クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

ユーゴの悲劇(3)

2009年02月23日 | 欧州・中東関連
[4]安全地帯
1992年 12 月18日、ユーゴ和平会議議長のD・オーエンは、セルビア人勢力の包囲が続くサラエボに降り立ち、ボスニアの人々に『西欧がこの紛争を解決してくれるなどと言う夢を見るな』と言う明確なメッセージを伝えた。彼はこの紛争は、軍事行動では解決できないと確信していた。しかし、これはこの時、既にセルビアの三分の二を占領していたセルビア人勢力にとっては思う壺であった。カラヂッチは、若しこの時、西欧の軍隊が一万の兵力を投入してセルビア軍の補給を断っていたらセルビア軍は、壊滅していたであろうと言って居た。
スレブレニッアは、数世紀の歴史を持ちながらも、モダンな町で、豊かな森林と温泉に恵まれ、人々を引き付けていた。ボスニアでの内戦が始まってから数か月の間に、ここは家を追われたイスラム教徒の避難場所になっていた。イスラム勢力は彼等を兵糧攻めにしようとして町を包囲する。
1993年の春、セルビア人勢力は大攻勢に出る。国連保護軍司令官P・モリヨンの話によると、彼等は民族浄化を目的として、イスラム教徒を一掃しようとしていたのである。勿論兵糧攻めもその一つの手段であった。モリヨン将軍は自ら食料輸送隊を率いてスレブレニッアに向かう。しかし、町の入り口で、輸送隊はセルビア人勢力に足留めされてしまう。セルビア人勢力は救援物資を持たなければ通してやると言い、通過させる道路を指定するが、その道路には地雷が仕掛けてあった。セルビア人勢力は、将軍を町に行かせる気は全く無かったのである。しかし、優秀な軍人でもある将軍は、地雷に耐え得る車両を先頭にして、地雷を踏み付け爆破させながらここを突破する。
1993年 3月11日、町に到着した将軍は民族浄化の惨状を目の当たりにする。この時期は未だ夜になると氷点下20度にまで下がる酷い寒さであった。将軍は町を守るイスラム教徒の指導者たちと会うが、彼等は最後まで戦い抜くという覚悟であった。
しかし、救援物資の補給路を確保してサラエボに戻ろうとする将軍を群衆が取り囲み、何故見捨てるのか?自分だけ逃げるのか?と迫る。そして将軍は人質になってしまった。
これは偶発ではなく、実はボスニア政府官僚のM・エフェンデッチから、スレブレニッアの指揮官に対して『イスラム教徒の身の安全が確保されるまで将軍を足留めせよ』と言う命令が出ていたのである。
将軍は町の郵便局に二日間監禁されたが、その後、民衆に向かい『私は意図的にここにきた。そしてここに止まる決意をした。皆さんは国連軍の保護下にある』と表明する。今まで捕らわれ同然の国連保護軍はたちまち拍手で英雄に変わってしまった。この将軍の行動は国連の方針を転換させることになる。つまり、それまで中立を保っていた国連保護軍がイスラム勢力側につくことになったからである。
これには、ニューヨークの国連本部は不意を突かれた形となる。英国国連大使のハネイは『将軍は危険な賭をした。あの時の彼の発言は異常事態の中での事とは言え、誤解を招く部分がある』と言っていたが、将軍の約束は直ぐに試されることになる。
1993年 4月 16 日のBBCニュースは『陥落寸前のスレブレニッアに関して、緊急協議するため国連安保理が開かれている』と伝え、国連非同盟ブロックのD・アリアは『あれほどの大量虐殺が現実に起こって居る以上、人道的措置が必要である』と表明し、スレブレニッアを『保護安全地帯』として宣言する決議案を提出する。この決議案に関しては、英国、フランス、ロシア等の間で激しい論争があった。どうやら『保護』と言う言葉に異議があったようで『攻撃の抑止』に止めるべきという意見であった。将軍の発言では、国連は正面からセルビア人勢力と対決する筈であったが、国連はそれを望んでいなかったのである。かくして『保護安全地帯』は一歩後退して『安全地帯設置決議』として国連で満場一致で採択され、積極的に国連が守るのではなく、当事者たちに攻撃しないように『要請する』に止まってしまったのである。
1993年 4月17日、現地では将軍が『スレブレニッアは安全地帯になる』との説明をするがどういう意味があるのか?の記者団からの質問には只、『安全地帯である』と繰返すだけであった。
翌朝、将軍はこの決議案をセルビア人勢力の司令官ムラヂッチに提示する。ムラヂッチは傲慢な態度でセルビア人がこんな物で黙って引き下がると思うのか?と威嚇し、交換条件としてイスラム勢力の武器の明け渡し時期の明示を交換条件に出してきた。そこで将軍はイスラム勢力司令官S・ハリロビッチに、武装解除をしなければ、スレブレニッアは消えてしまうと説得し、これを受諾させて漸く国連の面目を保つ。
しかし、この事は僅かばかりの国連兵士が駐留するだけで、イスラム勢力が武器を放棄したのであるから、セルビア側はやろうと思えば何時でもこの町を制圧できる状態になったのである。そしてこの町は大きな強制収容所となってしまった。
ユーゴの民族浄化はナチスの集団虐殺を思い起させていた。ホロコーストを生き抜いた作家のE・ウィーゼルは、クリントン米国大統領に『あの流血を止めるために、行動を起こすべきである』と訴えていた。紛争の終結を促すため関係各国は、米国と英国の元閣僚が作成した和平案『バーンズ・オーエン案』を提案する。それは三勢力の間で国土を分かち合い、十個の自治州に分け、緩い連合を作ると言うものである。しかし、この案では、セルビア人がそれまでの戦闘で制圧した地域を27% も減すことになっていた。
1993年 4月24日、オーエンはボスニアのセルビア人勢力を陰で支えている男、ミロシェビッチ大統領を訪問する。それはこの案を受け入れなければ、セルビアとその同盟国のモンテネグロへの制裁措置を強化すると言うことを伝えるためであった。問題はセルビア人が世界中に挑戦する気なのか?と言う事であると迫るオーエンに対して、ミロシェビッチは『我々の最低限の要求は、全ての民族を平等に扱うことであったが、バーンズ・オーエン案はそれを満たしていた』とは言ったが、彼等のもう一つの要求は、和平の調印後に、ボスニア政府が直ちに政府としての機能を失うと言うものであり、その要求が通ったので、彼は調停案を受け入れようと約束した。
1993年 5月 1日、オーエンはアテネに全ての当事者を集めて会議を開く。ボスニアのイゼトペーゴビッチ大統領、クロアチアのツジマン大統領は既にこの案に合意済であり、問題はボスニアのセルビア人勢力である。案の定、カラヂッチは『ミロシェビッチが受け入れると言ったが、これを受け入れたらボスニアのセルビア人勢力は孤立して終う』として反対する。しかし、オーエンは、ミロシェビッチならばボスニアのセルビア人勢力を説得できると信じていた。
ギリシャ首相ミツォタキスの『ここ、アテネで和平合意が成り、ボスニアに平和と調和がもたらされると信ずる』と言う言葉を受けて、ミロシェビッチはセルビア勢力の代表を別室に呼び、彼等を裏切る積もりはないとして説得する。カラヂッチの証言では『ミロシェビッチは、あの和平案はどうせ実行不可能なのだから』と言ったというが、ミロシェビッチによると『カラヂッチはあの和平案の利点を全く理解せず、彼の頭の中には領土問題のことしかなかった』と言っている。
新ユーゴ大統領のD・チョーシッチによると、夜の11時になっても彼等はカラヂッチを説得できなかった。そして翌日の昼、ミロシェビッチが、もう時間切れと諦め掛けた時にカラヂッチは漸く歯ぎしりしながら署名のペンを執る。
オーエンは『バルカン半島の太陽が輝くアテネでの合意が、ボスニア和平への記念すべき一歩となることを期待する』と会議を締め括った。
ボスニアのセルビア系テレビは『この合意に署名したことは自殺行為と言う訳ではない。それ所か、我々はボスニアの『セルビア人共和国議会』が、決定権を持っていることを世界に示せるのである』と解説している。
少し時間を溯って整理して、このボスニア内の『セルビア人共和国』に触れておく。
もともと、このボスニアは、イスラム教徒のスラブ人、セルビア正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人が混在し、地域の一体性を大事にしてきた。
1990年に、民族政党(民主行動党、セルビア民主党、クロアチア民主共同派)、民族を越えた政党(ユーゴ人党、ユーゴ民主党、ユーゴ農民党)、社会主義政党(改革勢力同盟、社会民主党)等の間で、自由選挙が実施される。この結果は、宗教を基盤とした民族意識が依然として強く、民族政党の圧勝となった。第一党に民主行動党、第二党はセルビア民主党、第三党がクロアチア民主共同派となる。この頃は未だ理性を備えており、共和国の分解を防ぎ、一体となるために連立政権を作り、第一党民主行動党々首イゼトベーゴビッチを大統領に選出する。こうしている間に、ユーゴ連邦自体の権限が弱まり共和国大統領が実質的権限を持つようになっていく。そして独立志向のスロベニア、クロアチアと連邦保持に固執するセルビアとモンテネグロの間に挟まってしまったのが、ボスニアとマケドニアである。
1991年 6月に、スロベニアとクロアチアが独立するが、クロアチア内では、セルビア人が内戦を始めてしまったので、ボスニア内のセルビア人も動揺する。9 月にマケドニアも独立すると、ボスニア議会は、独立反対のセルビア議員が退席する中で、第一党の民主行動党、第三党のクロアチア民主共同派が結束して『独立確認文書』を採択する。第二党のセルビア民主党が反対派に回ったので連立は崩れる。方や、人口の三分の一を占めるセルビア人は、11月に住民投票を行い、ユーゴ連邦への残留を確認する。更にセルビア人は、 1992年 1月に、『ボスニア=セルビア民族共和国』を創設し、連邦残留を再度確認した。
しかし、2 月、再びセルビア人がボイコットする中で、独立を問う国民投票が実施され、賛成票は 99%に達し、 4月に米国が独立を承認する。これから三民族の抗争が激化したのでありボスニアの『セルビア人共和国』とはボスニア内セルビア民族共和国の事である。カラヂッチは和平案に署名はしたが、これはボスニアのセルビア人共和国の承認が条件になっていた。                            1993年 5月 5日、その関係者たちはセルビア人勢力が『首都』であると主張する『パレ』に集まる。ギリシャの首相ミツォタキスも説得のために会場入りする。その議会でカラヂッチは、和平案について説明する。『あの和平案は大惨事を招く物である。和平案は受入れ難いものではあるが、戦い続けるのはもっと悲惨である』として署名者の義務を果す。来賓たちも次々に和平案の承認を促す演説をする。新ユーゴ大統領チョーシッチは『イスラム教徒主導のボスニアは有得ない』、モンテネグロ大統領ブラトビッチは『皆さんが反対すれば、それは敵国の思う壺である』、ギリャ首相ミツォタキス『和平案の拒否は自殺行為である』………である。
議会が旨く進行しつつあった頃、旧ユーゴ紛争で世界から戦犯の烙印を押されていた、ボスニアのセルビア人司令官ムラヂッチは、道路の落石事故で会場入りが遅れていた。
遅れて議会入りしたムラヂッチは前線の地図を広げ、オーエン案がいかにセルビア軍の占領した地域の明け渡しになるかを言い始めたのである。この時、ミロシェビッチとカラヂッチは、ゾッとしたと、後日漏らしている。
ムラヂッチの発言からオーエン案は議会から拒否され、一つのボスニアへの希望は葬り去られたのである。
そしてボスニア内セルビア人は、独自の国家建設に邁進する。所が、これを契機として、それまでイスラム教徒と同盟関係であったクロアチア人も、ボスニア南西部に独自国家建設を始める。この時、既にボスニアにとってはセルビア人との戦線が1.000 ㌔以上もありそれに加えて、クロアチア人との戦いが始まる事は何としても避けたかった。イゼトベーゴビッチ大統領はこのクロアチアと言う同盟相手を離すまいと必死であった。大統領は、クロアチアがボスニア南部を統合したがっていたのを知っていた。このような大統領の懸念は当たっている。それより以前にセルビア大統領ミロシェビッチとクロアチア大統領 ツジマンはボスニアの分割占拠について密約をしている。それは、1992年 5月 6日に或るテレビ局が、オーストリアでこの二人の会合を偶然にもキャッチしていたのである。
この時の取引に付いては、今まで秘密にされてきた。ボスニア内クロアチア人勢力代表のM・ボバンによれば、ボスニア内にクロアチア人の国家を作ると言う事は何年も前からの計画であると言う。
1993年の春、ボスニア内のクロアチア人勢力は、イスラム教徒との同盟を破棄して、モスタルを攻撃する。この戦闘はクロアチア大統領ツジマンが指示したものである。しかしツジマンの説明では、確かにモスタルには正規軍を投入したが、それはボスニア内のクロアチア人を守るためであり、ボスニアの中心部には兵を進めるなと命令してあったと言うがクロアチア軍の通った後の村は完全に破壊された。クロアチア人はそれまで支援を受けて来たイスラム教徒を裏切り、彼等を収容所に入れた。それも半地下で僅かな通気口があるだけの劣悪環境の古い燃料タンクにである。しかしイスラム教徒軍の必死の反撃でクロアチア軍の侵攻は食止められた。                  世界の新秩序を決めたベルリンの壁崩壊から、もう四年も経っていた頃である。  
米国はそれまでずっと、ボスニア紛争は欧州が解決すべき問題として傍観してきた。
1992年 5月のベーカー国務長官『一方に肩入れする形での米軍の派兵はない。我々は世界の警察官にはなり得ない』、1994年 1月のクリストファー米国務長官『ボスニアに地上軍を投入する準備はできていない』との発言はそれらを現していた。
しかし米国は遂に介入を決断、紛争解決に乗り出す。

米国特使C・レッドマンは、ボスニア問題を全て列挙して検討した結果、イスラム教徒とクロアチア人が連邦国家を形成すれば殆どの問題が解決することを発見する。そこで米国はツジマンに圧力を掛ける。
1994年 2月17日、米国はツジマンに『イスラム教徒との抗争を止めなければクロアチアに制裁措置を採る』と通告する。制裁措置が採られればクロアチアはセルビアと同様に孤立し、長期的に見て大きなダメージになる。その上、ツジマンには、クロアチア内での 27%にも及ぶセルビア人支配地域を取り戻したいと言う希望があリ、それには国際社会の支援が必要であった。ツジマンは、欧米諸国を敵に回したら勝ち目はないと計算して、米国の要求を了承した。クリントンは米国外交の勝利を味っていた。クロアチア人とイスラム教徒の紛争に終止符が打たれる協定書が調印されたからである。しかしセルビア人勢力との戦いは依然として続いているのである。
1994年 2月 5日、セルビア人勢力は、サラエボの市場を砲撃し 68 人が死亡する事件が起きる。クリントンは、サラエボの惨事に付いて顧問たちと協議する。得意の威嚇である空爆はNAT0の同意を必要とするので、空爆実施の同意を取るために、急遽レッドマンが欧州に派遣される。NAT0では緊急の会議が開かれるが主だった国は依然として紛争に巻込まれる事を避けたがって居た。難物と見られていた英国外相のD・ハードが空爆に同意し、NAT0は、セルビア人勢力に対して最後通告を突き付ける。条件は十日以内のサラエボ周辺からの重火器の撤去である。
しかしムラヂッチは、セルビア人には最後通告など通用しない、断固拒否すると言明し、カラヂッチも拒否する。
期限切れを四日後に控えて、英国のメージャー首相はモスクワを訪問する。セルビアに親近感を持つロシアが、NAT0の決定に激怒していたからである。ロシアが怒ったのは、NAT0がロシアに相談せずに事を決めてしまった事に起因する。エリツィンは、『ロシアを蚊帳の外に置いてボスニア問題を解決しようとしても決して成功しない。我々がそれを許さない』とかなりの勢いであった。しかし、NAT0側が、決して疎外したわけではないと釈明し、ロシアも行動を起こすように丁重に依頼したので、エリツィンも最後には同意するが、その詳細は明さなかった。
ロシア特使のV・チェルキンが大統領書簡を持ってボスニアのセルビア人勢力を尋ねる。セルビア人たちは、書簡を読上げ、ロシア大統領の意向が分かると態度が変わった。ロシア側は、セルビア人が重火器を撤去すれば、それと引き換えに彼等を守るためにロシアの軍隊を派遣する用意があると言う提案であり、カラヂッチはすぐに合意した。
1994年 2月21日、最後通告の期限切れの日、ロシア軍がサラエボ周辺に入り、NAT0の空爆は不可能になった。セルビア人勢力は、少し遅れて重火器を撤去する。サラエボ市民が安全に街を歩くことができたのは一年半ぶりの事である。セルビア人はサラエボに関しては妥協の道を選んだのである。
1994年 3月28日、『サラエボが将来に亘って分断されずに、一つの主権国家の首都であり続けるように願います』という米国国連大使M・オルブライトは、三十年前のケネディー大統領の『私はサラエボ人であった』と言う言葉を添えた。
しかし、セルビア人勢力はサラエボが結局空爆されなかった事に返って自信を持ってしまったのである。カラヂッチは、西欧に、特に米国にセルビア勢力はイスラム勢力を撃破する力があると言う事を見せ付けようとしていた。
1994年 4月、このカラヂッチが選んだのは、ボスニア東部の『ゴラジュデ』である。ここはスレブレニカと同様に国連の『安全地帯』に指定されていた処である。突然の攻撃に情報を伝えるのは無線しか無かった。しかし駐留していた国連保護軍は軍事行動を起さなかった。司令官のローズによると、『国連の決議によると保護軍の任務は抑止であり防衛とか保護ではない』として空爆の要請も控えた。明らかに報復を恐れたのである。五日後になって戦車が街に突入して来て始めて、司令官は空爆を要請する。   4 月11日が、NAT0初の空爆となった。しかしセルビア人は全く怯まなかった。ムラヂッチは、直ちに反撃に出て国連保護軍の要員を人質にとってしまう。ムラヂッチが国連保護軍は一人足りとも生かして返さないと脅迫するに及んでNAT0は、空爆の限界を思い知らされる。
4月15日、国連は人質釈放の交渉のため代表団を送る。漸く妥結した後、ローズ将軍から緊急連絡が入る。交渉しているすきにセルビア人たちは、ゴラジュデの国連軍を攻撃し始めたと言うのである。会議場のカラヂッチが現場指揮官のムラヂッチに確かめると、彼は国連軍は砲撃していない、もしそうなら国連軍のいる場所が指定の場所ではないと言う。調べると間違いは国連軍にあったのでローズは空爆命令を取り下げ、セルビア人は益々調子に乗り、NAT0など恐れるに足りない、もう誰もセルビア人に手を出せないと思うように成った。その日、ボスニア側は国連にこの失態に対して激しく怒りをぶつける。この時の国連代表が明石氏である。しかし米国はその威信を懸けてそのままでは引下がらなかった。クリントンは『彼等は病院や国連軍を砲撃し、国連兵を人質にした。侵略者は彼等である』と演説し、再びNAT0に空爆を要請、米国は二度目の最後通帳を突き付ける。この時、明石代表は一人セルビアとの話し合いによる解決をしようとした。もうアドリア海にはNAT0の 200 機が出撃に備えているのにである。彼がミロシェビッチ、カラジッチと共に撤退の合意を発表したのは23日の期限切れ寸前であった。しかしセルビア人勢力は国連とNAT0が示した条件には従わなかった。国際社会を恐れる必要はないと言うのがセルビア人勢力の答えであったのである。この失態で明石氏は解任となる。
1995年 7月にはもう一つの安全地帯スレブレニツアも、8 月には同じく安全地帯の筈の ジェバも制圧される。国連保護軍が入っていたサラエボでも一万人の民衆が殺害されたが国連軍はそれを只、見ていただけであった。                

最新の画像もっと見る

コメントを投稿