クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

陸軍中野学校とは?

2009年02月23日 | 日本関連
            影の軍隊・陸軍中野学校

[奇妙な学校]                                 戦争終結から 25 年目の1974年 3月 12 日、日本の国内は、フィリピンの小島から帰って来た一人の男のことで沸き返っていた。その男とは、元陸軍小尉小野田寛郎である。そして、日本の国民は彼の行動に驚かされる。彼は日本の敗戦を知らなかったわけではない、彼はそれでも一人で戦争を続けていたのである。そして彼の登場は一つの秘密の組織の存在を浮かび上がらせる事になった。かって日本陸軍の最高機密とまで言われていたその組織とは『陸軍中野学校』である。
1935年頃より、日本は大戦への坂道を転がるように歩んでいた。終りの見えない中国大陸での戦闘、国内では二.二六事件などの青年将校による決起・反乱、加えてソ連国境でのきな臭い匂いがあった。こうした中で陸軍は1938年に、東京九段に一つの学校を設立している。その目的は欧米に遅れていた諜報戦を戦う兵士の養成、つまりはスパイ養成学校であった。翌年、中野に移転した事から陸軍中野学校と呼ばれたその学校の存在は、国民はおろか、軍の上層部の者も極く一部しか知らない極秘の事であった。
一人で一個師団20.000人の働きをすると言われた中野学校出身者ではあったが、その活躍が公にされることはなかった。或る者は外交官として、又或る者は商社マンとして、そして最後はゲリラとして人知れず消えて行ったのである。            黒子に徹して長く沈黙を守ってきた中野学校の男達、その中の数人が少しずつ重い口を開くようになってきたし、門外不出とされてきた活動の詳細を纏めた『陸軍中野学校』と言う記録集が『中野校友会編』として世に出た。この記録集は、終戦後 33 年目にして男達がしたためた鎮魂の記念碑である。1945年の終戦までの間、中野学校を後にした男達は  2.504名、彼等は昭和と言う時代の影で歴史を作ったのである。

諜報戦のエリートである中野学校の男達は、その多くが職業軍人ではなく、大学、高専出身者から選抜されて集められた者たちである。この学校では、型に嵌まった軍人として優秀な者は必要ではなく、発想・行動に柔軟性やユニークさと卓越した語学力を求められたのである。彼等の養成期間は僅かに一年余り、この間に彼等は優秀なスパイとして教育されたのである。
戦後になって、大映が市川雷蔵・加東大介の主演、監督・増村保造で実話に基づいてシリーズとして『陸軍中野学校』と言う映画を何本か作っているので、この学校で男達がどうして選ばれ、どのように教育されたかを少しは知り得た。しかし媒体が映画と言う事で幾ら実話と銘打たれていても、実感としては伝わりにくかった。
実際には、この学校の看板には『陸軍省通信研究所』と書かれていた。彼等は実際の戦場で銃をとって戦うより、後方にいてその特殊な任務に就かせたほうが、良いとされて選別されたのである。この学校に入った瞬間から、彼等は今までの人生に別れを告げ、新しい人間に生まれ変わる事になる。その第一歩は偽名を名乗ることであり、更に軍服の着用、坊主頭は禁止され、背広姿で髪を伸ばす事が指示される。軍隊に付き物の敬礼も階級制度もここでは全く意味を持たなかった。身に付いた軍人の匂いを消し去る必要があったのであり、平凡な一市民になりきる事だけが求められたのである。
当時の軍人は、戦闘で華々しく死ぬのが名誉であり、誇りでもあったが、彼等は徹底的に生き抜いて相手の情報を掴む事を要求され、『牒者は語らず死なず』が基本であった。
彼等を待っていたのは武術は元より、あらゆる分野のスペシャリスト教育であり、暗殺のための毒薬の扱い、手紙の開封技術から、果ては金庫破りの技法、暗号の作成と解読、破壊工作の基本である爆発物の製造と取扱、諜報作戦の小道具の扱いなどである。
闇の世界の男達を記録したこの本の中には、彼等に似つかわしくない言葉が出てくる。それは『諜報は誠なり』と言うものである。彼等は行動基準を『至誠』に置いたのである。特に他民族との接触に於いてそれは絶対不可欠のものであるとされた。つまり諜報活動を成功させるには、先ず信頼関係を勝ち取ることが第一条件とされ、その為にこの基本精神が必要であったのである。そして一年余り後、彼等はその精神を抱いてここを巣立っていった。この門を潜った後は再び会うこともなく、例え道で擦れ違っても他人であった。彼等の未来には、広大なそして暗い戦場が待っていた。

[静かな戦争]
1940年、既に四年目を迎えた日中戦争は泥沼化していた。その最中に、日本は日・独・伊の三国同盟を結び、満州建国を認めない国際連盟脱退以来の国際的孤立を深めていた。
最早止め様もない時代の流れの中で、日本は着々として戦争の準備を推し進める。その影で宣戦布告のない静かな戦いの中核となったのが、中野学校出身の男達であった。
この当時、中国の占領地区には、多くの日本の特務機関が設置されている。特務機関とは諜報・特殊工作に従事する軍の組織であり、その中心は中野学校の出身者であった。
海外に赴任した彼等は、特務機関に属しながら身分を隠し、一般人として任務に就いていた。その一つに『伝書使クリエル』と呼ばれた大使館の連絡業務があった。この伝書使は外交官に準じた特権を持つ重要な扱われ方をしていたのである。
東シベリヤの『チタ』、この町にあった満州国領事館の唯一にして最大の業務こそ、極東ソ連軍の監視であった。1939年からこの地で伝書使として諜報活動した或る中野学校一期生の場合、彼の日課はソ連の新聞を丹念に読み、そこから情報を探すことであったが、一方で伝書使としての身分を利用したモスクワへの旅を頻繁に行う。このモスクワへの往復に使われるシベリヤ鉄道の車内での緻密にして細心の沿線の観察も彼の最大の情報源であった。信号機の数から割り出す距離、鉄橋の強度、有事の際のソ連軍の輸送能力は言うに及ばず、橋の長さから構造も調べ、どこを破壊すれば輸送能力を減退させられるか?を観察するのである。
又別の一期生の場合は、表向きは外務省の職員としてインドに赴任している。当時のインドは英国の支配下にあって情報のガードは堅かった。その赴任の直前、彼は何故か急に結婚している。1941年にベンベイに赴任するが、どこへ行くにしても妻同伴と言うことは都合が良かった。一人なら警戒されるような場所も、同伴なら比較的入りやすかったからである。この年の10月、彼はいつものように妻を伴ってボンベイ港を見て回ったが、彼の視線はそこにあった巨大な鉄の塊に吸い寄せられた。そこで見たものは、英国が誇る最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェルズとレパルスである。本来大西洋に配備されている筈の艦隊がどうしてインドにいるのか?日本と米国が外交交渉をしている間に、英国は着々として対日戦争の準備をしていたのである。開戦直後、この両戦艦の撃沈のニュースは、日本国民を狂喜させたが、この情報はこうして彼等によってもたらされていたのである。
『杉工作』と言う非合法の謀略に関与した出身者の場合、悪名高い登戸の第九陸軍技術研究所、通称『陸軍登戸研究所』で密かに行われていた各国紙幣の偽造に絡んでいる。中でも中心となったのは『中国法幣』であり、終戦までの 6年間に凡そ 46 億元が製造されている。この紙幣は、香港で接収した本物の原板から作ったから偽札とも言えないが、非合法印刷であるから実質贋札である事には違いない。この紙幣を中国経済の攪乱のために中国への搬入をしたのが、中野学校の出身者である。当時の金で 25 億元と言う途方もない紙幣が持ち込まれた。しかしこの輸送は、搬入者の正体は明かせないために、日本の憲兵からマークされ、困難を極めたと言われる。
こうした彼等の戦いとは別に、表の世界では大戦への秒読みが始まっていた。彼等も歴史の大きな流れに組み込まれて行ったのである。

[影の工作]
1941年、開戦の少し前にタイのバンコックに中野学校出身者が密かに集まり始めていた。当時のバンコックは、国際スパイたちの坩堝であった。ある男Yは、米国大使館の向かいのホテルのボーイとなり、米国側の情報収集に努め、同じくSの場合はM商事の現地駐在員として赴任し、商社マンの買い付けと称してジャングルの奥地まで入った。藤井千賀郎氏もそういう一人として、開戦工作に従事した。彼のやったことは、マレー半島上陸作戦の事前工作であり、潮の満ち引き、月齢、道路網、橋脚の強度、ごとの英軍の配備などを調査している。
そして 12 月 8日、真珠湾攻撃で対米開戦、時を同じくしてマレー半島の英軍とも戦闘を開始し快進撃をする。このうらには彼等の情報が生かされていた。        1942年 2月15日、開戦から僅か二か月にしてシンガポールは陥落する。当初の目的を果たした彼等の行動は、新たな標的へと向けられる。英軍捕虜の中にいたインド軍を説得して独立を促し英軍との戦いを有利にする作戦に携わる。一方、永年英国の植民地であったインド人にとってもこの独立は悲願であった。ここで結成された25.000の『インド国民軍』の団結と強化には、アジアの大国インドの独立の悲願と中野学校出身者の野望が秘められていた。
中野学校の関係者が理想とした人物がいる。『明石元二郎大佐』である。彼は日露戦争を勝利に導いた影の立て役者と言われる。日露戦争当時、ロシア国内は多くの矛盾を抱えていた。階級社会がもたらす貧富の差、そして混沌と退廃によって、民衆の怒りは爆発寸前であった。ロシア駐在武官としてこのことを見抜いていた明石大佐は、革命家レーニンと親交を結び、革命への援助をしたのである。明石大佐の目論見が当たり、国内の革命騒ぎに動揺したロシアは、極東へ兵力を向ける処では無くなってしまったのである。それが日露戦争で日本を勝利に導く大きな要因となったのである。レーニンたち革命家の信頼を得るための明石大佐の工作の根源にあったのが中野学校が目指す『誠』の精神であった。

[誠の男達]
藤井千賀郎氏らは、明石大佐に倣ってインドと手を結んで英国を倒す、このために独立連盟を作る事を呼び掛け、日本軍もそれに協力する事を約束する。彼等の姿勢の基本は、『FREEDOM・FRIENDSHIP』であり、『F』が彼等の心の旗印になった。こうした沸き上がるインド独立の機運によって『インド国民軍』が結成され、中野学校の男達がその訓練に当たることになるが、何よりも必要とされたのがこの運動の指導者となる人物であった。そこで浮かび上がってきたのは予てより注目されていたドイツに亡命中であった反英国派の闘士『チャンドラ・ボース』である。彼は独立派の中では、急進派であり、独立達成のためには誰の手でも借りると言う考えの持ち主であった。インド独立に燃えた彼の来日も実現する。この動きに後押しされてインド軍 20.000 、日本軍100.000 の壮大な作戦が開始される。英国軍の一大拠点インド領のインパールを、ビルマ側から攻略しようとした名高い『インパール作戦』である。しかしその進攻路には、アラカン山系と言う 3.000㍍を越す山岳地帯と道無き道が立ちはだかっていた。
これと同じ構想が、1942年秋の段階で出されていたが、ビルマとインドの国境には、日本アルプスのような山岳が何条も走ってるため、これを越えての進撃は軍事作戦として不可能と言う結論が出て中止になっていた。しかしこの時は違っていた。インド独立の機運によって日本軍は大きな賭に出る。しかもその二年前、藤井千賀郎氏らは既に作戦を視野にいれて現地を偵察し、詳細な地図を作成していた。
チャンドラ・ボースは、1897年の生まれ、カルカッタ大学・ケンブリッヂ大学卒業のインテリであり、帰国してから官僚になっていたが、1921年にガンジーの対英非協力運動に参加し、1930年にカルカッタ市長、1938年に国民会議派議長を務めている。しかし彼の急進的、革命的傾向の強さから会議派と合わず、1938年に脱退、ドイツ亡命中に第二次大戦が始まると、インド独立の立場から日本の対英戦争を支持し、1943年の来日のときはドイツからUボートを使っている。この時の来日の目的は、東条英機が提唱した大東亜会議であり、米英の『大西洋憲章』に対抗する『大東亜共栄圏』構想を世界に問う物であった。
この会議に出席した代表たちの大半は、日本の支援する傀儡政権の者たちであり、中華民国からは旺兆明政権の行政院院長、満州国の張景恵首相、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モー首相、自由インドのチャンドラ・ボースらであり、唯一の正統政府タイは代理人を送って距離をおき、ビプン首相は来日しなかった。仏印のドクー総督も欠席している。

こうして歴史的大作戦は、1944年 3月 8日に動きだした。しかし、現地の兵士たちの前には想像を絶する苦難が待ち受けていたのである。行けども行けども果てしない山、又山、その間には前人未到のジャングル地帯、輸送手段のトラックの進む道などどこにもない、結局は分解して人間が運ぶ有様であった。一方の食料の補給手段は、ジンギスカンの古事に倣って『ジンギスカン方式』と言われるやり方が採られる。それは牛や馬に荷物を運ばせ、やがてはそれらを食料とする作戦である。ここでも誤算が生まれる。何時までも続く道なき道に、後に食料となるべき動物たちが先に倒れていってしまったのである。
そして最後に恐れていたことが起きた。作戦の当初は一か月で終わると計画されていた行軍は、難渋を極めて遅れてしまい、インパールを目前にして雨季に入ってしまったのである。雨季の到来はマラリヤ・赤痢の蔓延等を引き起こし、疲弊し切った彼等から戦う力を奪ってしまったのである。これに追い討ちを掛けたのが、万全の体制で待ち構えた英国軍の総攻撃、日本軍は為す術もなく山野に屍を晒す結果となった。そして1944年 7月 10 日インパール作戦に中止命令が出され悲願は潰え去った。
中野学校の出身者たちは、敗走する日本軍と離れ、インド国民軍と共にタイのバンコック迄撤退する。藤井千賀郎氏もその中にいた。日本の作戦のために行われたインド独立工作ではあったが、彼等はインド兵との信頼で最後まで行動を共にした。それが彼等の『誠』の精神であった。尚、『ビルマの竪琴』の逸話もこの敗走の時に生まれたものである。

[彼等の栄光]
開戦以来の日本軍の勢いも余り長くは続かなかった。連合国軍の物量の前に、防戦一方となる日本軍、それは中野学校の在り方さえ変えていくことになる。
中野校友会編の『陸軍中野学校』の中に、『遊撃隊戦闘教令』と言うのがある。これは本来中野学校が目指した諜報戦の教育とは違っているものであり、ゲリラ戦を戦うための教育である。ゲリラ戦を戦うと言う事は、諜報戦が解体した場面でのことである。
1944年、静岡県二股に中野学校の分校ができる。ゲリラ戦の実戦教育のために、山中のこの地が選ばれたのである。ここで学んだ男達の参加した作戦の中に『義烈空挺隊』と言う作戦がある。本土決戦を前にして敵飛行場に強攻着陸して、敵のBー29を奪うと言う全く生還の望みのない作戦である。5 月 24 日の夜半、大型爆撃機 12 機に分乗して沖縄に向けて発進、強攻着陸を計った。米軍の記録に因ると着陸できたのはそのうちの一機であり、機内から飛び出した10名の日本兵は、一昼夜飛行場の機能を麻痺させたが、米軍によって殲滅されている。しかしこのことを知らせる新聞記事は、常に影の存在であった中野学校の男達が残した唯一公になった戦いの記録である。
時は流れて、日本は平和を謳歌していた。その日本人を驚愕させるニュースが飛び込んできた。それは二股分校生き残りの小野田少尉の発見であった。
いつの頃からか、フィリピンの小島・ルパング島に生存する一人の日本兵のことが囁かれるようになっていた。小野田寛郎陸軍少尉、1950年にその生存が確認されて以来、幾度と無く日本・フィリピン両政府の捜索活動が行われていた。その都度、言葉を尽くし、あらゆる手段を使ってジャングルに潜む彼に、戦争の終結、平和の到来を伝えた。しかし、どんな呼び掛けにも彼が応ずることはなかった。この彼の堅くなさに、お膝元のフィリピンは勿論、日本の人も困惑し首を傾げたものである。そんな彼のことが手にとるように分かるものがいた。中野学校の者たちである。戦後、謎の事件が起きる度に噂されたその存在しかし彼等は沈黙を守り続けた。それが闇に生きてきた男達の宿命であった。それでも今回は、彼等は友のために立ち上がった。中野学校の男達の採ったのは、彼等にしか分からない方法であった。それは彼等だけが知っている中野学校の校歌を歌って、ジャングルにいる小野田に呼び掛けたのである。
                                        『赤き心で 断じて為せば 骨も砕けよ肉、又散れよ 君に捧げて微笑む男児 
要らぬは手柄 浮き雲のごとき 意気に感ぜし人生こそは 神よ与えよ万難我に』
やがて一人の冒険家で鈴木と言う日本人青年との接触を切っ掛けとして、小野田は姿を現した。中野学校の男達は、小野田にフィリピン行を命じた当時の上官・谷口を探しだし、彼に帰還命令の伝達を依頼した。それがこの男達のやり方であった。
1974年 3月 9日、谷口は現地で復員命令を下達する。こうして小野田の長かった戦争は終りを告げた。
かって、陸軍中野学校と言う組織があった。黒子となって生きてきた男達、しかし紛れも無く彼等は昭和と言う時代の影で歴史を作った男達であったのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿