、隠し持って来たガラスペンを静脈に突き刺し自殺を図った。彼は身の潔白を死を以て明かそうとしたのである。彼はその後に犯行を再現する動作をやらされ、それは映像に撮られて公表され、見た者には犯人の実地検証の印象を与え、警察の敷いた路線によって、次第に犯人に仕立てられていった。そして9 月の末、それまで頑強に否認し続けてきた平沢は『お前の芸術家生命をどうにかして残してやりたい。もう一度、清純な心に戻って絵筆を取ってみたいとは思わないか?』という取調官の一言で犯行を認める発言をしてしまう。これは検察による良く計算された一種の拷問であり自白の強要である。『紫の 匂える藤を 眺むれば 絵筆恋しく 手錠を眺める 』

裁判


公判が始まると平沢は当然の事ながら自白を翻し、全面的に犯行を否認した。しかし驚いた事に一審・二審とも裁判長は決め手となる物的證據も全く無いまま、本人が強く否定して居る自白のみを唯一の證據として死刑の判決を言い渡した。

自白記事


こんな裁判が現実に日本で行われていたことに恐怖感さえ覚える。当然平沢は上告したが、1955年その上告は棄却となり死刑が確定した。逮捕前は一流の画家であった平沢は、判決後には美術年鑑からもその名前が消されて終った。恩師の横山大観は平沢の逮捕後の記者会見で『平沢なる者など全く知らない。まして弟子にした覚えなどはない』と言い切った。いかに著名な大家と言え、この卑劣さはどうであろうか?大観など一部神格化に近いが、人間的には最下等と言わざるを得ない蛇蝎すべき人物である。
平沢は自分の代表作を絵葉書などにしてアルバムにして居た。このアルバムには全部で 百点が入って居るが原画の所在を確認できるのは一割にも満たない。アルバム第一ページを飾るのは1920年作の『春ちかし』であり、日本一の水平線画家を自称する彼の自信作であるが、原画は札幌の美術愛好家の応接間に飾られて居る。しかし残念にも、何人もの人の手に渡ってきた過程で、平沢の署名が削られていて、所蔵者の胸を痛めて居る。
画家生命を絶たれた平沢は獄中においても絵を描く事はやめなかった。恩師からの雅号も裏切りに遭ってから使わずに『光彩』とした。『十八自我像・想い出再描』では若い自分を明るい画調で、死刑確定直後には『浄』を暗く絶望感で描いて居る。
1962年、彼は巣鴨拘置所から絞首台のある仙台拘置支所に移される。ここでも彼は日々死の恐怖と闘いながら絵筆は放さなかった。『けさもまつ 死刑執行の 言い渡し』
獄中では富士百景にも取組み最後まで完成させて居る。最後の百景目の『白雲湧く』は様々の思いを雲に表現した名作である。その他には若い頃過ごした北海道の風景も数多く描いた。奪われた物を再現することは彼にとっては奪った者への闘いであった。『黄色い日の出』は希望の証しであるが、1974年に同じ拘置所で無実を訴えて居た二人の死刑囚が処刑された時は『北洋の朝』という激しい絵を残している。
この年の11月、心臓発作で危篤状態に陥った彼は東北大学付属病院に移送されるが、驚異的な生命力で立ち直り、4か月後には再び拘置支所に戻される。82歳、逮捕から26年目のことである。
長期の留置期間で彼の心配ごとは、家族の事であった。獄中でも長女の肖像を『いかり』と題して描いている。彼の逮捕後の中野の自宅は連日野次馬が集まり、孫も小学校に通うことができなかった。周囲の迫害で一家は短時日の間に崩壊し離散した。
しかし支援者もいた。1979年 2月に彼が獄中で米寿を迎えた時は、『平沢を救う会』の事務局長であった作家・森川哲郎(養子・武彦氏の実父)の妻・森川澄子さんはお祝いの赤のチャンチャンコと帽子を差し入れている。彼は合掌して喜び、鏡のない独房部屋で、夜間の窓にそれを着た自れを映して自画像を描き『ただ感謝 一名捧げ 正義貫徹 米寿かな』と書き添えて居る。
その年の暮れ、彼を支え続けてきた妻が86歳で亡くなった。彼女は1962年に戸籍上は離婚して居たが、面会、差し入れと支援は続けていたのである。
『顔蒼き 痩せし子背負い 細き掌ふって我を見送る 小樽の駅の妻の顔若き』
妻の死を境に彼の衰弱は急速に深まり獄死が案じられるようになる。東京・阿佐ヶ谷にいた武彦の父・森川哲郎は平沢を励まし、彼が獄死した後に再審請求を継続するために、自分が養子になろうと言い出した。息子の武彦は病弱の父親より自分が適任と判断して、父親を制して自分が養子になると宣言した。これを聞いた平沢は新天地が開ける思いと喜びこの申出を受け入れた。翌年、哲郎氏は息子に後を託してこの世を去る。僅か58歳。
こうして養子・平沢武彦が誕生し、全てを闇に葬ろうとしている当局に戦いを挑み、結婚も就職も捨て、平沢の名誉回復に生涯を懸けようとしている。同じ阿佐ヶ谷でレストランを経営する元プロボクサー・山本晁重郎氏も森川親子に劣らず、平沢を支援し、『平沢は事件の被害者である』と声高に世に問うて居る。

葬儀で挨拶する養子・武彦氏


1987年5 月10日、彼は獄中で無念の死を迎えた。95歳、戦い抜いた男の死であった。  平沢は今、故郷小樽の町を見下ろす高台の『小樽市中央墓地』に両親と共に眠って居る。両親は逮捕の翌年、心労のため相次いで亡くなった。生前の彼は、この両親の墓参りをしたいと念願していた。支援者には『墓参りをすれば、無実を信じた父母の墓、音を立てて震えると存じます…』と伝えて居る。この両親の最期を見とったのは、小樽市郊外に住む彼の弟の妻・ツルとその姉・秀子であり、二人とも最初から冤罪であることを確信し、彼の無念さを引き継いでいる。 『情あつかりし 父母おもえば ただ涙』

彼の獄死から15年後も武彦氏の元に一枚の未完の絵が残されている。縦90㌢横170 ㌢の獄窓から見た拘置所の花壇の花を描いた物であるが、喜寿の誕生日に『出所後に完成を期す』とメモを添えて森川家に送ってきたものである。この絵は明るい画調であるが、左下に暗い影が描いてある。それは拘置所の影である。自らを不当に閉じ込めて居るこの影の部分から自由に満ちた明るい部分に出て見たいと言う思いが込められている。
帝銀事件から52年後の2001年、埼玉県で彼の絵画展が開催される。再審請求の絶え間ない努力と共に、彼には再び画家としての光が当てられようとしている。
念願の再審請求が成立するように陰ながら祈りつつ、平沢貞通の霊に合掌。

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